ポリニャック伯夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
ポリニャック伯夫人
ポリニャック伯夫人 ジョシュア・レノルズ

ポリニャック伯夫人(Comtesse de Polignac)、本名ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ドゥ・ポラストロン(Yolande Martine Gabrielle de Polastron, 1749年9月8日 - 1793年12月9日)は、フランスルイ16世王妃マリー・アントワネットの寵臣。

[編集] 略歴

1767年にポリニャック伯爵(後に公爵)と結婚したが、嫁ぎ先のポリニャック家は、代々ブルボン王家に仕え、特にメルシエ枢機卿ルイ14世ルイ15世の代表的な外交官として重用された家柄であった。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人1678年に起こした黒ミサ事件に関与者を出し、またメルシエ枢機卿自身もメーヌ公爵夫人のクーデター計画事件に関与して失脚したため、家運は衰退していた

ポリニャック伯夫人はマリー・アントワネットに取り入り、彼女に大変に気に入られ、以降はマリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノン宮殿に招かれる王妃の数少ないお気に入りの取り巻きの1人となった。ポリニャック伯夫人は夫のポリニャック伯爵共々、国王夫妻の友人として権勢をほしいままにし、ポリニャック家には年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられた。

しかし、フランス革命が起きるとポリニャック伯夫人は国王夫妻を真っ先に見捨てオーストリアに亡命し、ウィーンで急死した。

オノーレ・ミラボーはマリー・アントワネットのポリニャック家への偏愛を苦々しく思い、こんな言葉を皮肉として残している。「ダサス家の家族には国家を救った手柄により1000エキュ、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ!!」

次男ジュール王政復古後にフランスに帰国して、シャルル10世の時代にフランスの首相になった。だが、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、フランス7月革命の一因になったと言われている。三男メルシオール(カミーユ)の子孫ピエールは、モナコ大公ルイ2世の長女シャルロットと結婚し、レーニエ3世をもうけた。ポリニャック家は現在のモナコ大公家の男系の先祖となっている。

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語