ポメラニア公国

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ポメラニア公国
Herzogtum Pommern
リューゲン公国 1121年 - 1637年 スウェーデン領ポメラニア
ポンメルン州 (1653年 - 1815年)
ポメラニア公国の国章
(国章)
ポメラニア公国の位置
ボギスラフ14世英語版が治めたポメラニア公国
首都 シュテッティン
ポメラニア公
1121年 - 1135/36年 ヴァルティスラフ1世
1620年 - 1637年 ボギスラフ14世英語版
変遷
ヴァルティスラフ1世ポメラニア公に即位 1121年
ヴォルガストとシュテッティンに分立(ボギスラフ5世英語版の下で再統合) 1295年-1478年
オーバーザクセン・クライスに参加 1512年
再びヴォルガストとシュテッティンに分立 1532年
ボギスラフ14世英語版の死 1637年3月10日

ポメラニア公国ドイツ語: Herzogtum Pommern)は、バルト海南岸のポメラニアにあった西スラヴ系の公国。

歴史[編集]

1109年ポーランドの大公ボレスワフ3世曲唇公が「ポメラニア人」と呼ばれる異教のスラヴ系諸部族が支配していたポメラニア一帯(リューゲン島リューゲン公国英語版を含む)を平定。1121年ポメラニア人のグリフィン家英語版ドイツ語でグライフェン家、ポーランド語でグリフ家(グルィフ家)と呼ばれる)のヴァルティスラフ1世を自らの臣下として封じて公国が成立。

ボレスワフ3世曲唇公はポメラニア公国全体のキリスト教化を目指し神聖ローマ帝国皇帝ロタール3世に協力を依頼。バンベルクよりオットー司祭が招かれ、大公はポメラニア公国全体のキリスト教化に成功するものの、ローマ・カトリックコスモポリタニズムの教義を忠実に守るポーランドは皇帝にポメラニア全体を献上し、ポーランドによるポメラニア支配は1138年に終了。その期間を通じてヴァルティスラフ1世は公国の政治的統一を進めた。

後には神聖ローマ帝国とデンマーク王国との間でポメラニアの支配権をめぐる抗争が勃発(第1次分割 1155-1264)。1219年にデンマークが公国の支配権を確立する。1227年には、旧リューゲン公国領を巡ってデンマークと東方植民以降勢力を拡大しつつあったハンザ同盟ホルシュタイン伯(de:Grafschaft Holstein)との間でen:Battle of Bornhöved (1227)が勃発した。

1295年en:Partitions of the Duchy of Pomeraniaで Pomerania-Demmin と Pomerania-Stettin に分割された(第2次分割 1295-1368)。第3次分割 (1368-1376)。第4次分割 (1376/1377-1478)。14世紀末にはポンメルンのエリクことエーリク7世(ポメラニア公ヴァルティスラフ7世英語版の子)がノルウェー(在位1389年 - 1442年)、デンマーク(在位1396年 - 1439年)、スウェーデン(在位1396年 - 1439年)の国王に選出されている(カルマル同盟)。1464年にPomerania-Stettin領有権を巡って Pomerania-Wolgast と Brandenburgからのクレームでen:Brandenburg–Pomeranian conflictが起こり、en:Treaty of Prenzlau(1472、1479)で Pomerania-Wolgast に併合された。

第5次分割 (1531-1569)。第6次分割 (1569-1625)。三十年戦争1618年 - 1648年)中の1637年3月10日に最後のポメラニア公ボギスラフ14世英語版が亡くなり、シュテッティン条約英語版ブランデンブルク=プロイセンポンメルン州英語版スウェーデン領ポメラニア英語版に分割され消滅した。

消滅後の歴史[編集]

公国は長きに渡り分断された末、1814年キール条約でブランデンブルク=プロイセンから発展したプロイセン王国によって統一されポンメルン州英語版ドイツ語版となったものの、公国として復活する事はなかった。称号としてホーエンツォレルン家によるドイツ皇帝の称号の一つとなり、ドイツ帝国が消滅する1918年まで用いられた。1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約でポーランドへ割譲されポーランド回廊と呼ばれ、東プロイセンがドイツ本国から分断された。

関連項目[編集]