ポチョムキンの階段

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座標: 北緯46度29分21秒 東経30度44分36秒 / 北緯46.48917度 東経30.74333度 / 46.48917; 30.74333

ポチョムキンの階段。高いところから見ると、階段と踊り場が同時に見える。

ポチョムキンの階段(ポチョムキンのかいだん、ウクライナ語: Потьомкінські сходи, Pot’omkins’ki Skhоdy, ロシア語: Потёмкинская лестница, Potyomkinskaya lestnitsa. 英語: The Potemkin Stairs )は、ウクライナオデッサにある、巨大な階段である。この階段は海の方角からオデッサ市街地の玄関口と考えられ、オデッサの象徴として知られる[1]

現在、公式には「プリモスキー(Primorsky)の階段」として知られる[2] 。これらは元来「ブルヴァルド(Boulevard)の階段」、「巨大階段」[3] 、あるいは「リシュリュー(Richelieu)の階段」として知られていた[4]

最上段のステップは12.5mの幅であり、最下段のステップは21.7m幅である。階段は27mの落差で、距離は142mである。しかしそれはもっと広い規模の錯視を与えている[5][6][7]

階段は錯視を作り出すためにデザインされている。階段を見下ろす人には踊り場だけ見えて階段は不可視である。しかし階段を見上げる人には、階段だけ見えて、踊り場は不可視である[1][8]。 階段は上より下のほうが広いので、二次的な錯視は偽の視点を作り出している。階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、階段を見下ろすと階段をそれほど長いようには見せない。

歴史[編集]

ロシア帝国時代の建設[編集]

1850年ごろのポチョムキンの階段を描いたもの。階段が高台の市街地と港を結ぶために建設されたことがよくわかる。

ステップの高台に位置するオデッサは、その下の湾に向かって直接通じる必要があった。階段が建設される前、曲がりくねった道と粗末な木造の階段だけが湾へのアクセスであった[1]

1825年フランシスコ・ボッフォサンクト・ペテルブルクの建築家アフラアアム1世・メルニコフポッテによって元来の200段の階段がデザインされた[1][8][9]。階段の建設費用は80万ルーブルであった[1]

1837年に、「怪物のような階段」を建設する決定がなされ、1837年から1841年までの間に建設された。英国の技術者ジョン・アップトンが階段を建設した。アップトンは偽造罪で保釈中に英国から逃亡していた[10]。建設の材料にイタリアトリエステ(当時はオーストリア帝国領)の緑灰色の砂岩が船で輸送されてきた[1][2][8]

ソ連時代に「映画史上もっとも有名な階段」に[編集]

オデッサの階段の虐殺 。映画『戦艦ポチョムキン』 (1925年)から。

階段はセルゲイ・エイゼンシュテイン1925年サイレント映画戦艦ポチョムキン』で有名になった。作品の中の架空の場面によれば、1905年の7月14日に、兵士たちが階段にいる人々に発砲したのである。ジャーナリストのコルネイ・チュコフスキーによれば、かれは事件当時オデッサにいたのだが、コサック兵が階段の上にいたかどうか、人々で階段がいっぱいになっていたか、発砲が実際に行われたかは不明であるという。

エイゼンシュテインの映画にいて、実際にあらゆる都市で発生した戦慄すべき出来事はこの階段において凝縮されたのである。同様のメソッドは後世の写真家に使用され、芸術家のアレクセイ・チタレンコは「影の都市」のシリーズで、サンクト・ペテルブルクの地下鉄の駅の近くの階段にいる、どん底の人々からなる群衆を、人間の悲劇の象徴の一つとして使用している [11]

ロジャー・イーバートが書いた映画批判にはこう記されている。

皇帝派たちによるオデッサの階段の虐殺は、事実ではなかったことが、このシーンの説得力を減少させた…エイゼンシュテインがこのシーンをあまりに素晴らしいものにしたために、今日ではオデッサの階段の流血がまるで本当に起きたかのように頻繁に言及されるのは皮肉なことである

[12]

淀川長治は『戦艦ポチョムキン』の解説でこう述べている。

後にこの階段は、どれだけパロディーで使われたかわかりませんね。エイゼンシュテインは本当に映画、良くつくりました。立派でした

[13]

改修[編集]

浸食による階段の破壊にともない、1933年には砂岩南ブーフ川地域のローズ・グレーの花崗岩に取り換えられた。さらに踊り場がアスファルトで覆われた。港が拡張されたとき、階段のうち8段が砂の下に失われ、階段の数は192段、踊り場は10となり縮小された[1][8]

階段の左側には、1906年に、人々を徒歩の代わりに輸送するためにケーブルカーが建設された[要出典]。建設から50年後の1970年代、ケーブルカーはエスカレーターに取り換えられた[8]。エスカレーターは1990年代に故障し、修理する費用はなかったが[要出典]、それも2004年に新しいケーブルカーに取り換えられた[2]

『戦艦ポチョムキン』後の名前の変遷[編集]

ロシア革命後の1955年に「プリモスキーの階段」は、映画『戦艦ポチョムキン』公開50周年を記念して「ポチョムキンの階段」と再命名された[14]

ウクライナ独立後、ポチョムキンの階段は、オデッサの多くの通りと同様に、元来の名前「プリモスキーの階段」に戻った。しかしほとんどのオデッサ市民は今もこの階段のソビエト時代の名前を知っており、この階段に言及するときは「ポチョムキンの階段」と呼ぶ[2]

リシュリュー公のモニュメント[編集]

階段の頂上には、リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシを描いたモニュメントが立っている。彼はフランスの貴族であり、1803年にオデッサ初代知事になった。ロシアの彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトス(1754–1835年)はこの古代ローマのトーガとクラッドをまとった姿をデザインした。彫像はイェフィモフによってブロンズに鋳造され、1826年に発表された。オデッサに最初に建立されたモニュメントである[15][16][17]

ギャラリー[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d e f g Herlihy, Patricia (1987, 1991). Odessa: A History, 1794-1914. Cambridge, MA: Harvard University Press. ISBN 0-916458-15-6, hardcover; ISBN 0-916458-43-1, paperback reprint.  p. 140
  2. ^ a b c d Primorsky (Potemkin) Stairs”. 2odessa.com. 2006年8月2日閲覧。
  3. ^ Karakina, Yelena; Tatyana Samoilova, Anna Ishchenko (2004). Touring Odessa. BDRUK. ISBN 966-8137-01-9. http://shop.russia-on-line.com/books/book.php?id=9668137019.  p. 32
  4. ^ Prince Michael Vorontsov: Viceroy to the Tsar. McGill-Queen's Press - MQUP. (1990). ISBN 0-7735-0747-7.  p. 119. Referencing USSR: Nagel Travel Guide Series. New York: McGraw Hill. (1965).  p. 616
    *Bell, Christopher M; Bruce A Elleman (2003). Naval Mutinies of the Twentieth Century: An International Perspective. Routledge (UK). ISBN 0-7146-5460-4.  p. 18, 25
    *Montefiore, S Sebag (2001). The Prince of Princes: The Life of Potemkin. St. Martin's Press. ISBN 0-312-27815-2.  p. 498 "The Richelieu Steps in Odessa were renamed the "Potemkin Steps"...
    *Woodman, Richard (2005). A Brief History Of Mutiny: A Brief History of Mutiny at Sea. Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-1567-7.  p. 223
  5. ^ Herlihy, p. 140 "12.5 metres wide and 21.5 metres wide"
  6. ^ Kononova, p. 51 "12.5 m at the top and 21.6 m at the bottom"
  7. ^ Karakina, p. 31 "13.4 and 21.7 meters wide"
  8. ^ a b c d e Kononova, G. (1984). Odessa: A Guide. Moscow: Raduga Publishers. http://www.2odessa.com/wiki/index.php?title=Odessa_a_guide#51.  p. 51
  9. ^ Kononova confusingly writes on page 48, "The idea of an architectural ensemble with a broad flight of stone steps leading to the sea which links the high bank with the low shore and provides a gateway to the city, belongs to the well-known St. Petersburg 19th century architect w:Avraam Melnikov." But on page 51 writes, "The famous Potemkin stairs leading from the square to the sea and Uiltsa Suvorova (Suvorov St.) was designed in 1825 by F. Boffo".
  10. ^ Reid, Anna (2000). Borderland: A Journey Through the History of Ukraine. Westview Press. ISBN 0-8133-3792-5.  p. 61
  11. ^ Protzman, Ferdinand. "Landscape. Photographs of Time and Place." National Geographic, 2003, ISBN 0792261666
  12. ^ “The Battleship Potemkin (1925)”. Chicago Sun-Times. http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19980719/REVIEWS08/401010302/1023 
  13. ^ *IVC 淀川長治解説ページ
  14. ^ Karakina, p. 31
  15. ^ Duc de Richelieu Monument”. 2odessa.com. 2006年8月2日閲覧。
  16. ^ Kononova, p. 48
  17. ^ Herlihy, p. 21

関連項目[編集]

外部リンク[編集]