ホーギー・カーマイケル

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ホーギー・カーマイケル
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基本情報
出生名 Hoagland Howard Carmichael
出生 1899年11月22日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
インディアナ州ブルーミントン
死没 1981年12月27日(満82歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ランチョミラッジ
ジャンル ジャズ, ディキシーランド・ジャズ
スウィング・ジャズ,
職業 作曲、ピアニスト, 歌手、俳優
担当楽器 ピアノ
活動期間 1917年1981年
共同作業者 ルイ・アームストロング
デューク・エリントングレン・ミラー
公式サイト Hoagy Carmichael

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ホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael, 1899年11月22日1981年12月27日) は、アメリカ合衆国作曲家歌手ピアニストバンドリーダー

生涯[編集]

本名は、ホーグランド・ハワード・カーマイケル(Hoagland Howard Carmichael)。インディアナ州ブルーミントンに生まれる。電気技師の父親と、ピアニストの母親の子として生まれる。6歳のときよりピアノと歌を始める。中学高校と、あまり裕福でない生活を送り、オートバイのチェーン工場や食肉工場で働くこともあった。

18歳のときピアノで稼ぎ始め、インディアナのジャズの大御所のレッグ・デュヴァル(Reg DuValle)と頻繁に共演し、デュヴァルよりジャズ・ピアノの即興演奏を学ぶ。インディアナ大学に入学して、ピアノで学費を稼ぎながら1925年に卒業し、1926年インディアナ大学ブルーミントン校ロー・スクールを卒業し学位をとることとなる。学生生活のかたわら、ビックス・バイダーベックのバンドで演奏し、コルネットにも挑戦するが失敗する。ビックスの即興演奏およびクラシック音楽の感覚を学ぶ。ビックスの紹介で、ルイ・アームストロングに会う。このころより、作曲を始めている。1924年『リバーボード・シャッフル』(Riverboat Shuffle)を作曲し、レコード録音がされる。1926年、マイアミ州で弁護士の仕事につきインディアナ州に戻っても続けるが、1927年に弁護士業務をやめて音楽業界での活躍に専念する。

1927年、ジャズのスタンダード・ナンバーで知られる『スターダスト』を作曲する。インディアナ州リッチモンドの Gennett 社より、作曲者カーマイケルのピアノの演奏でのレコード録音されたのがヒットする。この曲には、ミッチェル・パリッシュ(Mitchell Parish)によって歌詞がつけられる。この曲は、全世界中に知られ、日本でも広く聴かれ第11回NHK紅白歌合戦(1960年度)の歌唱曲にもなりザ・ピーナッツらにカヴァーされている。1930年我が心のジョージアを作曲するが、この曲もヒットして、レイ・チャールズのカヴァーで後々まで世界中の聴衆に知られるようになる。1931年に、米国作曲家作詞家出版者協会に加盟する。多くの曲を作曲し、また演奏もして、人気を集め、スウィング・ジャズの全盛期に、一斉を風靡する。1937年から、ピアニスト役その他で、映画に出演している。1942年には、スカイラーク(Skylark)を作曲する。1952年には、映画「花嫁来たる」の曲『冷たき宵に』(In the Cool, Cool, Cool of the Evening)で、アカデミー歌曲賞を受賞する。1953年に、アメリカのテレビ番組 "Saturday Night Review" の司会者に抜擢されたが、しばらくして辞めている。1959年から1963年にかけてアメリカのテレビ局NBCで放映され、日本でもNETで放映された『ララミー牧場』(Laramie)にも、出演していた。

1960年にレイ・チャールズがふたたびヒットさせた『我が心のジョージア』が注目されるものの、作曲者のカーマイケルはレコード業界と折り合いが悪くなったが、作曲活動は続けられている。1962年封切りの映画『ハタリ』で、自分であるはずの音楽担当責任者をヘンリー・マンシーニに代えられることもあった。1971年に、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame) に殿堂入りを果たす。

1981年12月27日、カリフォルニア州で、心不全で死亡する。82歳であった。

主要作品[編集]

外部リンク[編集]