ピーター・マンデルソン

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ピーター・マンデルソン
Peter Mandelson
生年月日 (1953-10-21) 1953年10月21日(70歳)
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドン
出身校 オックスフォード大学セント・キャサリンズ・カレッジ
所属政党 労働党

内閣 ブラウン第3次改造内閣
在任期間 2009年6月5日 - 2010年5月11日

内閣 ブラウン第2次改造内閣
在任期間 2008年10月3日 - 2009年6月5日

欧州連合の旗 欧州委員(貿易担当)
内閣 バローゾ委員会
在任期間 2004年11月22日 - 2008年10月3日

内閣 第1次ブレア内閣
在任期間 1999年10月11日 - 2001年1月24日

内閣 第1次ブレア内閣
在任期間 1998年7月27日 - 1998年12月23日
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マンデルソン男爵、ピーター・ベンジャミン・マンデルソン: Peter Benjamin Mandelson, Baron Mandelson1953年10月21日 - )は、イギリス労働党の政治家。

イギリスの首相を務めたトニー・ブレアの参謀・黒子役として有名であり、メディア操作に巧みな才能を示したことから、「スピン・ドクター」の異名をとった。

経歴[編集]

政界入りまで[編集]

オックスフォード大学聖キャサリン校英語版で政治・経済・哲学の学位を習得。労働党に入る前は、日本では『特捜班CI5』で有名なロンドン・ウィークエンド・テレビの番組「ウィークエンド・ワールド」のプロデューサーなどを務め、有力政治家とのインタビュー番組を手がけて評判をとっていた[1]

祖父に、戦時中内務大臣を務めたハーバート・モリソンがおり、元々政治への興味が強かった彼は、1979年にロンドン・ランベスの区議会議員に当選する。働きぶりが後の労働党党首・ニール・キノックの目にとまり、1975年から党本部の報道担当責任者としてスカウトされる[2]。党の近代化に向け動き出していたトニー・ブレアと関係を深めたのもこの頃であり、ブレア、キノックらと協力し、党内左派の発言力を弱めるべく手腕を発揮した。

ニューレイバーの黒子役[編集]

その後、1992年の総選挙で庶民院議員として立候補することを決断するが、党首キノックはマンデルソンの出馬に乗り気ではなかった。このとき彼の力となったのがトニー・ブレアで、マンデルソンはブレアの隣の選挙区であるハートルプール選挙区から出馬。ブレアは自分の選挙参謀をマンデルソンにつけたり、自宅の一室を貸し与えるなど、協力を惜しまなかった[2]。このブレアによる援助もあり、初当選を果たす。

その後、トニー・ブレアゴードン・ブラウンらと共に「モダナイザー」と呼ばれる党近代化を目指すグループの筆頭格となり、「ニューレイバー」建設のために奔走する。キノック党首辞任後の党首選では、ブレア擁立こそ実現しなかったものの、党首選直後の日曜紙サンデー・タイムスに「待機中の労働党新リーダー」と銘打ってトニー・ブレアを取り上げさせるなど、着々と布石を打った[3]

1994年、党首ジョン・スミスが急死すると、モダナイザーグループからの党首候補者として、ブレアとブラウンのどちらかを推すのかという問題が現実的なものとなった。ここでのマンデルソンの行動ははっきりとはしないが、ブレア擁立のために水面下で動いていたことは確実である。多くの支持を取り付けたブレア陣営は党首選に勝利し、新党首に就任する。それまでブレア、ブラウン、マンデルソンの3人は同志的絆で結ばれていたが、これを機にマンデルソンとブラウンの仲は決定的に悪化してしまう。

1997年の総選挙で選挙キャンペーン・マネージャーとして労働党を大勝利に導いた。それ以来SPIN・DOCTOR(スピン・ドクター)の異名を持つ。

政権の表舞台へ[編集]

カスタードを投げつけられるマンデルソン

トニー・ブレア首相の腹心として貿易・産業相を務めるが、金銭がらみのスキャンダルで辞任。またこれは、ブラウンのスピン・ドクターチャーリー・ウェランによるリークであるとされている。その後もモー・モーラムの後を引き継いで北アイルランド大臣英語版になるが[4]、インド人のイギリス市民権取得に絡むスキャンダルで再度辞任。

2004年バローゾ欧州委員長の下で、ブレア首相に推挙され欧州委員のメンバーになる(通商問題担当)。アメリカに槍玉にあげられたエアバスの補助金問題に取り組むほか、ドーハ・ラウンドの進展にも意欲的。欧州連合の農業関税の削減率を途上国提案である54%に近づけると主張(日本とスイスは反対している)。

2008年10月に不人気のブラウン首相に呼び戻され、民間企業・規制改革担当相になって金融危機で落ち込むイギリスの経済の再生に取り組む。同時に一代貴族として貴族院議員になる(イギリスでは下院議員か貴族院議員でないと閣僚になれないため)。

2009年3月6日ヒースロー空港の拡張工事に反対する団体の女性から、緑色のカスタードを投げつけられる事件が発生。マンデルソンは後のテレビ出演で「彼女は緑色のスープのようなものを私の顔に浴びせようと必死で、何に抗議しているのか、私に言うことを忘れてしまったようだ。ともかく、ペンキじゃなくて助かった。こうして無事でいられたからね」と一蹴[5]。ブラウン首相も、「彼がグリーン(環境保護主義者)かどうか疑う声もあるようだが、これではっきりした。彼はグリーンだ」とジョークで擁護した。

2009年6月5日の内閣改造で副首相に相当する「筆頭国務大臣」に任命され、同時に枢密院議長、新設のビジネス・イノベーション・技能大臣(ビジネス・企業・規制改革省とイノベーション・大学・技能省の合併省庁の主任大臣)に就任した。2010年の総選挙で労働党が敗北し、ブラウン首相が退陣したことに伴い、閣僚ポストを5月11日をもって退任。

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ 小山尭志 『日本にトニー・ブレアはいるか』廣済堂出版、2000年 p139
  2. ^ a b 黒岩徹 『決断するイギリス ニューリーダーの誕生』文春新書 1999年 p111
  3. ^ 黒岩徹 『決断するイギリス ニューリーダーの誕生』文春新書 1999年 p117
  4. ^ Watt, Nicholas (1999年6月23日). “Trimble calls for Mowlam's head”. ガーディアン. 2018年1月7日閲覧。
  5. ^ AFP (2009年3月6日). “英閣僚、カスタードクリームかけられる 空港拡張の抗議で”. https://www.afpbb.com/articles/-/2578937?pid=3886664 2009年3月8日閲覧。 

外部リンク[編集]

グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
テッド・リードビター英語版
ハートルプール選挙区選出
1992 – 2004
次代
イアン・ライト英語版
公職
先代
マーガレット・ベケット
イギリスの旗 貿易および産業大臣
1998年7月27日 - 12月23日
次代
スティーヴン・バイヤーズ英語版
先代
モ・モウラム英語版
イギリスの旗 北アイルランド大臣
1999–2001
次代
ジョン・リード
先代
パスカル・ラミー
欧州連合の旗 欧州委員(通商担当)
2004 - 2008
次代
キャサリン・アシュトン
先代
ジョン・ハットン
イギリスの旗 ビジネス・企業および規制改革大臣
2008 - 2009
次代
(廃止)
(ビジネス・イノベーション・技能大臣に)
先代
ジョン・プレスコット
イギリスの旗 筆頭国務大臣
2009 - 2010
次代
ウィリアム・ヘイグ
先代
(創設)
(ビジネス・企業・規制改革省と
イノベーション・大学・技能省を統合)
イギリスの旗 ビジネス・イノベーション・技能大臣
2009 - 2010
次代
ヴィンス・ケーブル英語版
先代
ジャネット・ロイオール英語版
イギリスの旗 枢密院議長
2009 - 2010
次代
ニック・クレッグ