ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
Beethoven.jpg
基本情報
別名 楽聖
出生 1770年12月16日
出身地 Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg 神聖ローマ帝国ボン
死没 1827年3月26日(満56歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン: Ludwig van Beethoven、ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1] 発音例1770年12月16日ごろ[2] - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次

[編集] 生涯

1770年12月16日神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手テノール[3]であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈を極める音楽スパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し(肺結核)[4]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。

40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどしたカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日肝硬変により56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。


[編集] ベートーヴェンの修行時代一覧

(セイヤー『ベートヴェンの生涯』より。)

(ボン時代)侯付き老オルガン奏者ヴァン・エーデン 諸記録は現存せず。シュロッサーの証言による。ベートーヴェン8歳、時にエーデン70歳。 ピアノフォルテを教授したとされる。 後任のネーフェが1781年にオルガニストとして着任、その翌年の1782年6月にエーデンは他界している。ベートーヴェンの祖父の仕事仲間であった古参のオルガニストであった。

(ボン時代)侯付きフランツ・ゲオルグ・ロヴァンテーニ 教師としては尊敬を集め、教えを請う者も少なくなかった。 ベートーヴェンはヴァイオリンとビオラを教授されたとする。 しかし、1781年9月9日に僅か24歳で死去。教授期間も不明である。 ベートーヴェンへのロヴァンテーニ教授期間も短期間であったらしい。

(ボン時代)ヴィリバルト・コッホ 修道士。オルガンの演奏技術、機械構造の専門的知識により敬意を寄せられていた。 若いベートーヴェンがコッホを訪ね求めて教えを乞うた結果、ヴィリバルト修道士が 後にベートーヴェンを助手や代理に使うほどの進歩を見せたことは、ベートーヴェンがオルガンの演奏技術を身につけたのは、この修道士による教授の功績と考えてよい。[要出典] この頃のベートーヴェンがオルガンに興味を示したのは、仕事の範囲を増やす目的であったらしい。

(ボン時代)クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ。 ベートーヴェンの先生としては、どの伝記作家も取り上げるネーフェ。 先に上述の候付き老オルガン奏者ヴァン・エーデンの後任として1781年に就任。 ベートーヴェンに何を教授したか、その期間も定かではないが、ネーフェ自身、一貫して系統立てて作曲の理論を学んでいたわけではないから、断片的にネーフェが知りうる程度の教授であったろうことは想像に難しくはない。

しかし、このクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェは、最初にベートーヴェンの才能を認めたヴァルトシュタイン伯爵とともに、ベートーヴェンの音楽的才能を最初に評価した人である光栄に浴する権利は十分にある。ベートーヴェンの「ウィーン行き」(ハイドンの元へベートーヴェンを弟子入りさせる計画)は、ネーフェとヴァルトシュタイン伯爵が実現させた立役者である。

ベートーヴェンもネーフェの好意に感謝をして「私の天与の芸術が向上するにつき、先生が再三ならず与えられた助言に感謝をしております」というベートーヴェンらしい強気な自信と感謝の念を残している。

(ウィーン時代)モーツァルト。この話は有名であるが、1回だけの訪問であったのか、ある程度複数回指導を受けたのかは全く記録が残されていない。またベートーヴェン自身も多くをこの問題では語っておらず、モーツァルト、またはその友人関係者の証言も後年になっても残されておらず、実情は一回だけの訪問で、短時間かつ冷淡であったと伝えられる。弟子には取られなかったのが、この後のベートーヴェンの行動から読み取れる。モーツァルトの弟子は、フランツ・クサバー・ジュスマイヤーで、モーツァルトが「天才」を評価して採用したが、結局は現在では数曲を残して世の中に埋もれてしまった。ベートーヴェン弟子入りは後にも先にもこの話だけであるので、弟子入りを認められた可能性は非常に少ない。ベートーヴェンがウィーンに出てきた目的は、ボン選帝侯からのハイドンの弟子になる目的で拘束されており、表敬訪問であったと考えるのが妥当である。また、よく語られるこの時のエピソードもモーツァルト研究者オットー・ヤーンから出てきた話である。 実際にはモーツァルトの父親が重病の知らせを受けていた時期でもあり、冷淡な反応しか得られなかった可能性が高い。


(ウィーン時代)フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。正確な記録が残されておらず、ベートーヴェンがハイドンからどれだけの期間学んだのか、大雑把なことしか判明しない。ベートーヴェンがウィーンに出てきた1792年7月からハイドン自身が第2回目の渡英をするまでの1794年1月29日までが、最長での教授を受けられる期間である。目的は厳格な対位法を学習するためである。

ただ、授業内容は大いにベートーヴェンを失望させ「自分が期待しても良いと思っていた優秀さにはお目にかからなかった」と明言している。また、ベートーヴェンの友人の記憶では、ベートーヴェンは「何らかの指導を受けたが何一つ学んだわけではない」と明言している。

ハイドン側にも第2回目の渡英で用意する作品の準備などで多忙であったこと、また現在残るハイドンとベートーヴェンの練習帳は、必ずしもベートーヴェンが間違えた箇所全てにハイドンの添削があるわけではなく、ハイドンの側にも多忙な一時期とは言え、親身な指導をしていないことも、ベートーヴェンを失望させる原因の一つと考えられる。

また、ベートーヴェンの雇用者(ボン選帝侯)に作曲の進捗具合を報告する際に、ハイドン自身とベートーヴェンとの間に意思疎通がなかったためか、旧作を間違えて送ってしまったり、ボン時代にすでに知られていた作品の改作などを送ってしまったため、ボン選帝侯よりの返書がハイドンの指導に疑念を遠まわしに投げかける内容になってしまったため、ベートーヴェンとハイドンの間に気まずい雰囲気を醸し出したことも影響して、ハイドンが弟子であるベートーヴェンと渡英しなかった理由とされている。(この弟子入りは当然有償で行われた。)

ハイドンが渡英した時点で、すでにベートーヴェンは、アルブレヒツベルガーの弟子に入門していた。 また、ハイドンの指導の結実として、モーツァルト同様にベートーヴェンも「弦楽四重奏曲6曲」をハイドンに献呈したが、ハイドンはこの「弦楽四重奏曲集」には全く理解を示さず、弟子たちには「私ならもっと別な作曲の仕方がある」と不満を口にしていた。

全ての教授してくれる人たちへのベートーヴェンの顕著な傾向として、指導を受けている最中は、その師匠の指示や方針に誠意を持って忠実に従うが、いざ、自分の作品となると、自分らしさを全面に押し出し、その師匠から学んだ成果を織り込んだりすることはなかったようである。 しかし、お互いに喧嘩したりと離反することは一度もなかった。それは、ハイドンへの弟子入りはボンの選帝侯の意思によっており、自分自身の意向で物事を決められる立場ではなかったこと、ベートーヴェンにとってもハイドンの影響力は絶大なものがあったからである。


(ウィーン時代)ヨハン・シェンク。資料に乏しく、資料として残るのはシェンク自身、ベートーヴェンへ教授して以降、相当の時間を置いて証言しており、どの程度の信用性があるか疑問が大きい。セイヤー説では1793年8月から1794年5月説を主張しているが、現在では、シェンクの教授を受け始めた時期としては、ハイドンの教授が始まって「年単位」ではなく「週単位」の時間差であろうとする見方が主流である。(ハイドンの教授に不満を覚えたベートーヴェンが、ハイドンには内緒で他の音楽家へ教授を受けたということである。それも、ハイドンの教授が始まってから数週間程度の時間差しかないことを主張している。)

シェンクがベートーヴェンに言及しているのは、前述の通り相当の歳月が経過した後で、記憶の錯綜もある可能性がある。だが、ベートーヴェンを教授して最初に感じた印象は、「厳格対位法」の初歩的な理論がベートーヴェンに正しく理解されていなかったと証言している。ハイドンでの「厳格対位法」の教授から僅かの時間差を経てシェンクに学び始めたということもあるだろうが、ハイドンも真剣に教授しようとするには余りにも時期的に多忙すぎる不運な時期であったかもしれない。

(ウィーン時代)ヨハン・アルブレヒツベルガー。アルブレヒツベルガー自身、多作な作曲家であり、ベートーヴェンには「厳格対位法」の基礎を教えなおした。対位法のうち、フーガ形式のものはアルブレヒツベルガーのもとでは学ぶことが出来なかったが、それでもその形式の構成要素や、その適用の仕方は学ぶことが出来た。 このアルブレヒツベルガーの元でのベートーヴェンの学習は、毎週3回、アルブレヒツベルガーが、教授が終了するまで160頁を残していることから、ノッテボームの研究により、約15箇月と推定された。このアルブレヒツベルガーからは「対位法」のうち、「フーガ」は学べなかったが、本格的な「厳格対位法」について学べた機会は、アルブレヒツベルガーの元で得た知識が元になっている。

(ウィーン時代)アントニオ・サリエリ。資力にとぼしい作曲家を無料で教授するという条件で、ベートーヴェンはイタリア語歌曲の作曲法について学び、教授が1802年で終了した後も、イタリア語歌曲を作曲する場合は、必ず助言を求めていたほどの親密さがあった。どの教授も、ハイドン以外の人たちとは教授が終わると、程度の差こそあれ、疎遠になってしまうが、サリエリの場合だけは例外である。 その後、晩年にいたり、サリエリに関するスキャンダラスな噂(モーツァルト毒殺説)が流され、ベートーヴェンの耳にも情報が入り、「筆談帳」で、この話題を憂えている。

まとめ:1809年にハイドンも逝去し、モーツァルトに至っては1791年に逝去しており、ベートーヴェンは、この巨匠たちのたゆまぬ作品に対する努力の成果を全て知ることが出来た。また、貪欲に「純粋対位法」という難問を求めたことは、作曲の場において、各声部に独立した役割を与えるためであった。また対旋律の構築など、音楽の各声部を立体的に構築することにあった。

[編集] 作風

[編集] 初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[5]

[編集] 中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲スケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

[編集] 後期

1818年の二度目の危機の時にはスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲フーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ交響曲第9番、『荘厳ミサ曲』、『ディアベリ変奏曲』などの後期の代表作が作られた。

[編集] 後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

[編集] 芸術観

  • 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。[6]

[編集] 思想

  • ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
  • また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]
  • 政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。
  • その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時においてかなりの教養人であった。

[編集] 人物

  • 身長は167cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の痕でひどく荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。
  • 基本的に服装に無頓着であり、若い頃は着飾っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯を好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことも知られている。当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも尊敬されていたという。
  • 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
  • 性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。
    • ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
    • パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。1812年
    • テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
  • 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはほとんど信憑性が認められてない。
  • 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
  • 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスウィックやその妹ヨゼフィーネ等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニア・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。
  • メトロノームを初めて利用した音楽家だといわれている。
  • パンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄はトカイワインを好んでいた。
  • コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという。

[編集] 名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン[ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən]、英語ではルードゥウィグ・ヴェン・ベイト(ホ)ウヴァン[luːdwɪg væn beit(h)ouvən]といった発音をされる。中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多芬(Beiduofen)」となる。

日本でも明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることが多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

[編集] 死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近いが検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に被曝したかについても諸説あり、以下のごとくである。

  • ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
  • 1826年の1月から肝障害による腹水の治療を行ったAndreas Wawruch医師が腹部に針で穴を開けて腹水を排水した時、腹部に穴を開けるたびに髪の毛の解析では鉛濃度が高くなっていることから、傷の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

[編集] 難聴について

難聴の原因については諸説[8]ある。

  • 耳硬化症
    伝音性の難聴であり、中耳耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が固まってしまい、振動を伝えなくなってしまった為に、音が聞こえなくなってしまう難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえてなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部は振動を僅かに感じることが出来る性質にあると考えられる。
    又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
  • 先天性梅毒
    「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析してみた結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そういった話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
  • 鉛中毒説
    上載。

[編集] 親族

  • 祖父:ルートヴィヒ(同姓同名)
    フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
  • 祖母:マリア・ヨゼファ
  • 父:ヨハン
  • 母:マリア・マグダレーナ  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
  • 弟:カスパール・アントン・カール
    • 甥:カール  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
  • 弟:ニコラウス・ヨーハン

[編集] 弟子

[編集] 代表作

[編集] 交響曲(全9曲)

[編集] 管弦楽曲

[編集] 協奏曲、協奏的作品

[編集] 室内楽曲

[編集] ピアノ曲

ピアノソナタ全32曲)  

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

  • 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 Op.34
  • 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 Op.35
  • 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
  • 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
  • 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
  • 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 Op.76
  • ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 Op.120
  • アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
  • 幻想曲 Op.77
  • ポロネーズ ハ長調 Op.89
  • 7つのバガテル Op.33
  • 11の新しいバガテル Op.119
  • 6つのバガテル Op.126
  • バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

[編集] オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

[編集] 宗教曲

[編集] 歌曲

  • アデライーデ Op.46
  • 汝を愛す
  • 鶉の鳴き声
  • 新しい愛、新しい生
  • 口づけ
  • 追憶
  • 懺悔の歌
  • モルモット(旅芸人)
  • 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 Op.98
  • 曇りのち、快晴

[編集] 著作

ベートーヴェンによる著作物で翻訳のあるものは以下の通りである。

  • 小松雄一郎訳編『音楽ノート』岩波文庫、1957
  • J.シュミット=ゲールグ編『ベートーヴェンの恋文 新たに発見されたダイム伯夫人への13通』属啓成訳、音楽之友社、1962
  • 『ハイリゲンシュタットの遺書』属啓成訳、音楽之友社、1967
  • 小松雄一郎訳編『ベートーヴェン書簡選集(上下巻)』音楽之友社、1978-79
  • 小松雄一郎編訳『新編ベートーヴェンの手紙(上下巻)』岩波文庫、1982
  • メイナード・ソロモン編『ベートーヴェンの日記』青木やよひ、久松重光訳、岩波書店、2001
  • 『わが不滅の恋人よ』ジークハルト・ブランデンブルク解説、沼屋譲訳、日本図書刊行会、2003

[編集] 伝記

ベートーヴェンの伝記は多くあるが、1977年に刊行されたメイナード・ソロモンによる『ベートーヴェン』[9]があり、このソロモン版伝記はのち、歴史家のピーター・ゲイによって精神分析的手法による労作として高く評価された[10]

[編集] 脚注

  1. ^ [ˈluːt.vɪç fan ˈbeːt.hoːfən](ドイツ語-オーストリアではLudwigが[ˈluːt.vɪk])/[ˈlʊdvɪɡ væn ˈbeɪthoʊvɨn](英国英語)/[ˈlʊdvɪɡ væn ˈbeɪtoʊvɨn](米国英語)
  2. ^ 洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない
  3. ^ ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫
  4. ^ ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫
  5. ^ 淺香淳編『標準音楽辞典』音楽之友社、1981年、1106-1107頁
  6. ^ 木之下晃・堀内修『ベートーヴェンへの旅』新潮社、1996年、85頁
  7. ^ 木之下晃・堀内修『ベートーヴェンへの旅』新潮社、1996年、85頁
  8. ^ 参考文献:「音楽と病 病歴にみる大作曲家の姿」(著:ジョン・オシエー、訳:菅野弘之、版:法政大学出版局)
  9. ^ 邦訳、岩波書店、全二巻
  10. ^ 『歴史学と精神分析』邦訳、岩波書店

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