ベン・テイラー (ニグロリーグ)

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ベン・テイラー
Ben Taylor
Taylor Ben 1915.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 Flag of the United States.svgサウスカロライナ州アンダーソン
生年月日 1888年7月1日
没年月日 1953年1月24日(満64歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
経歴(括弧内は在籍年)
  • バーミンガム・ジャイアンツ(1908-1909年)
  • ウェストバーデン・スプラデルス(1910,1913年)
  • セントルイス・ジャイアンツ(1911-1912年)
  • ニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツ(1912年)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ(1913-1914年)
  • インディアナポリス・ABCs(1914-1918,1920-1922年)
  • ヒルデール・デイジーズ(1919年)
  • ニューヨーク・バカラック・ジャイアンツ(1919年)
  • ワシントン・ポトマックス(1923-1924年)
  • ハリスバーグ・ジャイアンツ(1925年)
  • ボルチモア・ブラックソックス(1926-1928年)
  • アトランティックシティ・バカラック・ジャイアンツ(1929年)
  • カリフォルニア・スターズ(1930年)
  • シルバームーンズ(1931年)
  • ワシントン・パイロッツ(1932年)
  • ボルチモア・スターズ(1933年)
  • ブルックリン・イーグルス(1935年)
  • ウィンストン-セーラム・イーグルス(1938年)
  • ワシントン・ブラック・セネタース(1938年)
  • ワシントン・ロイヤルズ(1939年)
  • ニューヨーク・キューバンズ(1940年)
  • エッジウォーター・ジャイアンツ(1941年)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2006年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会による選出

ベン・テイラー(Benjamin Harrison "Ben" Taylor, 1888年7月1日 - 1953年1月24日)は、1910~1920年代にアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは一塁手サウスカロライナ州アンダーソン生まれ。左投げ左打ち。ニックネームは"Old Reliable"(オールド・リライアブル)。

来歴・人物 [編集]

テイラーは兄がいずれもニグロリーグで活躍していた4人兄弟の末っ子で、プロ選手として試合に出始めたのは1908年のことである。最初は投手を勤めていたが、後に一塁手に転向する。守備はすぐに上手くなったようで、難しいゴロを難なく捌くスムーズな守備を見せていたそうである。

テイラーが主に活躍していたのは、兄のC.I.テイラーが監督をしていたインディアナポリス・ABCsで、1914年から1922年まで在籍していた。この間の活躍としては、1915年のニグロリーグでの打率は.308で、その冬のキューバリーグでは打率.500を記録したこと、1916年のニグロ・ワールドシリーズで18打数11安打、3盗塁を記録したこと、また1921年に打率は.421を放ち、またリーグ最多となる106本の安打と19本の二塁打を放った事などが挙げられる。1922年シーズンは、C.I.テイラーの急死に伴い選手兼任監督をしていたが、この年の打率は.362だったそうである。

1923年、テイラーは自ら新たな野球チーム「ワシントン・ポトマックス」を創設、兄のジョニー・テイラーをコーチとして迎え入れイースタン・カラード・リーグに参加したりもした。ただポトマックスでの経歴は短かったようで、1925年にはハリスバーグ・ジャイアンツに移籍をしている。その後ボルチモア・ブラックソックスを経て1929年にはバカラック・ジャイアンツに移籍。テイラーは41歳になっていたが、バカラック・ジャイアンツで12試合に出場し.310の打率を残している。なお1930年代に入っても選手として試合に出場していたと思われるが、詳しい記録が残っていない。判明している選手としての通算打率は.333に及ぶという。

1940年以降は主にコーチとしてニグロリーグに関わっていた。その指導力も優れていたようで、1970年代にアメリカ野球殿堂入りしたバック・レナードは、ホームステッド・グレイズ時代にテイラーの指導を受け、後に「黒いルー・ゲーリッグ」と呼ばれる名一塁手となる。1949年にフィラデルフィアの新聞社がニグロリーグの全ての時代のオールスターを選出した際、監修したオスカー・チャールストンは彼を一塁手として選出している。

1953年にボルチモアにて死去。2006年ニグロリーグ特別委員会アメリカ野球殿堂入り選手に選出した。

記録・表彰等 [編集]

  • ニグロリーグでの通算打率:.333


出典・外部リンク [編集]