ベルンハルト・クルーセル

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ベルンハルト・ヘンリク・クルーセル
Bernhard Henrik Crusell
1826年 ヨハン・サンドベリ[注 1]画}
1826年 ヨハン・サンドベリ[注 1]
基本情報
出生 1775年10月15日
フィンランドの旗 フィンランド ウーシカウプンキ
死没 1838年7月28日(満62歳没)
スウェーデンの旗 スウェーデン ストックホルム
ジャンル クラシック
職業 クラリネット奏者、作曲家翻訳家

ベルンハルト・ヘンリク・クルーセルBernhard Henrik Crusell,1775年10月15日 - 1838年7月28日[注 2])は、スウェーデンフィンランド人クラリネット奏者、作曲家翻訳家。「古典派における最も重要で最も国際的に知られたフィンランド生まれの作曲家であり、まさにシベリウス以前の傑出した作曲家[2]。」と評される。

幼少期と教育[編集]

クルーセルはフィンランドウーシカウプンキの貧しい製本屋の家庭に生まれた。祖父のベルンハルト・クルセリウス(-Kuruselius)はトゥルクストックホルムで製本業を学び、ポリに移り住んだ。そこで9人の子を儲け、その中で父と同じく製本業の道に進んだヤコブ(Jakob)がクルーセルの父である。1765年、見習い期間を修了したヤコブはウーシカウンプキに移り、そこでヘレナ・イランダー(Helena Ylander)と結婚したが、彼女はその約1年後に亡くなってしまう。ヤコブは1769年にマルガレタ・メスマン(Margaretha Messman)と再婚し、4人の子どもを授かる。しかしその中で大人になれたのはベルンハルトだけであった[3]。クルーセルは後に、この頃の生活について三人称でこう述べている。

彼が生まれた小さな町には、音楽に活発な興味を示している者がただ1人しかいなかった。それはある店の従業員で、午後になると彼が趣味でフルートを吹く音色が聞こえてきた。ある夜、4歳のベルンハルトは壁にもたれかかりながら通りに腰掛けていた。甘美な旋律に酔った彼は有頂天であった。長い時間息子を探し回った両親は厳しく彼をしかりつけたが、それでも彼は次の晩もそのお気に入りの場所に出かけていくのをやめなかった。今回は息子の反抗的な態度に両親は彼を殴りつけたが、それでも無駄だと分かると2人は彼を「狂った」ままにしておいた。フルートの音が聞こえなくなれば、すぐに家に帰ってくるだろうと考えたのである・・・。

Biography of B. H. Crusell[4]

クルーセルが8歳の時、一家はヘルシンキから北に約37キロ離れたヌルミヤルヴィへと引っ越した[3]。彼の生来の音楽への興味は尽きることなく、友人が演奏するのを聞きながらクラリネットの演奏を耳で覚えた[5]。まもなく、ウーシマー県のある連隊楽団員から特訓を受け始めるようになる[6]

1788年、クルーセルが13歳になると、彼の才能に気づいた一家の友人がスヴェアボリのO. Wallenstjerna少佐の元に彼を連れて行った。スヴェアボリは、ヘルシンキの湾岸からすぐの6つの島の上に建設された海上要塞である。要塞の教養豊かな将校たちは、町の文化や政治に大きな興味を持っていた。Wallenstjerna少佐はクルーセルの演奏に感心し、彼をスヴェアボリの軍楽隊のボランティア団員として迎えると共に、家族と共に住める場所を提供した。スヴェアボリで学ぶことができたクルーセルは音楽と語学に長けていった。1791年にWallenstjernaが転属となると、クルーセルは彼についてストックホルムへと向かった。クルーセルはその後の人生の大半をスウェーデンで過ごすことになったが、彼は常にフィンランド人を自任していた。彼は晩年にヨハン・ルドヴィグ・ルーネベリ[注 3]に宛てた手紙の中で自らを「フィンランド人 finsk landsman」と呼んでいる[5]。また、彼は旅行日記をフィンランド語で綴っていた[要出典]

クラリネット奏者としてのキャリア[編集]

クルーセルはストックホルムでも鍛錬を続け、クラリネット独奏者となった。1792年、16歳で連隊楽団の指揮者に任ぜられ、翌1793年には宮廷楽[注 4]主席クラリネット奏者となった。この楽団を率いていたのが、彼の作曲の師であるドイツの作曲家ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーである。1798年、クルーセルは資金援助を受けて数ヶ月の間ベルリンに滞在することが出来るようになり、そこで有名なドイツのクラリネット奏者フランツ・タウシュドイツ語版の薫陶を受けた[5]。タウシュはドイツでクラリネット学校を設立しており、そこで技巧よりも音色の美しさに重点を置いた教育を行っていた[8]。クルーセルの上達は目覚しく、スウェーデンに帰国するまでにベルリンやハンブルクでの演奏会に出演した。音楽雑誌「Allgemeine musikalische Zeitung[注 5]」によるハンブルクでの演奏会評は好意的なものであった[10]

残りの生涯をスウェーデンで過ごしたクルーセルであったが、1度だけフィンランドに戻っている。サンクトペテルブルクへの旅行の後、スウェーデンへ戻る途上の1801年7月7日ヘルシンキで、ピアニストのフレードリク・リタンデル(Fredrik Lithander)の伴奏で演奏しており、また7月30日にはトゥルクにおいてトゥルク音楽協会管弦楽団主催の演奏会でも演奏している[5][注 6]

クルーセルはストックホルムで、フランスの在スウェーデン大使と知り合いとなる。この友人関係をきっかけとして、彼は1803年パリへの旅に出ることができた。パリでは演奏を行うとともに、まだ新しかったパリ音楽院ジャン=ザビエル・ルフェーヴルの下でクラリネットを学んだ[5]。ルフェーヴルの薦めに従い、彼は6月2日にMichel Amlingue(1741年1816年)製のマウスピース、9月14日にはジャン・ジャック・バウマン(Jean Jacques Baumann)製の6度のC管のクラリネットを購入している[11]。クルーセルは1800年頃まで上方に曲がったリードを使用していたが、その後下方に曲がったものに変えており、これは現代と同様のよりカンタービレに適した位置取りである[6]。彼がこれを取り入れた時点ではまだ未発達だったのは確かだが、彼は歯並びが悪く、そのため上向きのリードの取り付けを好んだのだろう[12]

パリのイタリア歌劇場[注 7]がクルーセルに主席クラリネット奏者の職を打診した。彼が王宮管弦楽団から離れてしまうことを危惧したスウェーデン王グスタフ4世アドルフが、彼の渡航期間延長の嘆願を却下し、そのかわりに彼を近衛連隊楽団の主席指揮者の地位につけた。クルーセルはストックホルムに戻って以降、1833年まで宮廷管弦楽団にとどまった[5]

1811年6月には、彼はタウシュに会うためにベルリンへと赴き、そこで2人はクラリネットについて語り合った。その月の暮れにはライプツィヒに恩人を訪ね、7月にはドレスデンハインリッヒ・グレンザー英語版[注 8]製の新しい楽器を購入した。このグレンザーのクラリネットは当時としては先進的なデザインで、11度の演奏が可能であった[注 9]。その後1822年にも彼はドレスデンを訪れ、グレンザーの店を引き継いだグレンザー・ウント・ヴィーズナー(Grenser & Wiesner)と、ボルマン(Bormann)という他の製作者から新たに楽器を購入している。ストックホルム音楽博物館英語版[注 10]には1822年からその後に作製されたグレンザー・ウント・ヴィーズナー製の5つのクラリネットが収められている。4つは11度、残る1つは10度のものである[15]

クルーセルはキャリアを築いていく中で、スウェーデン、ドイツ、そしてイングランドでもクラリネットのソリストとしてよく知られるようになっていった[5]。彼はモーツァルトベートーヴェンジャダンクロンマールブランヴィンターや他の作曲家の作品を演奏した[6]。50を超える演奏会評がありながら(大半はドイツのAllgemeine musikalische Zeitungである)、否定的な評は1つも見られない[16]。スウェーデン新聞(Svenska Tidningen)の音楽批評家だったカール・アブラハム・マンケル(Calr Abraham Mankell 1802年-1868年)は、丸みを帯び、楽器の音域のどこを吹いても一様なクルーセルの音色を称賛していた[5]。また、クルーセルの演奏ではピアニッシモが高く評価されていた[6]。「彼が宮廷楽団で長年にわたり最も高給を得ていたという事実は、彼の名声を示唆するものである[2]。」

作曲家としてのキャリア[編集]

クルーセルの墓

1791年から1799年にかけて、クルーセルは作曲と音楽理論をヨーゼフ・ゲオルク・フォークラーに師事した。またもう1人のドイツ人教師、ダニエル・ベリッツ(Daniel Böritz)がストックホルム在住であった際には彼にも師事した。1803年にパリに滞在していた際には、音楽院でフランソワ=ジョセフ・ゴセックアンリ・モンタン・ベルトンの指導を仰いだ。彼の作品には協奏曲や室内楽の、クラリネットのみならず他の宮廷楽団の木管楽器奏者のためのものがある。1811年にライプツィヒに赴いた際には、その後1814年にペータース社の一部となる音楽出版社のBureau de Musiqueと関係を築いた[2][6]

1818年から1837年にかけて、夏季にリンシェーピング軍楽隊指揮していたクルーセルは、楽団のためにロッシーニシュポーアウェーバー行進曲序曲編曲し、男声合唱のための曲を作曲した。1822年、彼はスウェーデンの詩人のエサイアス・テグネール英語版[注 11]などの詩への3巻にわたる作品を出版し、さらに1826年に世に出した「Frithiofs saga」の巻は、テグネールの詩につけた10の歌曲であった。オペラ「奴隷少女 Lilla slavinnan」は1824年にストックホルムの初演され、続く14年の間に34回再演された[6]

他の業績や受賞[編集]

クルーセルは優秀な言語学者であり、イタリア、フランス、ドイツの重要なオペラをスウェーデンでの公演用に翻訳した。彼が訳したモーツァルトの「フィガロの結婚」は1821年に初演され、この業績によりスウェーデンの文学者の協会であるゴチック協会[注 12]に招かれている。1837年にはスウェーデン・アカデミーによってゴールド・メダルを授与され、国と協会への貢献によりVasaに叙された。スウェーデン国立図書館は自伝書の草稿を2つ保管している[6]

クルーセル音楽祭[編集]

1982年より、クルーセル誕生の地、ウーシカウプンキでは毎年夏に「クルーセル週間」が設けられている。この祭典は木管楽器による音楽のためのものである。クルーセル週間の芸術監督はJussi Särkkäである[17]

作品一覧[編集]

作曲年、初版年や他で特記のない情報は考文献類[2][6]WorldCatOCLC)からのものである。

協奏的作品[編集]

  • クラリネット協奏曲第1番 変ホ長調 Op.1
    • 完成年 1808年? もしくは 1810年; ライプツィヒ、Musique de Bureau 1811年もしくは1812年出版
    • 演奏時間 約22分
    • 他の版
      • Fabian DahlströmがMargareta Rörbyの協力を得て校訂した版。 Stockholm: Edition Reimers, 1995, facsimile score (xxi, 158 pages; includes prefatory notes in English and Swedish and "Critical commentary", pp. 153–158) OCLC 34351150.
      • Brent Coppenbargerによるピアノ伴奏版。Wiesbaden [etc.]: Breitkopf & Härtel, 2000 (copyright 1990, Monteux: Musica Rara), score (45 pages) and part OCLC 66044639.
      • Pamela Westonによるピアノ伴奏版。 Vienna: Universal, 1990, score (30 pages) and part (11 pages) OCLC 277190887, 24315821, 369133146; reprint 2004, ISBN 978-3-7024-1558-7, OCLC 316025438.
  • クラリネット協奏曲第2番 ヘ短調 Op.5("Grand")
    • 初演 1815年; ライプツィヒ、ペータース社より出版 1818年頃
    • 他の版
      • Jost Michaelsによるピアノ伴奏版、カデンツァ付き。 Hamburg: Sikorski, ca.1962, plate H.S.549, cat. no. 549, score (35 pages) and part OCLC 277176309 , 221334057.
      • Pamela Westonによるピアノ伴奏版。 Vienna: Universal Edition, 1991, score (29 pages) and part (11 pages) OCLC 26218888.
  • クラリネット協奏曲第3番 変ロ長調 Op.11
  • クラリネット、ホルンファゴット管弦楽のための「合奏協奏曲 Sinfonia concertante」変ロ長調 Op.3
  • ファゴットと管弦楽のためのコンツェルティーノ 変ロ長調
    • 1829年完成; ペータース社より出版 1829年
    • 他の版
  • クラリネットと管弦楽のための「Introduction et Air suedois」 Op.12
    • クラリネットと管弦楽のための序奏と変奏曲 Op.12とも呼ばれる
    • Olof Åhlströmによる大衆歌謡「Supvisa」に基づく
    • 初演 1804年 初演時の曲名「歌曲『少年よ、杯を乾かせ』による変奏曲 Variationer på visan: Goda gosse, glaset töm
    • 校訂、出版 ライプツィヒ 1830年
    • 他の版
  • ファゴットと管弦楽のための「Airs suedois」 1814年
    • この曲はしばしば上記の「Introduction et Air suedois」と混同されるが、全く異なる作品である。ファゴットのためのAirs suedoisは総譜が散逸したため、比較的よく分かっていない。にもかかわらず、よくできた、興味深い作品である。
    • Graham Sheenによる管弦楽版(本人から楽譜が入手可能)。London: Park Publications, 1985, score (35 pages) and part (10 pages) OCLC 83527195.
    • ファゴットソロと作曲者によるピアノ伴奏Emerson版 Graham Sheen校訂
      • 録音 Graham SheenとElizabeth Burleyの演奏 SFZ Music CD "Goodbye, Mr Galliard" SFZM0109
      • 録音 Knut SonstevoldとStefan Lindgrenの演奏 Daphne CD "Fagottissimo"
      • 他 [London]: British Double Reed Society, ca. 1993, score (21 pages) and part OCLC 315579789.

室内楽[編集]

  • クラリネット、ヴァイオリンビオラチェロのための四重奏 変ホ長調 Op.2
    • 1807年?作曲; ライプツィヒ、Musique de Bureauより出版 1811年
    • 他の版
      • ペータース版 cat. no. EKB 019.[18]
      • Bernhard Päulerによる校訂。 Winterthur: Amadeus, 2006, score (15 pages) and 4 parts OCLC 143629504 , 219822346.
      • Béla Kovácsによる3つのクラリネットとバス・クラリネットのための編曲。 Leverkusen: Edition Darok, ca. 1996, score (20 pages) and 4 parts OCLC 493914889.
  • クラリネット、ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏 ハ短調 Op.4
    • 1804年?作曲; ライプツィヒ、ペータース社より出版 1817年
    • 他の版
  • クラリネット、ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏 ニ長調 Op.7
    • 1821年?作曲; ライプツィヒ、ペータース社より出版 1823年 cat. nos. 1723 and 1783B.
    • 他の版
  • フルート、ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏 ニ長調 Op.8[21]
    • Op.7の編曲
    • 1821年?作曲; ライプツィヒ、ペータース社より出版 1823年
    • 他の版
  • 3つのクラリネット二重奏曲 第1番 ヘ長調 第2番 ニ短調 (score) 第3番 ハ長調
    • ライプツィヒ、ペータース社より出版 1821年
    • 他の版
      • ペータース版 cat. no. EP 7780.[22]
      • 3つの連続したクラリネット二重奏曲 London: Hinrichsen Edition, ©1960, score (3 volumes score and 3 parts) OCLC 221151418.
  • クラリネット、ホルン、ファゴットのための演奏会用三重奏曲 (Potpourri
  • オーボエ、2つのヴァイオリン、ビオラ、チェロのためのディベルティメント ハ長調 Op.9
    • 楽譜 at IMSLP.
    • ライプツィヒ、ペータース社より出版 1823年 cat. no. 1728.
    • 他の版
      • Bernhard Päulerによる校訂。 Winterthur: Amadeus, 2003, score (15 pages) and 5 parts OCLC 164935031.

声楽曲[編集]

  • Sångstycken ("歌曲集")
    • エサイアス・テグネールら他による詩
    • ストックホルムで出版 1822年 全3巻 [vol 1 OCLC 187016006.
  • Frithiofs saga (10の歌曲) ピアノ伴奏
    • エサイアス・テグネールによる詩
    • ストックホルムで出版 1826年; 1827年増刷
    • 他の版
  • 歌、クラリネット、ピアノのための「From Ganges' beauteous strands」
  • 4人の歌手のための「Oi terve Pohjola!」
    • スウェーデン語のタイトル "Hell dig, du höga Nord!" ("Hail, O Northland!")
    • 合唱のための編曲の存在する。
    • フィンランドにおいて、おそらく最も有名なクルーセル作品である[5]

舞台音楽[編集]

  • オペラ「奴隷少女 Lilla slavinnan」 3幕形式
    • René Charles Guilbert de Pixérécourtの台本; Ulrik Emanuel MannerhjertaとG. Lagerbjelkeによる翻訳
    • 初演 1824年2月18日 ストックホルム
    • 一部が1824年にストックホルムで出版されている。
    • ストックホルムのKungliga Teaterns Bibliotekが所有。
    • 他の版
      • Ludwig Anton Edvard Passyによるピアノ編曲版。 Stockholm: Westerberg, [ca. 1825], score (52 pages, "obl. fol.") OCLC 497781417.
      • 台本、ストックホルム、1824年 OCLC 186783678.
      • "Tusen och en natt"からのモチーフ。 Helsingfors, 1909, score (4 pages) OCLC 58237418.

脚注[編集]

注釈

  1. ^ 訳注:1782年生まれ、スウェーデンの画家北欧神話やスウェーデンの歴史に基づく作品を遺した。(Johan Gustaf Sandberg
  2. ^ クルーセルの名前はBerndtHenricと綴られることもある(Winter, 1925, OCLC 58221891 , 249964610)。 ストックホルムでこの世を去った。[1]
  3. ^ 訳注:1804年生まれ、スウェーデン系フィンランド人詩人。フィンランドの国民的詩人。スウェーデン語で詩を詠んだ。
  4. ^ 訳注:ストックホルムの宮廷の管弦楽団1526年の宮廷の記録に最初に記述が見られる。[7]1773年からはスウェーデン王立歌劇場オペラ会社の一部となっている。(Kungliga Hovkapellet
  5. ^ 訳注:19世紀に刊行されたドイツの音楽雑誌。「同時代における最も重要なドイツ語の音楽雑誌[9]。」であった。
  6. ^ 「当時、フィンランドの音楽的停滞は否定すべくもなかった。音楽活動の中心都市はトゥルクであり、1790年に設立されたトゥルク音楽協会(Turun Soitannollinen Seura)が音楽推進と協会自身が立ち上げた管弦楽団によりかけがえのない役割を果たしていた。1808年1809年戦争の結果、フィンランドはロシア帝国に割譲されてしまう。1812年にはヘルシンキが新たなフィンランド大公国の首都となり、1828年にトゥルクで起きた大火の後は大学もヘルシンキへと移された。これがフィンランドの音楽の中核都市としてのトゥルクの役割の終焉を意味していた(Asiado)。」
  7. ^ 訳注:当時のパリにはイタリア劇場、イタリア喜劇などと称する団体、劇場が複数存在し、演劇やオペラを上演していた。(Théâtre-Italien de Paris
  8. ^ 訳注:1764年生まれ、ドイツの楽器製作者。バス・クラリネットの原型の発案者であり[13]、アルト・クラリネットに関しても彼の発明であると考えられている[14]
  9. ^ クルーセルが所有していたグレンザー製の楽器の写真がこのサイトで閲覧できる。
  10. ^ 訳注:1899年設立、寄付などによって集まった200近い楽器や音楽にまつわる物品を所有している。
  11. ^ 訳注:1782年生まれ、作家ギリシア語教授主教。スウェーデン現代詩の父と見なされる。
  12. ^ 訳注:スウェーデンの詩人や作家によって1811年に設立されたが、10年以上の休眠期間を経て1844年に解散した。(Geatish Society

出典

  1. ^ Dahlström, Fabian (2001). "Crusell, Bernhard" in Sadie.
  2. ^ a b c d See biography of Crusell by Tel Asiado at Mozart Forum. Accessed 31 January 2010.
  3. ^ a b Biography of B. H. Crusell at the Crusell Society website. Accessed 8 March 2010.
  4. ^ Biography of B. H. Crusell at the Crusell Society website (in Finnish). (For the translation of the quote, see Talk). Accessed 8 March 2010.
  5. ^ a b c d e f g h i Hillila and Hong, pp. 48-50.
  6. ^ a b c d e f g h Dahlström, Fabian (2001). "Crusell, Bernhard" in Sadie.
  7. ^ Gunilla Petersén, "From the History of the Royal Court Orchestra 1526-2007"
  8. ^ Weston, Pamela (2001). "Tausch, Franz (Wilhelm)" in Sadie.
  9. ^ Comini (2008, 96)
  10. ^ Rice, p. 166.
  11. ^ Rice, pp. 30, 166-7, 223.
  12. ^ Rice, p. 255.
  13. ^ Rendall,
  14. ^ Rendall, 136.
  15. ^ Rice, pp. 166-7, 255.
  16. ^ Rice, pp. 166, 255.
  17. ^ Crusell Music Festival - Uusikaupunki. Accessed 11 March 2010.
  18. ^ Edition Peters – Quartet in E flat Major Op.2. Accessed 7 March 2010.
  19. ^ Edition Peters – Clarinet Quartet in c minor Op.4. Accessed 7 March 2010.
  20. ^ Edition Peters – Clarinet Quartet in D Major, [Op. 7]. Accessed 7 March 2010.
  21. ^ Edition Peters – Flute Quartet in D Major Op.8. Accessed 7 March 2010.
  22. ^ Edition Peters – Progressive Duets for Two Clarinets. Accessed 7 March 2010.

引用文献[編集]

  • Rendall, F. Geoffrey (1971). The Clarinet (Third Edition). London: Ernest Benn. pp. 140–1. 

非引用文献[編集]

  • Dahlströhm, Fabian (1976). Bernhard Henrik Crusell: klarinettisten och hans större instrumentalverk. Helsingfors: Svenska litteratursällskapet i Finland. Language: Swedish. ISBN 978-951-9017-21-1. OCLC 2695486.
  • Kallio, Ilmari (1994). Bernhard Henrik Crusell (1775–1838). Uusikaupunki: Crusell-Society. Language: Finnish. OCLC 246856237.
  • Spicknall, John Payne (1974). The solo clarinet works of Bernard Henrik Crusell (1775–1838). Thesis—University of Maryland. OCLC 5665626.
  • Wilson, Sven (1977). Bernhard Crusell: tonsättare, klarinettvirtuos. Stockholm: Kungliga Musikaliska Akademien (Royal Swedish Academy of Music). Language: Swedish. ISBN 978-91-85428-07-6. OCLC 185869706. Note: Includes extracts from Crusell's diaries of journeys abroad in 1803, 1811 and 1822. OCLC 4882756.

外部リンク[編集]