ベルリンSバーン

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路線概略図

ベルリンSバーン (S-Bahn Berlin) は、ドイツの首都ベルリンにおける都市高速鉄道網(Sバーン)である。

概要[編集]

現在の主力車両。481形電車

ベルリンのSバーンは、東西ドイツ統一以降も数年間は、旧西ベルリン側と旧東ベルリン側で、別々の事業者が運営していたが、1994年1月1日にドイツ鉄道 (DB) が発足したことで、同日より同社による一元運営となり、さらに1995年1月1日からはDBの完全子会社であるS-Bahn Berlin GmbH(Sバーンベルリン社)に移管されている。

  • 総営業距離:331 km(2005年)
  • 駅数:165駅(2005年)
  • 営業用車両数:1,355両(2005年)
  • 年間旅客輸送量:3億7,500万人(2006年)
  • 電化方式:直流800 V 第三軌条方式(下面接触式)全線電化

1995年当時の年間輸送量は約2億4,500万人であったが、その後毎年、年平均で2%程度の利用客増加があり、10年後の2005年の年間輸送量は3億5,600万人となっている。ただしこれは、Sバーン網の復活による総営業距離の伸びを考慮する必要がある。

2006年の年間輸送量は、ドイツで開催されたサッカーワールドカップの効果もあり、前年比5.3%増の約3億7,500万人(1日平均で約100万人)を輸送し、1995年以降で最高となった。

ただし、ベルリンのSバーンとして最も利用が多かったのは、第二次世界大戦中の1943年で、年間約7億3,700万人(1日平均で約200万人)の利用があった。

路線[編集]

区間はSバーン運転区間に限る。

南北方向[編集]

南北地下線 ポツダム広場駅

ベルリン市街の中心部の地下を南北に貫く、Sバーンの重要路線である。沿線にはフンボルト大学ベルリンウンター・デン・リンデンポツダム広場ブランデンブルク門といった観光名所のほか、国会議事堂などの政府・行政機関、あるいは商業施設や企業のオフィスなどが集中しており、利用客も多い。

Sバーン専用の複線路線である。北側のフンボルトハインではシュテティン線に直通、南側のアンハルト駅では二手に別れ、ヴァンゼー線アンハルト線に直通している。また、フリードリヒ通り駅で東西高架線と直交する。

南北地下線の構想自体は19世紀から存在するが、アドルフ・ヒトラー政権による社会基盤整備の一環として、また、ベルリンオリンピックを控えての都市交通の拡充のため、建設された。オリンピック開幕直前の1936年7月に北半分のウンター・デン・リンデン駅(現:ブランデンブルク門駅)まで開業、1939年に2段階に分けて延長され、第二次世界大戦勃発直後の同年10月に全通した。

ベルリンの壁」時代(1961年 - 1989年)は、西ベルリン側の路線となっていたが、地下線の大部分は東ベルリン側に存在していたため、東ベルリン側の駅は、検問所が置かれたフリードリヒ通り駅を除き、全て閉鎖されていた。ベルリンの壁崩壊後は、閉鎖されていた駅は順次、営業を再開している。

駅:フンボルトハイン(Humboldthain) - 北駅 (Nordbahnhof) - オラニエンブルク通り (Oranienburger Straße) - フリードリヒ通り (Friedrichstraße) - ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) - ポツダム広場 (Potsdamer Platz) - アンハルト駅 (Anhalter Bahnhof)
  • シュテティン線 (Stettiner Bahn) フンボルトハイン - ゲズントブルンネン - ボルンホルム通り - ベルナウ

ベルリンとバルト海沿いの港町シュテティン(Stettin, 現在はポーランドシュチェチン)を結ぶ約134 kmの路線の、ベルリン側約23 kmにあたる。ベルリン北東部のパンコウ (Pankow) 地区などを経由して、ブランデンブルク州のベルナウ (Bernau) に至る。

1924年8月に電化され、電車によるSバーンの運行が始まった。もともとは、シュテティン駅(現:北駅の地上附近)を起点としていたが、南北地下線の開通でひとつ手前のフンボルトハインから同線と直通するようになる。

戦後、ボルンホルム通り駅 (Bornholmer Straße) から環状線のシェーンハウザー・アレー駅の間に連絡線を敷設。壁建設ではボルンホルム通り駅が東側管轄地域となり駅営業を休止、西側Sバーンは通過扱いとし、東側は西側路線と離れた位置に線路を移設し、路線が分断された。現在は、列車線とSバーンの路線別複々線となっている。

ベルリンとドイツ北部の港町シュトラールズントを結ぶ約220 kmの路線の、ベルリン側約26kmにあたる。ベルリン北部のヴィテナウ (Wittenau) 地区などを経由して、ブランデンブルク州のオラニエンブルク (Oranienburg) に至る。1925年6月 - 10月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。ボルンホルム通りからシュテティン線経由で都心方向へ向かう。

壁建設でフローナウ(Frohnau, 西ベルリン側)とホーエン・ノイエンドルフ(Hohen Neuendorf, 東ドイツ側)の間で分断された。この時、ホーエン・ノイエンドルフ - オラニエンブルクは外環状線経由でシュテティン線と繋げて運行を継続した。なお、東西再統一後、この区間が再びつながったため、もとの運行形態に戻り、外環状線経由の列車は、ホーエン・ノイエンドルフ止まりとまった。

本来、列車線とSバーンの路線別複々線であるが、ボルンホルム通り - ホーエン・ノイエンドルフの間は壁建設で列車線が剥がされたままになっている。

  • クレメン線 (Kremmener Bahn) シェーンホルツ - テーゲル - ヘニヒスドルフ

ベルリンの北西の町クレメンを結ぶ約37 kmの路線のうち、ベルリン側約19 kmにあたる。1927年3月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。シェーンホルツからプロイセン北線・シュテティン線経由で都心へ向かう。

もともとヘニヒスドルフから数駅先のフェルテンまでがSバーン運転区間だったが、壁建設でハイリゲンゼー(西ベルリン側)とヘニヒスドルフ(東ドイツ側)の間で分断された。その後、東側区間も1983年に電車運転を取りやめた。また西側区間は1984年のBVG移管時に引き継がれず廃止された。東西再統一後、1995年にテーゲルまで、1998年にはヘニヒスドルフまで復活したが、その先は見送られている。

もともとは列車線と共用の複線だったが、現在は単線。 途中、テーゲル附近には踏切が存在する。

  • ヴァンゼー線 (Wannseebahn) アンハルト駅 - シェーネベルク - ヴァンゼー - ポツダム中央駅
  • アンハルト線 (Anhalter Bahn) アンハルト駅 - ジュートクロイツ - プリースターヴェーク - リヒターフェルデ南
    • アンハルト線支線 リヒターフェルデ南 - テルトウ市駅
  • ドレスデン線 (Dresdener Bahn) プリースターヴェーク - ブランケンフェルデ

東西方向[編集]

市街線ハッケシャー・マルクト駅付近。左側が長距離線、右側がSバーン。
  • 市街線(シュタットバーン Stadtbahn 東西高架線)オストクロイツ - ベルリン東駅 - フリードリヒ通り - ベルリン中央駅 - ヴェストクロイツ

ベルリン市街中心部を東西に貫く高架線で、Sバーンの重要路線である。 沿線にはベルリン動物園シャルロッテンブルク宮殿カイザー・ヴィルヘルム教会ティーアガルテンベルリンテレビ塔シャルロッテンブルク宮殿といった観光名所のほか、南北地下線同様に、政府・行政機関、あるいは商業施設や企業のオフィスなどが多く、利用客も多い。また、2006年5月に開業したベルリン中央駅も通る。

Sバーンと長距離線の路線別複々線である。東側のオストクロイツでプロイセン東線・ヴリーツェン線および環状線経由でゲルリッツ線と直通、西側のヴェストクロイツでヴェツラー線・シュパンダウ郊外線と直通する。なお、オストクロイツ - ベルリン東駅の間は、シュレージェン線方面のSバーン用に複線が別個に敷設されている。また、フリードリヒ通り駅で南北地下線と直交する。

19世紀後期に、分散していたベルリンの鉄道ターミナルを都心経由で結ぶべく計画・建設され、1882年に開業した。大都市の中心部を貫く鉄道は、当時としては世界的にも珍しいものであった。「都市鉄道」を意味する "Stadtbahn" は、現在の "S-Bahn" の語源になったとされている。もっとも、ベルリン以外の都市ではS-bahnは高速鉄道 (Schnellbahn) が語源とされており、ドイツ語辞書でもこちらが記載されている。

ベルリンの壁時代は、レールテ駅(現:中央駅 西ベルリン側)とフリードリヒ通り駅(東ベルリン側)の間のシュプレー川が東西境界となっていた。ただし、西ベルリン側の電車は、検問所があるフリードリヒ通り駅まで直通しており、東ベルリン側とは厳重な管理の下で隔てられていた。ベルリンの壁崩壊後は再び1本の路線として運営され、1990年代には列車線の電化や駅の改装をはじめとする大幅な改良工事が実施された。

駅:ヴェストクロイツ (Westkreuz) - シャルロッテンブルク (Charlottenburg) - ザヴィニー広場 (Savignyplatz) - 動物園 (Zoologischer Garten) - ティーアガルテン (Tiergarten) - ベルヴュー (Bellevue) - ベルリン中央駅 (Hauptbahnhof) - フリードリヒ通り - ハッケシャー・マルクト (Hackescher Markt) - アレクサンダー広場 (Alexanderplatz) - ヤノヴィッツ橋 (Jannowitzbrücke) - ベルリン東駅 (Ostbahnhof) - ワルシャワ通り (Warschauer Straße) - オストクロイツ (Ostkreuz)
  • シュパンダウ近郊線 (Spandauer Vorortbahn) ヴェストクロイツ - シュパンダウ(一部、レールテ線含む)
  • ヴェツラー線 (Wetzlarer Bahn) ヴェストクロイツ - ヴァンゼー
  • プロイセン東線 (Preußische Ostbahn) オストクロイツ - リヒテンベルク - フリードリヒスフェルデ東 - シュトラウスベルク
    • 東線支線 シュトラウスベルク - シュトラウスベルク北
  • ヴリーツェン線 (Wriezener Bahn) フリードリヒスフェルデ東 - アーレンスフェルデ
  • シュレージェン線 (Schlesische Bahn) ベルリン東駅 - オストクロイツ - フリードリヒスハーゲン - エルクナー

ベルリンとシュレージェン地方のブレスラウ(Breslau, 現在はポーランド領ヴロツワフ)を結ぶ約329 kmの路線の、ベルリン側約24 kmにあたる。ベルリン東駅からその東部のケーペニック (Köpenick) 地区を経由してブランデンブルク州のエルクナー (Erkner) に至る。1928年7月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。なお、ベルリン東駅 - オストクロイツ駅は、市街線とは別に当線用の複線があり、ベルリン東駅・ワルシャワ通り駅は方向別ホームとなっている。現在は、列車線とSバーンの路線別複々線となっている。

  • ゲルリッツ線 (Görlitzer Bahn) トレプトウ公園 - バウムシューレンヴェーク - シェーネヴァイデ - アドラースホーフ - ケーニヒス・ヴスターハウゼン
    • ゲルリッツ線支線 シェーネヴァイデ - シュピントラースフェルト

環状方向[編集]

環状線と市街線が十字交差するオストクロイツ駅。上が環状線、下が市街線ほか。
  • 環状線(リングバーン Ringbahn)ゲズントブルンネン - オストクロイツ - トレプトウ公園 - ノイケルン - ジュートクロイツ - シェーネベルク - ヴェストクロイツ - ユングフェルンハイデ - ゲズントブルンネン
    • 連絡線 ノイケルン - バウムシューレンヴェーク

ベルリン市街を取り巻く形で敷設されている環状路線であり、環状線の内側が都心部となる。路線の総延長は山手線よりもわずかに長い。ノイケルンで分岐しゲルリッツ線バウムシューレンヴェークと連絡する支線があるほか、放射方向の路線との連絡線がトレプトウ公園 - 市街線ワルシャワ通り、トレプトウ公園 - ゲルリッツ線バウムシューレンヴェーク、シェーンハウザーー・アレー - シュテッティン線ボルンホルム通りの各所にあり、列車が直通している。なお戦前にはパーペ通り(現・ジュートクロイツ)およびシェーネベルクの両駅から北へ枝線が分岐し、両方からの枝線が途中で合流してベルリン・ポツダム駅(環状線駅)に至る路線があった。これは環状線本線が市外周部を囲む路線だったために市中心部のポツダム広場への連絡を図ったもので、列車の運転も休日を除きベルリン・ポツダム駅から出発した列車が内回り・外回りともに環状線をほぼ一周してベルリン・ポツダム駅に戻る運行形態で、純粋な環状運転ではなかった。

放射方面の各線とは、オストクロイツ、ヴェストクロイツ、ジュートクロイツは直角交差だが、ゲズントブルンネンはシュテティン線と方向別ホームによる対面乗り換えとなっている。

19世紀中ごろに、ベルリンから放射状に延びる鉄道路線を相互に連絡するために計画・建設され、1871年から数年間かけて順次開業し、1877年に環状線が全通した。環状線の開業までは、ベルリンの鉄道は、ベルリンと郊外あるいは他都市を結ぶ列車が主流であったが、環状線の開業により、各路線を相互に連絡する旅客・貨物列車が運転されるようになったほか、ベルリンの都市鉄道としての役割も担うようになった。そのため環状線は、現在のベルリンSバーン網のルーツとされている。

ベルリンの壁建設により、北側がゲズントブルンネン(西ベルリン側)とシェーンハウザー・アレー(東ベルリン側)の間で、南側がトレプトウ公園(東ベルリン側)とゾンネンアレー(西ベルリン側)の間で分断され、東西で別々に運行されていた。西ベルリン側の環状線は1980年に運行中止となり、壁崩壊時点でも復旧していなかった。

ベルリンの壁崩壊以前から環状線の復旧工事は西側で一部着手されていたが、壁崩壊により工事が強力に推進され、1993年にノイケルン - ヴェストエントの間が再開、以後9年の歳月をかけて、2002年の西港 (Westhafen)- ゲズントブルンネンの再開により全線復旧し、41年ぶりの全線開通となった。2006年には、45年ぶりの完全環状運転も復活している。

Sバーンと列車線の線路別複々線であるが、列車線はテンペルホーフ - シェーネベルク - ヴェストクロイツの間は現在も復活していない。また、フランクフルター・アレー - トレプトウ公園の間は東ベルリン時代に路線が剥がされている。

駅(北側から時計回り):ゲズントブルンネン (Gesundbrunnen) - シェーンハウザー・アレー (Schönhauser Allee) - プレンツラウアー・アレー (Prenzlauer Allee) - グライフスヴァルト通り (Greifswalder Straße) - ランツベルガー・アレー (Landsberger Allee) - シュトルコウ通り (Storkower Straße) - フランクフルター・アレー (Frankfurter Allee) - オストクロイツ (Ostkreuz) - トレプトウ公園 (Treptower Park) - ゾンネンアレー (Sonnenallee) - ノイケルン (Neukölln) - ヘルマン通り (Hermannstraße) - テンペルホーフ (Tempelhof) - ジュートクロイツ (Südkreuz) - シェーネベルク (Schöneberg) - インスブルック広場 (Innsbrucker Platz) - ブンデス広場 (Bundesplatz) - ハイデルベルク広場 (Heidelberger Platz) - ホーエンツォレルンダム (Hohenzollerndamm) - ハーレンゼー (Halensee) - ヴェストクロイツ (Westkreuz) - メッセ北・国際会議場 (Messe Nord/ICC) - ヴェストエント (Berlin-Westend) - ユングフェルンハイデ (Jungfernheide) - ボイセル通り (Beusselstraße) - ヴェストハーフェン (Westhafen) - ヴェディング (Wedding) - ゲズントブルンネン
  • 外環状線 (Außenring) ホーエン・ノイエンドルフ - ブランケンブルク、ヴァルテンブルク - シュプリングスプフール

環状線の更に外側の郊外部を走る形の路線である。列車線は環状路線を形成しているが、Sバーンが走るのはそのうちの一部区間のみであり、すべて放射状の路線との直通運転になっている。Sバーンが走るようになったのは東西分断後であり、ホーエン・ノイエンドルフ - ブランケンブルク間は1961年、ヴァルテンブルク - シュプリングスプフール間は1984・1985年からである[1]。Sバーンの線路と列車線の線路は分離されているが、列車線は全線複線であるのに対し、ホーエン・ノイエンドルフ - ブランケンブルク間の一部には単線区間が存在する[2]

  • 外環状貨物線 (Güteraußenring)

休廃止路線・区間[編集]

電化路線のみ

  • ジーメンス線 (Siemensbahn) ユングフェルンハイデ - ガルテンフェルト
  • ハンブルク線 (Hamburger Bahn) ユングフェルンハイデ - シュパンダウ - シュターケン
  • レールテ線 (Lehrter Bahn) シュパンダウ - ファルケンゼー
  • ポツダム線 ツェーレンドルフ - デュッペル・クラインマッハノウ
  • 墓苑線 (Friedhofsbahn) ヴァンゼー - シュターンスドルフ

上記の路線は、復活したとしても2020年以降か、廃止の見込みである。ジーメンス線はUバーンが並行しており復旧の見込みは非常に少ない。ハンブルク線・レールテ線は厳密には休止線ではなく、列車線が整備され近距離列車が多数運行されている。ポツダム線は復活する場合にはSバーンではなく列車線としての復旧となる。フリートホーフ線のみが将来S25系統がテルトウ市駅から延長された時に、一体化して復活する計画がある。

運行[編集]

運行系統図

ベルリンのSバーンは全て各駅停車で、Sバーンとしての快速運転は行われていない。路線によっては、ベルリン市内と郊外を結ぶ中・長距離列車(REまたはRB)が快速の役割を果たしている。東京における京浜東北線東海道線宇都宮線高崎線、あるいは、総武緩行線総武快速線の関係に近い。

土曜・休日には、終夜運転が実施される。

2013年現在、ベルリンSバーンには、以下の15系統が設定されている。一部の系統では、途中駅で折り返し運転となる列車も設定されている。

南北地下線を経由する系統[編集]

左側が北方向、右側が南方向である。

  • S1: オラニエンブルク (Oranienburg) - 南北地下線 - ポツダム中央駅 (Potsdam Hbf.)
  • S2: ベルナウ (Bernau) - 南北地下線 - ブランケンフェルデ (Blankenfelde)
  • S25: ヘニヒスドルフ (Hennigsdorf) 南北地下線 - テルトウ市駅 (Teltow Stadt)

市街線(東西高架線)を経由する系統[編集]

左側が西方向、右側が東方向である。

  • S5: シュパンダウ (Spandau) - 東西高架線 - シュトラウスベルク北 (Strausberg Nord)
  • S7: ヴァンゼー (Wannsee) - 東西高架線 - アーレンスフェルデ (Ahrensfelde)
  • S75: ヴェストクロイツ (Westkreuz) - 東西高架線 - ヴァルテンベルク (Wartenberg)

環状線(リングバーン)を経由する系統[編集]

ドイツの鉄道は右側通行であるため、外回り・内回りは、日本とは逆になる。

  • S41: 環状線右回り(内回り)
  • S42: 環状線左回り(外回り)
  • S45: ベルリン・シェーネフェルト国際空港 (Flughafen Berlin-Schönefeld) - 環状線 - ブンデス広場 (Bundesplatz)
  • S46: ケーニヒス・ヴスターハウゼン (Königs Wusterhausen) - 環状線 - ヴェストエント (Westend)
  • S47: シュピンドラースフェルト (Spindlersfeld) - 環状線 - ヘルマン通り (Hermannstraße)
  • S8: ビルケンヴェルダー (Birkenwerder) - 環状線 - ツォイテン (Zeuthen)
  • S85: ヴァイトマンスルスト (Waidmannslust) - 環状線 - グリューナウ (Grünau)
  • S9: パンコウ (Pankow) - 環状線 - ベルリン・シェーネフェルト国際空港

その他の系統[編集]

  • S3: オストクロイツ (Ostkreuz) - エルクナー (Erkner)

電車[編集]

戦前から使用されてきた旧型車(475, 477など)は、488型電車に改造された車両を除き、2002年までに全て営業運転から撤退している。

現在の電車[編集]

パノラマSバーン 488形 オリンピア駅
ET 165形(シュタット線形 保存車)
ET 165形(ヴァンゼー形 保存車)
ET 166形(オリンピック形 保存車)
ET 167形(保存車)
ET 167形(もとペーネミュンデ車 保存車)
477形(前面改造後)
  • 480型電車

西ベルリンのSバーンの運営が東ドイツ国鉄からBVG(ベルリン運輸公社)に移管されてから投入された電車。1986年 - 1987年に試作車2両編成×4本、1990年 - 1994年に量産車2両編成×81本の、合計2両編成×85本(170両)が投入された。量産車のうち後半40本は、旧東ドイツ国鉄の発注である。

4つの面で構成された、特徴的な前面形状を有する。全電動車方式で、パワートランジスタ素子によるVVVFインバータ制御方式、三相交流誘導電動機を採用する。塗色は試作車はグレー一色だったが、量産車は伝統色で登場している。

火災や事故で廃車になったものがあるため、2005年現在、78編成が運用されている。

  • 485型電車

東ドイツ国鉄が東ベルリンのSバーン用として投入した電車。東ドイツ国鉄時代は270型で、1992年に現在の形式に改称した。1M1T方式で、制御車は870型→885型(1992 - )である。傾斜した前面形状と、外吊り式の側扉が特徴。電機子チョッパ制御方式を採用する。1980年に試作車2両編成×4本が製造されたが、1986年までに全車が引退している。

量産車は1987年と1990年 - 1992年に、2両編成×166本(332両)が投入された。塗色が赤1色(側窓周りは黒)に変更され、前照灯の形状が丸型から角型に変更された。近年[いつ?]はおもに東西高架線経由の系統で運用されているが、2004年からは急速に廃車が進められている一方、残存車両は伝統色への塗色変更が進められた。

DB発足後、戦前製の旧型車(475型・476型・477型)を一掃するために投入された電車。1996年から2005年にかけて、2両編成×494本と、4両編成×3本の、合計1000両が投入されている。前面は曲面1枚ガラスの形状を有する。全電動車方式で、三相交流誘導電動機を採用する。現在、ベルリンSバーンの主力車両として使用されている。

塗色は当初は黄色を基調とした新塗色だったが増備途中から伝統色に戻っており、結局どの系列においても新塗色が定着しなかった。

観光用の電車として、側窓をパノラミックウインドウに交換し、眺望を楽しめるようにした「パノラマSバーン」。1998年に3両編成1本が、戦前製の477型電車から改造された。

現在、営業用としては唯一残る旧型電車でもあるが、改造時の記録を見る限りにおいて車体は台枠と運転室周りを残し新製されており、電気品を除けばほとんど新車同然である。

過去の電車[編集]

1927年の「大電化」および1933年のヴァンゼー線電化に際し、1927 - 1933年に電動車688両、制御車465両、附随車223両の計1,376両が、AEG, シーメンス、コッペル、DMVで製造された。1927・1930年設計の車両は市街線形、1932年設計の車両はヴァンゼー形と呼ばれる。

1925年設計のET/ES 168形(オラニエンブルク形)をベースとしたもので、車体の長さ16,980 mm, 幅2,871 mmである。前面は3つ折の非貫通3枚窓、側面の窓は位置は1D2D2D2Dで両開き扉を4つ備える。シュタット線形とヴァンゼー形では、リベットの数や全面の窓形状などが異なっている。台車は板台枠式で、電動車の主電動機は出力90 kwのものを4機備える。

1942年に「ET/EB/ES 165」(ETは電動車/Triebwagen, ESは制御車/Steuerwagen, EBは附随車/Baiwagen を表す)の形式が付与され、東ドイツ国鉄時代の1970年に275/875形に、1992年に475/875形となった。

1965 - 1969年に、ワンマン化改造ならびに前照灯の1灯→2灯化が行なわれた。また、1979年から更新工事が一部車両に実施され、前面が2枚窓になったものがある。こちらは形式が276/876形100 - 300番台になり、1992年には476/877形になった。また未更新車のうち238両は1984年の西側路線網の西側移管時にBVGに譲渡されて原型のまま更新、さらに東側に残った未更新車の多数が東側Uバーン車両に転用改造されて、未更新のまま壁崩壊を迎えた車両は少数であった。

  • ET/EB 125→ET/EB 166 (035 - 052) →276/876→477/877形
  • ET/EB 166 (001 - 034) →276/876→477/877形

ET/EB 125は1936 - 1937年に、電動車・附随車ともに18両ずつ36両が製造された。銀行形と呼ばれる。1933年のポツダム線電化に際し、列車の高速化を視野に入れて製造された。

車体は、窓配置等はET165に準じるものの、全面は上半分が傾斜した流線形スタイルとなり、前照灯・尾灯も窓下に2つが配置される。主電動機の出力は167 kw×4に増強され、設計最高速度140 km/hになった。ただし、営業運転では、最高速度は120 km/hに抑えられた。

1942年に形式ET/EB 125が付与された。大戦後の1949年には、ET/EB 125は主電動機の出力を110 kwに変更し、ET/EB 166形に編入。035 - 052になる。

一方、ET/EB 166は1936年に電動車・附随車ともに34両ずつ68両が製造された。同年に実施されたベルリンオリンピックにちなんでオリンピック形と呼ばれる。車体はET/EB 125に準じているが、主電動機の出力は110 kw×4と抑えられている。

1942年に形式ET/EB 166が付与された。東ドイツ国鉄時代の1970年には276/876形000番台に変更。1975 - 1982年に更新工事が実施され、前面が2枚窓になった。ただし、1992年の改番では、275形の改造車と異なり後述の277/877形とともに477/877形となっている。

南北地下線の開業・延長にあわせ、1938 - 1941年にかけて、電動車283両、附随車261両の計544両が、アルゲマイネ、コッペル、ヴェグマン、ジーメンスで製造された。基本的にET/EB 166に準じている。

東ドイツ国鉄時代の1970年には277/278形に変更。1973年から更新工事が実施され、前面が2枚窓になった。1992年の改番では、477/877形となっている。2003年まで使用され、現在は2編成4両が動態保存されている。

なお、これら戦前製の車両のうち大戦後ソビエト連邦に約280両が接収され、同国のモスクワ・キエフ・タリン(エストニア)近郊で使用され、のちに約半数が返還されている。またポーランド領となったシレジア地方に空襲の激化により疎開していた車両のうち160両がそのままポーランドに帰属し、ダンチヒ近郊で架線集電式に改造の上で使用されていた。終戦時の可動車が約700両まで落ち込んだ中でこれだけの接収は復興の上での大きな痛手だった。またごく一部終戦時に西ドイツ領内にあったものはやはり架線集電式に改造されてミュンヘン近郊で使用された。

バルト海沿いのペーネミュンデツィノヴィッツ(いずれも現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州)の間にあった専用線(当時ペーネミュンデで行われていたロケット兵器などの開発のための労働者輸送用に敷設されたもの)の車両を転用したもの。

直流1,100 V 架線集電式で、ET/EB 167の車体と、アルゼンチン・ブエノスアイレス地下鉄C - E線用車両の電気品(シーメンス製)に準じた設計である。1940 - 1941年に電動車・制御車それぞれ15両 (Trw/Stw 01 - 15) が製造された。1943年8月の空襲で10両が被災したが、このうちの4両が、戦後ベルリンでEB167 242 - 243, ET167 284 - 285として復旧している。

専用線は1946年4月に運行を停止、車両はソ連に接収された。いきさつは不明だが、2両は終戦時に西ドイツ領内のニュルンベルクに留置されていた。これは同じくニュルンベルクにあった6両のベルリンSバーン車両とともに改造の上でミュンヘン近郊のイザールタール線に投入され、ドイツ連邦鉄道 (DB) ET/ES 182 01となった。のちに交流化改造を受けET/ES 26 002に、さらに426 002 / 826 602に改番され、マインツ付近で使用された。現在はペーネミュンデの歴史技術情報センターに保存されている。また、ソ連に接収されたうちの14両が、東ドイツ国鉄に返還され、改造の上でET/EB 167に編入。286 - 292となる。その後、1966年の更新でET/ES 166形に編入054 - 060となった。

1970年には276/876形になった。1992年の改番では旧 ET/EB 125, ET/EB 166とともに477形に再編入され、601 - 608となった。

運賃など[編集]

ベルリンSバーンは、ベルリン市内とブランデンブルク州の公共交通機関によって組織される「ベルリン・ブランデンブルク運輸連合」 (VBB: Verkehrsverbund Berlin-Brandenburg GmbH) の一員であり、チケットは他の加盟交通機関と共通化されている。

ベルリン近郊の交通機関の運賃は基本的に「ゾーン制運賃」が採用されており、乗車券に指定されたゾーンのどこからでも乗車でき、どこでも降車できる。Sバーンの場合は、Aゾーン(環状線内)・Bゾーン(原則としてベルリン市内)・Cゾーン(ベルリン市外)の3ゾーンに収まっている。ただし、Cゾーン内の路線は少ない。

また、観光に便利なように、1日切符の設定もある。購入日翌日の午前3時まで使用可能。

追加料金を払うことで、自転車の車内持ち込みも可能(混雑時間帯を除く)。

ヨーロッパでは一般的な「信用乗車方式」が採用されており、駅には改札はないが、抜き打ちの検札が行われることがある。そこで不正乗車が発覚した場合は、理由のいかんにかかわらず、数十倍またはそれ以上の高額な罰金を徴収される。

ドイツの鉄道における列車は多くの場合1等車と2等車が連結されているが、ベルリンのSバーンは2等車のみである。

歴史[編集]

第2次世界大戦まで[編集]

ベルリンの鉄道は1838年に、ポツダムへの路線(ベルリン・ポツダム駅 - ポツダム)が開通したことにはじまる。以降、ハンブルク、シュテティン、アンハルト、ゲルリッツなど国内各地へ放射状の路線網が建設されてゆく。これらを環状に結ぶ路線も整備された、1850年代にはターミナル同士を直接結んでいたが、市街地の発展に応じ、1870年代には各起点駅から一駅ほど郊外側を結ぶようになった。現在の環状線である。一方、シュレージェン駅からシュプレー川に沿って、都心を西に横断する路線が建設された。1882年に完成した市街線である。

本来、長距離輸送を目的とした鉄道ではあるが、ベルリンでは、ここに市内移動用の列車を走らせた事が特徴である。1871年の環状線での運行が起源とされ、のちにSバーンとして発展してゆくことになる。施設面でも、長距離線と市内移動用路線の路線別複々線を備えるものが多くなった。

列車の電化は1903年にアンハルト線ポツダム(環状線)駅 - リヒターフェルデ東で実施されたものの、その後は大戦などの影響で途絶える。本格的なものは第一次大戦後の鉄道国有化後である。利便性を向上し、市内の他の交通機関に対抗するためであった。

1924年8月8日、シュテティン線シュテティン駅 - ベルナウで電車運転が開始され、これがSバーンのはじまりとされる。つづいて、翌1925年にはプロイセン北線、1927年にはクレメン線と北部方面の電化が完成。そして、1928 - 1929年に都市線など東西方向の各線と環状線が電化され、のちのET/EB/ES 165形が大量に製造された。これらは「大電化」と呼ばれる。

その後、1933年に、ポツダム線とそれに並行するヴァンゼー線が電化され、ほぼ戦前の電化区間が揃うことになる。なお、レールテ駅を起点とする路線、および非電化区間への直通するSバーンは蒸気機関車牽引の列車のままであった。

1933年、ナチスが政権をとると、ベルリンでのオリンピックの開催と、それに合わせた都市基盤整備が行なわれた。この一環として、都心を南北に貫く地下線が建設され、1936 - 1939年に開通。北側からはシュテティン駅を起点とする各線が、南側からはポツダム駅を起点とするヴァンゼー線とアンハルト線が乗り入れた。なお、この地下線は、アンハルト駅 - ゲルリッツ駅、レールテ駅 - ポツダム広場などにも建設計画があり、一部着工したものの完成することはなかった。

その1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦がはじまる。末期にはベルリンで激しい地上戦が行なわれ、鉄道施設は崩壊した。とくに南北地下線はベルリン市街戦において運河を潜る区間がナチス親衛隊によって爆破され水没、避難民など多数の犠牲者を出し、また復旧まで時間を要することになる。

第二次世界大後 - 東西ベルリン時代[編集]

1945年5月8日、ドイツが降伏し、ドイツとその首都ベルリンは、それぞれ戦勝4か国(米国、英国、仏国、ソ連)に分割統治されることになった結果、2つの政治体制が生まれ、1949年5月には米・英・仏の統治地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)、同年10月にはソ連統治地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)としてバラバラに独立。鉄道も西側はドイツ連邦鉄道 (DB) となり、東側は引き続きドイツ帝国鉄道 (DR) の名称が使用され続けた。東西ドイツ間の行き来は大きく制限されることになる。

しかし、ベルリンに関しては米・英・仏の統治地域が西ベルリン、ソ連の統治地域が東ベルリンになったものの、名目上は4か国による統治のままであった。また、ベルリンは東ドイツの中にあるため同じ政治体制の両者は一体化したが、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)の間の往来も場所は限られているが自由だった。鉄道は運営一元化の観点から、Sバーン・長距離線が東西問わず東側DR、Uバーンが西側BVGによる運営となった。

戦災、ならびに敗戦後ソ連軍による施設の接収もありズタズタになったSバーンは、1947年ごろには戦前の規模を取り戻している。またマールスドルフ - シュトラウスベルク、グリューナウ - ケーニヒス・ヴスターハウゼンなど、おもに東側で路線の延長が行なわれている。一方で、長距離線は戦前のターミナルの殆どが西ベルリン側になったため、復興は最低限の区間に留まった。

このように東西問わずベルリン市民の足としてSバーンは復興した。しかし、東西ベルリン間の通行が自由なことが、東ドイツ国民(および東ベルリン市民)の西ドイツへの逃亡を、また逆に西側諸国のスパイ入国を許すことになっていた。これは東ドイツにとって死活問題であった。

それらを阻止するために、東ドイツの手で建設されたのがベルリンの壁である。1961年8月13日深夜、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)間の通行は、突如として全面的に遮断された。Sバーンも分断され、西側区間と東側区間で完結するようになる。この時に、リヒターフェルデ - テルトウ、シュパンダウ以西、ヴァンゼー以南など東西を跨ぐ末端区間は廃止になっている。

しかし、壁建設後もSバーンは全てがDRの経営であることに変わりはなかった。西側では「Sバーンのお金は鉄条網(壁)に払われる」としてボイコット運動が行なわれた。また並行してバス、地下鉄なども整備されたため、利用客は減少の一途を辿る。赤字額は年々膨らむ一方となり、保守も満足に行なえない状態になった。

1980年9月には待遇改善を求める西ベルリン居住の従業員によるストライキが発生。これを機に大多数の従業員が解雇され、環状線など多くの路線が休止(廃止)となった。そして、壁建設前は70万人いた利用者は1983年には1万人を割ってしまった。

ここに至り西側当局も市内約150 kmにおよぶSバーン施設が廃墟となることを放置できず、東側との交渉に入り、1984年1月から西ベルリン側のSバーンについては、西ドイツ政府の補助のもとにBVG(ベルリン運輸公社)が列車運行を引き継ぐことになった。長距離線はDRの運営のまま残った。なお、当時西ベルリンの動物園駅と西ドイツのハンブルクハノーファーニュルンベルクを結ぶ回廊列車が運行されていたが、列車の運行はフリードリヒ通り駅を起点としていた。

当初、市街線・ヴェツラー線(フリードリヒ通り - ヴェストクロイツ - ヴァンゼー)、ドレスデン線(アンハルト駅 - リヒテンラーデ)で営業を開始、以降、ヴァンゼー線(アンハルト駅 - ヴァンゼー)、南北地下線・プロイセン北線(アンハルト駅 - ゲズントブルンネン - フローナウ)が復活した。これが西ベルリンにおけるSバーンの最終形となる。車両の面では、480形電車が数編成投入された。

一方東側では、ベルリンの壁建設を期に外環状線の一部区間を電化してSバーンが乗りいれた。その後も、ヴリーツェン線の電化など運転区間の拡大が実施された。これは、ベルリンの地下鉄網が連合国の取り決めにより一部区間を除き西側管轄で、東側はSバーンが主力交通機関であったためである。しかし車両の面では西側路線の需要減少およびソ連からの接収車両の返還による余剰車両の発生、新形式ET170の開発失敗もあって、485形登場の冷戦末期まで全く置き換えが進まなかった。そのほかの背景に電車の生産能力不足もあり、壁崩壊直前にもUバーン新線開業に際しても西ベルリンより中古車100両以上の譲渡を受けている。

東西再統一後[編集]

その他[編集]

市街線のレンガ造りの高架線は東京の新橋附近の高架線の参考になったといわれる(ヤノヴィッツ橋駅。手前はシュプレー川)。

ベルリンの南西に位置するポツダムには、Sバーンの博物館がある。

ベルリンSバーンが架線集電式ではなく第三軌条式電化を推進した背景には将来の市内中心部への地下乗り入れ時にトンネル断面を小さくする意図があったといわれる。ハンブルクSバーンも当初は架線集電式を採用したにもかかわらず、同様の理由から途中で第三軌条式に変更している。しかし新路線建設費低減の一方で特殊規格の車両仕様を生み、交流電化の進んだ現在では車両運用も限定されてしまうことから、戦後にSバーン網を整備したミュンヘンなどのドイツ他都市では採用されなかった。

日本では明治時代に、東京の中央停車場(現在の東京駅1914年(大正3年)開業)を建設するにあたり、頭端式ではなく、通過式を採用することで計画された。これは、ベルリンの市街線(シュタットバーン)の建設に携わった鉄道技師で、20世紀初頭に来日したお雇い外国人であるヘルマン・ルムシュッテルフランツ・バルツァーのアイデアで、二人は当時のヨーロッパ各都市での頭端式ターミナルの失敗とシュタットバーンの利点を念頭に強力に提言したとされる。八重洲口側に客車ヤード・貨物ヤードを設け、将来の需要増大の用地確保に備えたのも、先を見据えたバルツァーのアイデアである。もっとも、バルツァーがデザインした当初の和風建築の駅舎案、および東海道本線と東北本線との列車線直通運転は結果的には採用されなかった。

東京駅から新橋駅に至る赤煉瓦の高架線もバルツァーが基本設計し、彼の薫陶を受けた日本人技術者により建設され完成した。そのため、その構造・外観はベルリンのシュタットバーンと酷似している。東京 - 御茶ノ水間は一見煉瓦造り高架橋であるが、レンガ貼りの鉄筋コンクリート製でシュタットバーンの仕様とは異なる。

ルムシュッテルとバルツァーは当時未完であった山手線の環状運転化などの東京の鉄道路線網の整備を提言した。当時のベルリンの鉄道網を理想形に修正した内容だが、都内の国鉄鉄道網設は総武快速線の地下乗り入れをもってほぼこの二人の立案したスケッチ通りの路線網が完成している。実現していなかった東海道本線と東北本線の直通運転も開始される予定である。

脚注[編集]

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  1. ^ Robert Schwandl, Schnellbahnen in Deutschland, Berlin: Ruksaldruck, 2007, p.69.
  2. ^ Eisenbahnatlas Deutschland, Köln: Verlag Schweers + Wall Gmbh, 2007, pp.126-129.

参考文献[編集]

  • Peter Bley, Berliner S-Bahn, デュセルドルフ・Alba, 1997. ISBN 3-87094-354-8
  • 宇都宮浄人「ベルリンのSバーン」『鉄道ファン』315号、東京・交友社、1987年7月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]