ベネディクト16世 (ローマ教皇)
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ベネディクト16世(ラテン語:Benedictus XVI 1927年4月16日 - )はドイツ出身のカトリック司祭、第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - )。本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー (Joseph Alois Ratzinger)。ラテン語の主格表記でベネディクトゥス16世と表記されることもある。
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[編集] 人物
ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりであり、ベネディクトの教皇名を名乗る教皇は、第一次世界大戦時に教皇位にあったベネディクト15世以来80年ぶり。
ベネディクト16世はミュンヘン教区の司教に就任する以前、神学者としてすでに有名な存在であった。パウロ6世時代の1977年に枢機卿にあげられ、ヨハネ・パウロ2世によって1981年に教皇庁の教理省長官に任命された。1993年に司教枢機卿になり、1998年に枢機卿団の次席枢機卿、2002年11月30日に首席枢機卿に任命された。歴代の首席枢機卿はオスティアの名義司教であることが通例であるため、同時にオスティアの司教位も受けた。
ベネディクト16世は教皇就任以前からヨハネ・パウロ2世の側近中の側近として大きな影響力を持っていた。ヨハネ・パウロ2世の晩年には実質的に教皇庁をとりしきっており、首席枢機卿としてヨハネ・パウロ2世の葬儀の司式を行い、自身を選出したコンクラーヴェの運営においても中心的な役割を担った。
母語のドイツ語のみならず、イタリア語、英語、フランス語、教会ラテン語など数言語に堪能であり、1992年以来フランスの倫理学アカデミーの会員でもある。またドイツ人らしくサッカー好きでバイエルン・ミュンヘンのファンクラブ会員であることも知られている。
ベネディクト16世の思想や方針は前任者ヨハネ・パウロ2世のそれと非常に近いと考えられている。たとえばカトリック教会が守ってきた結婚や家族に対する伝統的な考え方を強く支持することや、避妊や妊娠中絶の否定、同性愛差別の肯定や女性聖職者を認めないとする点などである。
[編集] 生涯
[編集] 幼少期から
ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルグは、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となった。母マリアは1991年になくなっている。親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかしドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入、1943年には学友たちと共に対空防衛補助活動に動員された。1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月、ドイツ降伏後のわずかな期間、ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。
戦後、兄ゲオルグと共に神学校にはいったヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得てフライジング大学に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、チュービンゲン大学で教鞭をとった。チュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。
第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。このころのラッツィンガーは進歩的・改革的神学者とみられていた。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。
[編集] 司教・枢機卿時代
1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ド・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。
1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉はヨハネの第三の手紙からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。
1981年11月、教皇ヨハネ・パウロ2世はラッツィンガーを教理省長官に任命。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたものである。1982年にミュンヘン大司教区を離れ、1993年に司教枢機卿となった。1998年に次席枢機卿、2002年には枢機卿団の長たる首席枢機卿に選ばれた。
[編集] 教皇就任
ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化し、後継教皇の話題が出るようになると、ラッツィンガーはその最有力候補とみなされるようになった。かつては引退してドイツで執筆活動に専念したいと語っていたラッツィンガーも、徐々に変化し、「神の意思ならどのような仕事でも引き受けなければならない」というようになった。教皇就任前の2005年4月初頭にはタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。
2005年4月19日、コンクラーヴェは二日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福(benedictio)を与えた。
[編集] 教皇として
[編集] 教皇名の意味
自ら選ぶ教皇名からはその教皇の意図や目指すところがうかがえる。ベネディクト16世は2005年4月27日に行われた初の一般謁見で、ベネディクトという名を選んだ理由について語っている。それによると、まず世界大戦という困難な時期にあって教会を指導し、世界平和の希求を教会の第一の使命であると考えていたベネディクトゥス15世に対する敬意があり、次にベネディクト会の創立者ヌルシアのベネディクトゥスからとっていることを明らかにしている。ベネディクトゥスとベネディクト会は中世初期の混乱した時代において、キリスト教の知的遺産や古代文化を守り、次の時代へと継承する役割を担った。教皇は現代を混乱した時代と見、キリスト教2000年の遺産を次代に引き継ぐ責務を感じているといわれる。またベネディクトゥスがヨーロッパの守護聖人であることから、ヨーロッパのキリスト教を再びよみがえらせたいという意志の表れと見る向きもある。
ベネディクト16世の教皇紋章からは、伝統であった教皇の三重冠が消え、代わりに司教のしるしであるミトラが描かれている。教皇着任以降、一般世界に与えた印象は、温和で人の話を聞こうとする教皇というものであった。教皇はもっと人々と近づくため、パパモビル(謁見用教皇車)もオープンなものにしたいと考えているという。
教皇の着座式のミサでも従来行われてきた全枢機卿の忠誠の誓いの式が廃止され、代わりに枢機卿、聖職者、修道者、信徒家族、最近洗礼を受けた人々の12人の代表による式が行われた。全枢機卿は教皇選挙の終わりにすでに忠誠の誓いをたてている。ベネディクト16世はそういった習慣を廃止する一方で、かつて行われていた赤い教皇靴をはく習慣や列福式の司式などの習慣を復活させてもいる。
[編集] 教皇庁人事
ベネディクト16世は教皇位につくと教皇庁の人事を発表したが、それは前教皇時代の人々を再任命という形で留任させるというものであった。
その中でも最も高位の人事は国務長官のイタリア人のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とヴァティカン市国の知事であるアメリカ人のエドモンド・スツカ枢機卿の二人である。このときの唯一の新人事は教皇自身がついていたポストであり、空位になっていた教理省長官の任命で、(予想を裏切って)サンフランシスコ大司教区の大司教ウィリアム・ジョゼフ・レヴァダが指名された。レヴァダは新しいカテキズムの編纂者の一人で、枢機卿団の誰よりも保守的な傾向を持つ人物であるともいわれる。教理省長官のポストは教皇庁の中でも影響力が大きく、前長官である教皇にとっては側近という意識が強いポストである。このポストにアメリカ人聖職者が選ばれたということは世界に少なからぬ衝撃を与えた。というのもアメリカ合衆国は世界政治において圧倒的な影響力を持つため、教皇庁の有力ポストにアメリカ人がつくことは教会の中立性に影響を及ぼす恐れがもたれるためであった(このためアメリカ人が教皇に選ばれることは起こりえないといわれている)。なお、レヴァダは2006年3月にベネディクト16世が初めて行った枢機卿任命で枢機卿に親任されている。
その後、2006年6月22日、定年によるソダーノ枢機卿の引退願いを受諾、同年9月15日に当時ジェノヴァ大司教のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が新たに教皇庁国務省長官に任命されている。
[編集] 列福・列聖
2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後五年を待たないと列福調査は開始されないのだが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かったうえ、葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト:イタリア語で「すぐに聖人に」の意)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて「福者」になることができる。「福者」になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。
5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープである。彼女はモロカイ島のダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日とさだめられた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。二人が列聖されるとハワイからの初の聖人の誕生となる。
列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世は司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。
[編集] 思想的立場
かつては進歩的神学者として有名だったベネディクト16世ではあるが、今では守旧派の元締めのように見られることが多い。たしかに彼はカトリックの伝統的な思想を擁護したいという強い意志を持ち、避妊、中絶、同性愛などに対しては現代社会の要請にこたえてカトリック教会の教えを変えることには断固反対という立場をとっている。とりわけ同性愛差別への肯定は多くの批判を浴びているが、これは前教皇ヨハネ・パウロ2世の立場とまったく同じものである。さらに相対主義や多元主義は「どんな思想や文化もなんでもあり」とする行きすぎであると警鐘を鳴らしている。
ベネディクト16世はカトリック教会は現代社会におもねるのでなく、神のメッセージを人々に伝える役割を果たすべきであるという思いを強く持っているといわれる。コンクラーヴェ開始のミサの中で彼はゆきすぎた相対主義を「個人のエゴと欲望だけに重きを置く結果になる」と警告している。もともとカトリック教会では「自らこそが正統、自らがすべて」という色合いが強かったが、第2ヴァティカン公会議において、カトリック教会がエキュメニズムや異文化理解を促進しなければならないとして劇的な方向転換を成し遂げた。しかし、教皇はこの思想が行きすぎたものになり、結果としてなんでもありという相対主義にいきつくことで、カトリック教会の存在の意味そのものが失われかねないと危惧しているといわれる。
2005年6月6日にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で行われたローマ教区信徒のためのミサの中で、ベネディクト16世は同性結婚や中絶への反対姿勢を再び明らかにしている。
2006年9月12日、ドイツの大学で行った講義の中で、ベネディクト16世はイスラム教の教えの一つであるジハードを批判する発言を行った。この事はアルジャジーラ等のアラブ系メディアの反発を受けた。また、パキスタン議会は、9月15日に彼に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。 なお、発言にはイスラムを邪悪で残酷と評した14世紀の東ローマ皇帝マヌエル2世の「ムハンマドは、剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という言葉を引用している。
2007年にはトルコを訪問。初のイスラム教国の訪問となった。このときには、前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブールのスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)を訪問。その後、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁を訪問、バルトロメオス総主教と会談した。
また、2007年1月24日にはアニメーションやコンピュータゲームを含む、エンターテインメント作品における過激な性表現や暴力を「卑俗で背徳的であり、不快」と非難する見解を表明している[1]。
第2バチカン公会議以来ミサはラテン語の他、各国語で行うことができるようになり、現地の言語によるミサが急速に広まった。2007年7月7日、第2バチカン公会議による典礼改革以前のラテン語による最後のミサ典書の使用を限定的ながら認める自発教令「スンモルム・ポンティフクム」を発表した。これは前教皇による第2バチカン公会議前の典礼に親しみを感じる信徒への配慮(1988年に自発教令の形で使徒的書簡「エクレジア・デイ」)に続くものである。
2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない。」とした。正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした[2]。
しかしながら一方で、上述のようにその言動に他教派から反発を受けることもある教皇ベネディクト16世ではあるが、2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席するなどしており、他宗教および東方教会を含む他教派との対話を拒絶しているわけでは無い[3]。
[編集] 著書
(日本語訳の存在する分のみ)
- 「信仰と未来」(田淵文男 訳、あかし書房)
- 「まことの兄弟とは―キリスト教的兄弟観」(吉田聖 訳、エンデルレ書店)
- 「キリスト教入門」(小林珍雄 訳、エンデルレ書店、ISBN 4-7544-0013-8 )
- 「典礼の精神」(濱田了 訳、サンパウロ、ISBN 4-8056-6121-6)
- 「新ローマ教皇 わが信仰の歩み」(里野泰昭 訳、春秋社、ISBN 4-393-33246-6)…半生が綴られた自伝。
- 「ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会、ISBN 4-7896-0605-8)
- 「教皇ベネディクト16世 回勅 神は愛」(カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画 訳、カトリック中央協議会、ISBN 4-87750-125-8 )
- 「信仰について―ラッツィンガー枢機卿との対話」(V. メッソーリ 著、吉向キエ 訳、ドン・ボスコ社、ISBN 4-88626-095-0)…枢機卿時代のインタビュー。
- 「ポスト世俗化時代の哲学と宗教」(J. ハーバーマスとの共著、三島憲一 訳、岩波書店、ISBN 4-00-024758-0)
- 「教皇ベネディクト16世 霊的講話集2005」(カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画 編訳、カトリック中央協議会、ISBN 978-4-87750-131-0)
- 「教皇ベネディクト16世 霊的講話集2006」(カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画 編訳、カトリック中央協議会、ISBN 978-4-87750-132-7)
[編集] 脚注
- ^ CNET JAPAN・2007年1月25日付「ローマ教皇、暴力的なゲームを非難」
- ^ 出典:ローマ法王、「カトリック教会だけが唯一の教会」(東亜日報)、バチカン「カトリック教会は唯一真の教会」(クリスチャントゥデイ)
- ^ 出典:ローマ法王、異宗教間サミットで「人類の和解」呼びかけ(AFPBB News)…記事中の集合写真では、中央にベネディクト16世がコンスタンディヌーポリ総主教ヴァルソロメオス1世とともに並んでいる。
[編集] 外部リンク
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