ベドルジハ・スメタナ
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ベドジフ・スメタナ(またはベドルジハ・- / ベトルジヒ・-、チェコ語:Bedřich Smetana[ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana]
発音、1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニストであり、「ヴルタヴァ」(モルダウ)を含む一連の6つの交響詩から成る『わが祖国』(Má Vlast)が特に知られる。ドイツ語名Friedrich Smetanaでも知られる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 幼年期
スメタナは1824年3月2日、ボヘミア北部のパルドゥビツェ州リトミシュル、(Litomyšl、ドイツ名:Leitomischl)でビールの醸造技師で父親のフランチシェック・スメタナ(1777-1857)の息子として生まれた。幼少期から音楽的才能を開花させ、早い時期からヴァイオリンを学んでいる[1]。なおヴァイオリンを習っている時に即興でワルツを弾いて、教師が書きとったものがスメタナの最初の作品であるとされている。のちにピアノも本格的に習って上達し、ヴァイオリンよりもピアノの方を気に入ったという[2]。なお父親も若い頃にヴァイオリンを習っており、仕事を終えた直後に友人たちと一緒に弦楽四重奏を演奏することを楽しんでいた程の音楽好きであったという。スメタナもその趣味的な一環として演奏に参加しており、弦楽四重奏曲などを演奏していた。
1831年に一家はリトミシュルからインドジフーフ・フラデツ郡(Okres Jindřichův Hradec)へ移転するが、スメタナの音楽教育は継続して行われ、ヴァイオリニストでオルガン奏者のフランチシェック・イカヴェッツ(1800-1860)に作曲などを習い、1832年(当時8歳)には『ギャロップ』と題された短い小品を作曲している。
この時期に1830年に入学した小学校を卒業してギムナジウムに入学しているが、学校の勉強がはかどることが出来ず、やむなくイフラヴァの学校に転校する。しかしここでもはかどることが出来ずに落第してしまい、1836年にはニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチュクーフ・ブロト郡,Okres Havlíčkův Brod)の学校に再度転校するものの、ここでも同じ結果となってしまっている。
[編集] 青年期
1839年にスメタナは父親の了承を得て(当初は抵抗していたが)プラハへ赴き、従兄弟のヨゼフ・フランチシェック・スメタナ(1801-1861)の紹介で彼の知り合いが運営する学校に行くことになる。ここでは再び音楽を学び、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得している。
この時期に初めてフランツ・リストの音楽に接し、同時にベートーヴェンやシューベルト、ショパンなどについても学び、深く音楽に関心を持つようになる。またポルカなど作曲を試みたり、友人たちと一緒に弦楽四重奏曲を演奏したりして過ごしていた。
1848年には、フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。
[編集] 中期
1849年、カテルジナ・コラールジョヴァーと結婚する。彼女とは1842年に知り合っている。スメタナの子供は4人生まれており、1851年1月に最初の娘ベドルジーシカ(1855年没[3])が生まれる。また他に次女ガブリエレ(1852年-1854年)、三女カテルジナ(1855年-1856年)、四女ジョフィエが生まれるが、四女を除く3人はそれぞれ夭折している。長女を失い悲しみにくれたスメタナは、1855年にピアノ三重奏曲を作曲し、深い感情が満たされた傑作を生み出している。
1856年、10月11日にプラハを離れたスメタナはスウェーデンのヨーテボリへ向かい、指揮者として赴任する。翌1857年にゲーテボルクで指揮者、ピアニスト、教師として活躍し、同地での音楽的な水準を高めて成功させた。またこの年に同地で2回ピアノの演奏会を行っており、同年4月17日に行われた演奏会ではベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏し、批評家たちから大いに絶賛を受けている。5月に一時プラハへ帰国し、9月末にヴァイマルにいるリストを訪問後、妻子を連れて再びゲーテボルクへ戻る。
この時期に作曲された主な作品は、2つの交響詩『リチャード三世』(作品11)と『ヴァレンシュタインの陣営』(作品14)などであり、この2作はリストから強く影響を受けている。
1859年にヨーテボリを離れることになり、3月に別れの演奏会を開催する。これは前年から胸の病気で苦しめられていた妻カテルジナが危険な状態に瀕しており、故郷に帰りたいと切望していた妻のために決心した末のことであった。しかし4月19日にドレスデンでカテルジナは世を去ってしまう[4]。
1862年、最初のオペラ『ボヘミアのブランデンブルク人』を作曲。1866年に初演されるが、聴衆の好評が得られず次第に上演されなくなる。
1866年に仮劇場(国民劇場の建設に伴って設けられた劇場)のオーケストラの指揮者に就任する。またこのオーケストラでヴィオラ奏者として活動していたアントニン・ドヴォルザークが在籍しており、ドヴォルザークは直接教えを受けている。
同年3月15日に2作目のオペラ『売られた花嫁』を作曲し、5月30日に初演されるが、当時は普墺戦争の最中[5]であったために客入りは悪く、2回上演されたのみでしばらくは中断されているが、終結後に上演(10月22日)されると成功を収めた。
[編集] 晩年期
1874年に梅毒に起因して中途失聴者となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品に『わが祖国』がある。
1882年11月頃から、頭に血が溜まったり、物がはっきりと言えなかったり、記憶が時々喪失することが多くなったりする。そして日頃幻影を見たりするなど症状はひどくなる一方であった。このような状況から脱するため、スメタナはオペラや管弦楽曲を含む一連の作品を作曲することを試みるが、これらは結果的に完成させることが出来なかった。前者のオペラ『ヴィオラ』はオーケストレーションが施された15ページ分の楽譜と、50ページほどの歌声部(弦楽の伴奏付き)が残されたままで、後者の管弦楽曲は『プラハの謝肉祭』と題された作品だが、第1部のみ完成しただけに過ぎない。
1884年2月に病状はより悪化し、3月にスメタナは梅毒の進行による脳障害により正気を失う。翌月の4月20日に一時躁暴状態となり、プラハの精神病院へ収容される。収容されたスメタナは次第に衰弱し、正気に戻れないまま一月後の5月12日にこの地で生涯を終えた[1]。
3日後の5月15日にプラハで大規模な葬儀が行われ、多くの国民が参加した。遺体はヴィシェフラットの民族墓地に葬られている。
[編集] 位置づけ
スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派の開祖とされる。
彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用し、また、彼の書いた旋律は時として民謡を彷彿とさせる。彼は、同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。
[編集] 主な作品
詳細はスメタナの楽曲一覧を参照
[編集] 歌劇
- 『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862年)
- 『売られた花嫁』(1863年)
- 『ダリボル』(1867年)
- 『リブシェ』(1872年)
- 『二人のやもめ』(1874年)
- 『口づけ』(1876年)
- 『秘密』(1878年)
- 『悪魔の壁』(1882年)
- 『ヴィオラ』(1874年、1883-84年、未完)
[編集] 管弦楽曲
- 祝典交響曲 作品6(1853-54年)
- ボヘミアの独立支持を期待してフランツ・ヨーゼフ1世の成婚を祝して彼に献呈しようとしたが、チェコ人であることを理由に政府からは却下された。当時のオーストリア国歌が第1、2、4楽章に用いられている。
- 交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58年)
- 交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59年)
- 交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62年)
- 連作交響詩『わが祖国』(Má Vlast)(6曲)(1874-79年)
- 祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49年)
- プラハの謝肉祭(1884年)
[編集] 室内楽曲
- 弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876年)
- 弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83年)
- ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855年)
- 『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880年)
[編集] ピアノ曲
- ポルカ『ピルゼンの思い出』(1843年)
- ピアノソナタト短調(1846年)
- 2台ピアノ8手のためのソナタ断章ホ短調(1851年)
- チェコ舞曲集第1集(全4曲、1877年)
- チェコ舞曲集第2集(全10曲、1879年)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 『大音楽家・人と作品19:スメタナ/ドヴォルジャーク』(渡鏡子著,音楽之友社)
[編集] 外部リンク
- IMSLP - 国際楽譜ライブラリープロジェクト内のベドジフ・スメタナのページ。無料で楽譜PDFが入手可能。
- ベドルジハ・スメタナ簡易作品表
