ヘンリエッテ・カタリーナ・ファン・ナッサウ

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ヘンリエッテ・カタリーナ
オラニエンバウム城

ヘンリエッテ・カタリーナ・ファン・オラニエ=ナッサウHenriëtte Catharina van Oranje-Nassau, 1637年1月31日 デン・ハーグ - 1708年11月4日 オラニエンバウム)は、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘で、アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世の妻。

ホラント州総督を務めるフレデリック・ヘンドリックとその妻のゾルムス=ブラウンフェルス伯爵夫人アマーリエとの間の六女として生まれた。両親にとっては実質的に3番目の娘である。1642年に幼くしてオストフリースラント伯エンノ・ルートヴィヒの許嫁となった。しかし後に成長したヘンリエッテ・カタリーナがエンノ・ルートヴィヒとの結婚に頑として応じなかったため、婚約は破談とされた。

その後、長姉のルイーゼ・ヘンリエッテがブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)に嫁いでいた関係で、大選帝侯の同盟者であるアンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世との縁談が舞い込んだ。ヘンリエッテ・カタリーナは1659年7月9日にフローニンゲンにおいて、ヨハン・ゲオルク2世と結婚した。この結婚は、その後長く続いていくブランデンブルク=プロイセンの統治者ホーエンツォレルン家アンハルト=デッサウ侯爵家との強固な同盟関係の礎となった。

裕福な先進国ネーデルラント出身の侯爵夫人ヘンリエッテ・カタリーナは、比較的貧しく立ち遅れた領邦であるアンハルト=デッサウ侯領の建築事業や開発事業に貢献した。彼女は1660年にニシュヴィッツ(Nischwitz)という村を買い取り、この村は1673年に侯爵夫人の出身家門に因んでオラニエンバウムと改称された。1683年以後、ヘンリエッテ・カタリーナはこの村に都城、公園、そして彼女自身の住まいオラニエンバウム城(Schloss Oranienbaum)を建設し、夫と死別した後はオラニエンバウム宮殿に隠遁した。

子女[編集]

参考文献[編集]