ヘンリイ・パイク・ブイ

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ヘンリイ・パイク・ブイHenry Pike Bowie, 1848年4月1日 - 1920年12月23日)は米国の日本美術史家、法律家リンクタイトル。日米親善や日系移民の権利擁護に貢献した。詩人平野威馬雄の父、料理研究家平野レミの祖父。雅号は武威(ぶい)。名前はHenry P. Bowieと綴られることもある。

経歴[編集]

カリフォルニア州生まれ。祖先はスコットランド貴族の家系であり、一族にはナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌがいる。

カリフォルニア大学卒業後実業界に入り、若くして億万長者となる。

パリ音楽院に留学し、作曲ヴァイオリンを修め、マッサールの高弟としてパガニーニ変奏曲などを学ぶ。サン=サーンスパデレフスキマスネドーデなどと交遊すると共に、早くからゴンクール兄弟浮世絵を共同研究。俳句連歌茶事書画に熱中。

1880年頃、米国東海岸で日系移民への排斥運動が起きた際には迫害された日系移民たちをカリフォルニア州サンマテオの自邸に招き、励ましと共に職を与える。その一方で日米協会(The Japan Society of San Francisco; The Japan Society of Northern Californiaの前身)を創立、初代会長として日系移民たちを援助。ポーツマス講和会議ではルーズヴェルト大統領に随行し、帝政ロシアによる東洋侵略政策を批判。

私生活では日本から大工を呼び寄せ、自邸に日本庭園を造り、茶室柿葺の冠木門などを建て、当時日露戦争の勝利に沸いていた日本のためにこれを凱旋門と命名。現在、この庭園は指定文化財になっている。

1893年に初来日し[1]、日本の美術品を収集。以後、来日すること数回、常に和服を着用した。巌谷一六から武威という雅号を受ける。京都に住んだ時には主に西川桃嶺(幸野楳嶺門人)や久保田米僊に、東京では島田雪湖・墨仙日本画家たちに師事し、ブイが描いた日本画も残っている。

明治天皇に仕えていた平野駒と東京で結婚。仲人は柳原愛子英語フランス語で『日本大和言葉の研究』『日本画の描法』(雪湖が一部挿絵を担当)を米仏の出版社から刊行し、1912年頃にベストセラーとなる。

1920年に帰米。同年12月23日カーネギーホールにて排日運動反対演説をおこなっている最中に壇上で倒れて急死。親日の功により旭日勲二等を贈られた。

著書[編集]

  • On the laws of Japanese painting: an introduction to the study of the art of Japan (P. Elder, 1911)
    • ヘンリー・P・ブイ著、平野威馬雄訳『日本画の描法』(濤書房、1972年)
  • Where the brambles bloom: a genelogical listing of many descendents of Rhodie Bowie, from Abraham Boey, the immigrant, a native of Sterlingshire, Scotland (G. Henry Bowie, n.p. 1980)

参考文献[編集]

  • 武内博編『来日西洋人名辞典』(日外アソシエーツ、1995年)

脚注[編集]

  1. ^ 1893年初来日との情報は武内博編『来日西洋人名辞典』(日外アソシエーツ、1995年)による。一方、朝日新聞社編『現代日本 朝日人物事典』p.1362(朝日新聞社、1990年)には1882年初来日とあり、どちらが正しいかは不明である。