ヘレン・ウィルス・ムーディ

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ヘレン・ウィルス・ムーディ
Helen Wills Moody
ヘレン・ウィルス・ムーディ、1929年
基本情報
フルネーム Helen Newington Wills Moody Roark
愛称 Little Miss Poker Face
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・カリフォルニア州フリーモント
生年月日 (1905-10-06) 1905年10月6日
没年月日 (1998-01-01) 1998年1月1日(92歳没)
死没地 同・カリフォルニア州カーメル
利き手
殿堂入り 1959年
4大大会最高成績・シングルス
全仏 優勝(1928-30・32)
全英 優勝(1927-30・32・33・35・38)
全米 優勝(1923-25・27-29・31)
優勝回数 19(仏4・英8・米7)
通算19勝は女子歴代4位
4大大会最高成績・ダブルス
全仏 優勝(1930・32)
全英 優勝(1924・27・30)
全米 優勝(1922・24・25・28)
優勝回数 9(仏2・英3・米4)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全仏 準優勝(1928・29・32)
全英 優勝(1929)
全米 優勝(1924・28)
優勝回数 3(英1・米2)
獲得メダル
女子 テニス
オリンピック
1924 パリ シングルス
1924 パリ ダブルス

ヘレン・ウィルス・ムーディHelen Wills Moody, 1905年10月6日 - 1998年1月1日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州フリーモント出身の女子テニス選手。同国が生んだ最大の女子テニス選手のひとりである。1920年代-1930年代にかけて活躍し、テニス4大大会で優勝31回内シングルス「19勝」(女子歴代4位)を挙げた。アメリカ人出身の女子初の国際的名声を得たアスリートと言われる。[1]

生まれた時は「ヘレン・ニューイングトン・ウィルス」(Helen Newington Wills)という名前であったが、選手時代の1929年12月にフレデリック・ムーディと結婚したことから「ヘレン・ウィルス・ムーディ」の名で最も広く知られるようになった。(ムーディとは1937年に離婚し、1939年10月にエイダン・ロークと再婚した後は「ウィルス・ローク」姓を名乗った。)試合中に表情を全く顔に出さないことから、“Little Miss Poker Face”(リトル・ミス・ポーカー・フェース)という愛称で呼ばれた選手だった。

現在のようなミニ・スカートとは全く違う、膝下ほどの長さの白いプリーツ・スカートを履いてプレーしていた。フォアハンド・ストロークの強打を最大の武器にしたベースライン・プレーヤーである。

経歴[編集]

ヘレン・ウィルスは13歳からテニスを始め、1921年1922年に全米選手権の女子ジュニア部門で2連覇した。1923年に17歳で全米選手権女子シングルス初優勝を果たし、以後2度の3連覇を含む7度の優勝を達成する。1924年パリ五輪で単複とも金メダルを獲得し、女子ダブルスでは先輩選手のヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン1886年 - 1974年)とペアを組んだ。しかしその後テニス界にプロ選手が登場したため、1928年アムステルダム五輪でテニスはオリンピック競技から除外された。(1988年ソウル五輪でプロテニス選手の参加が認められ、この大会でオリンピック競技としてのテニスが復活した。)パリ五輪の単複金メダルと同じ1924年に、ウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝に初進出を果たすが、最初の時はキティ・マッケイン1896年 - 1992年)に逆転負けして準優勝になっている。3年後の1927年にウィンブルドンで初優勝を果たし、決勝でスペインリリ・デ・アルバレス1905年 - 1998年)を 6-2, 6-4 で破った。それから1930年まで、同選手権に4連覇を達成する。1928年には全仏選手権でも優勝して、以後3連覇を含む4勝を挙げた。

ムーディは1931年昭和6年)に来日し、早稲田大学のコートで世界女王のプレーを披露して「女子テニス」を日本に紹介した。これは当時最盛期を迎えていた日本テニス界に大きな刺激を与えた出来事のひとつであった。1933年全米選手権女子シングルス決勝で、ムーディは同じ名前を持つアメリカのライバル、ヘレン・ジェイコブスとの対戦中に体調を崩し、ジェイコブスの 8-6, 3-6, 3-0 で途中棄権した。この試合を最後に、ムーディは全米選手権から撤退し、以後は出場大会をウィンブルドン選手権のみに絞った。2年後の1935年、ムーディはウィンブルドンで7勝目を挙げ、1914年に同選手権「7勝」を挙げたドロテア・ダグラス・チェンバースイギリス)に並んだことにより、AP通信社の「最優秀女子選手」に選出された。それから3年後の1938年にウィンブルドン選手権「8勝」の金字塔を打ち立て、チェンバースの記録を更新する。最後の決勝戦では、ジェイコブスとの「ヘレン対決」を 6-4, 6-0 のストレートで制した。この記録は1990年に「9勝」を挙げたマルチナ・ナブラチロワによって破られるまで、52年間にわたり同選手権の大会最多優勝記録であった。しかしこの頃ムーディは背筋痛を抱えており、「プロ転向に気乗りがしなかったため」この記念碑的な優勝を最後に32歳で現役を引退した。1959年国際テニス殿堂入りを果たしている。

ムーディはテニスをする傍ら、生涯を通じて絵画にも携わった。カリフォルニア大学在学中に美術の学位を取得しており、自宅近くにアトリエを構え、生涯中に何度かニューヨークの美術館で展覧会を開き、また「サタデー・イブニング・ポスト」紙の寄稿記事に挿絵も描いた。彼女にとっては、テニスと絵画が「孤独をいやすための薬」であった。1930年にメキシコの画家ディエゴ・リベラ1886年 - 1957年)が壁画『カリフォルニアの富』の製作を委嘱された時、ムーディはそのモデルのひとりに選ばれたという。また選手時代の自伝を含めて、3冊の著書も残している。

1938年テニス史上初の年間グランドスラムを達成したドン・バッジは10歳年上のムーディを「自分のアイドルの1人」と呼び、最盛期の1930年には高名な映画監督チャーリー・チャップリンまでが「ヘレン・ウィルスのテニスは今まで見た最も美しい光景だ」と絶賛したという。半世紀後の1987年にウィンブルドン選手権で「8勝目」を挙げたマルチナ・ナブラチロワが“ムーディの記録を更新する”目標を掲げたことから、この往年の名選手の名前が再びスポーツファンの話題にのぼることになった。

ムーディは82歳に至るまでテニス・コートに立ち、終生にわたりテレビ観戦にも熱心だった。“アイス・ドール”(氷の人形)と呼ばれたクリス・エバートや、自分のウィンブルドン優勝記録を抜いたマルチナ・ナブラチロワへの賞賛を惜しまず、最晩年はピート・サンプラスの躍進を歓迎していたという。まだ存命中の1996年シュテフィ・グラフがムーディの4大大会総計「19勝」を抜き、女子歴代2位に登り詰めた(全仏オープンで19勝に並び、ウィンブルドンで20勝目を挙げる)。ムーディの名前は「ナブラチロワの目標」として語られるようになったが、(1988年ソウル五輪で復活したテニス競技の金メダリスト)グラフもしばしばムーディと比肩される名選手になった。1998年1月1日カリフォルニア州カーメルにて92歳で長逝した。

ムーディは出身校のカリフォルニア大学に1,000万ドルを遺贈し、1999年に彼女の名前を冠した「ヘレン・ウィルス神経科学研究所」が同大学内に設立された。

主要な優勝[編集]

  • 全仏選手権 女子シングルス:4勝(1928年-1930年・1932年)/女子ダブルス:2勝(1930年・1932年) [大会3連覇を含む]
  • ウィンブルドン選手権 女子シングルス:8勝(1927年-1930年・1932年・1933年・1935年・1938年)/女子ダブルス:3勝(1924年・1927年・1930年)/混合ダブルス:1勝(1929年) [女子シングルス8勝は、52年間大会歴代1位であった]
  • 全米選手権 女子シングルス:7勝(1923年-1925年・1927年-1929年・1931年)/女子ダブルス:4勝(1922年・1924年・1925年・1928年)/混合ダブルス:2勝(1924年・1928年) [3連覇を2度達成]
  • 五輪金メダル:1924年パリ五輪 [単複とも制覇]


大会 対戦相手 試合結果
1923年 全米選手権 ノルウェーの旗 モーラ・マロリー 6-2, 6-1
1924年 全米選手権 ノルウェーの旗 モーラ・マロリー 6-1, 6-3
1925年 全米選手権 イギリスの旗 キティ・マッケイン 3-6, 6-0, 6-2
1927年 ウィンブルドン選手権 スペインの旗 リリ・デ・アルバレス 6-2, 6-4
1927年 全米選手権 イギリスの旗 ベティ・ナットール 6-1, 6-4
1928年 全仏選手権 イギリスの旗 アイリーン・ベネット 6-1, 6-2
1928年 ウィンブルドン選手権 スペインの旗 リリ・デ・アルバレス 6-2, 6-3
1928年 全米選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-2, 6-1
1929年 全仏選手権 フランスの旗 シモーヌ・マチュー 6-3, 6-4
1929年 ウィンブルドン選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-1, 6-2
1929年 全米選手権 イギリスの旗 フィービ・ワトソン 6-4, 6-2
1930年 全仏選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-2, 6-1
1930年 ウィンブルドン選手権 アメリカ合衆国の旗 エリザベス・ライアン 6-2, 6-2
1931年 全米選手権 イギリスの旗 アイリーン・ベネット 6-4, 6-1
1932年 全仏選手権 フランスの旗 シモーヌ・マチュー 7-5, 6-1
1932年 ウィンブルドン選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-3, 6-1
1933年 ウィンブルドン選手権 イギリスの旗 ドロシー・ラウンド 6-4, 6-8, 6-3
1935年 ウィンブルドン選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-3, 3-6, 7-5
1938年 ウィンブルドン選手権 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ジェイコブス 6-4, 6-0


テニス4大大会女子シングルス優勝記録
順位 優勝回数 選手名
1位 24勝 オーストラリアの旗 マーガレット・スミス・コート
2位 23勝 アメリカ合衆国の旗 セリーナ・ウィリアムズ
3位 22勝 ドイツの旗 シュテフィ・グラフ
4位 19勝 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ウィルス・ムーディ
5位タイ 18勝 アメリカ合衆国の旗 クリス・エバート | アメリカ合衆国の旗 マルチナ・ナブラチロワ
7位タイ 12勝 フランスの旗 スザンヌ・ランラン | アメリカ合衆国の旗 ビリー・ジーン・キング
9位タイ 9勝 アメリカ合衆国の旗 モーリーン・コノリー | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗アメリカ合衆国の旗 モニカ・セレシュ
11位 8勝 ノルウェーの旗アメリカ合衆国の旗 モーラ・マロリー
12位タイ 7勝 イギリスの旗 ドロテア・ダグラス・チェンバース | ブラジルの旗 マリア・ブエノ | オーストラリアの旗 イボンヌ・グーラゴング | ベルギーの旗 ジュスティーヌ・エナン | アメリカ合衆国の旗 ビーナス・ウィリアムズ*
*は現役選手


4大大会シングルス成績[編集]

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 SR 通算
全豪選手権 A A A A A A A A A A A A A A A A A 0 / 0 0–0
全仏選手権 A A NH A 2R A W W W A W A A A A A A 4 / 5 20–1
ウィンブルドン A A F A 1R W W W W A W W A W A A W 8 / 10 63–2
全米選手権 F W W W A W W W A W A F A A A A A 7 / 9 50–2

脚注[編集]

  1. ^ Finn, Robin (1998年1月3日). “Helen Wills Moody, Dominant Champion Who Won 8 Wimbledon Titles, Dies at 92”. New York Times. 2015年5月1日閲覧。

外部リンク[編集]