ヘイゼルの悲劇
| ヘイゼルの悲劇 | |
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事件現場となったヘイゼル・スタジアム
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| 日付 | 1985年5月29日 |
| 原因 | フーリガン問題、スタジアムの老朽化、警備体制の不備 |
| 攻撃手段 | 暴力 |
| 死亡者 | 39人 |
| 負傷者 | 400人以上 |
| 犯人 | リヴァプールFCサポーター |
| 対処 | リヴァプールFCは7年間、それ以外のイングランドのクラブは5年間の国際試合出場禁止。暴動に関与した14人が過失致死傷罪により懲役3年。 |
ヘイゼルの悲劇 [注 1] (ヘイゼルのひげき、英語: Heysel Stadium Disaster)は、1985年5月29日にベルギー・ブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアム [注 2] で行われたUEFAチャンピオンズカップ 1984-85決勝のリヴァプール(イングランド)対ユヴェントス(イタリア)の試合前に、サポーター同士の衝突がきっかけとなり発生した群集事故である[1]。
目次 |
背景 [編集]
詳細は「フーリガン」および「:en:Football hooliganism」を参照
フーリガニズムの起源 [編集]
サッカースタジアムでの観客による暴動は19世紀以来の問題であり[13]、1909年のスコティッシュカップ決勝では延長戦を行わなかったことを不服としたサポーターがスタジアムを破壊し100人以上が負傷[14]。1964年にはペルーでピッチに雪崩れ込んだサポーターに対して警官隊が催涙ガスを使用し、パニック状態になった観客が出口に殺到し318人が死亡した事故(エスタディオ・ナシオナルの悲劇)などが記録として残されている[14]。また1972年5月にスペインのバルセロナで行われたUEFAカップウィナーズカップ決勝・グラスゴー・レンジャーズ対ディナモ・モスクワ戦では、試合中から試合後にかけて泥酔したレンジャーズサポーターと警官隊が衝突を繰り返し、1人が死亡150人が負傷する事件を引き起こした[14][15]が、これによりレンジャーズは欧州サッカー連盟 (UEFA) から2年間の国際試合出場禁止処分(後に1年間に軽減)を受けた[15]。この試合はサッカークラブが暴力的サポーターの逸脱した行為により深刻な処分を受けた初の事例とされている[15]。
イングランド情勢 [編集]
イングランドのサポーターによる暴動は1960年代頃から頻発するようになリ[13][16]、サポーター同士による抗争だけでなく、遠征先の相手チームのスタジアムや近隣の商店街、移動に使用する鉄道やバスなどの公共の交通機関への破壊活動などを通じて社会問題として認識されるようになった[16][17]。暴力行為に及ぶサポーターの多くは若い失業者であった[18]。この背景には労働者階級の若者達がテレビ放送の影響もあり自分達の応援するクラブや選手達を崇拝の対象と見做し、日常の捌け口としてスタジアムでの暴力行為に及んでいたこと[14]、テレビ放送により映し出される暴力的なサポーターの姿に感化され、他のサポーター達も同じように振舞うようになったこと[19][20]などが挙げられる。
これらの対策として、スタジアムでは大量の警官が動員され、暴動の首謀者を捕獲するために特別チームが編成された[16]。また他の都市から遠征してくるサポーター集団に対してはスタジアム外でトラブルを派生させないように交通機関からスタジアムまでを警官により護送が行われ[16]、スタジアム内では観客同士のトラブル派生をさけるために別々の区画に隔離がされた[16][21]。
その一方でサポーターによる暴動は、鉄道や飛行機を使用した低料金での旅行が可能になり行動範囲が広がった[14][19]ことから、遠征先となるヨーロッパ各国のスタジアム周辺でも行われ、1974年5月29日にオランダのロッテルダムで行われたUEFAカップ決勝第2戦・フェイエノールト対トッテナム・ホットスパー戦[22][23]や、1975年5月28日にフランスのパリで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝・バイエルン・ミュンヘン対リーズ・ユナイテッド戦[22][23]、1980年6月12日にイタリアのローマで行われたUEFA欧州選手権1980グループリーグ、イングランド対ベルギー戦[22]などで暴動を引き起こした[13][14]。
1980年代に入り、長引く経済不況の対策としてマーガレット・サッチャー首相は、財政支出の削減と通貨供給量の縮小によるインフレの抑制[24]、国営企業の民営化と経済活動への規制緩和[25]、労働組合運動を雇用法の改正により規制[24][25]、税制改革[24]、行政改革、教育改革[26]、福祉制度見直し[27]などの改革を実施したが、これにより大量の失業者を生み出すことになった[24]。1985年当時のイギリスの失業率は13%を記録していたが、産業の構造転換に乗り遅れたリヴァプールなどの工業都市の若年失業率は30%に達しており、社会全体の閉塞感が暴動の頻発に繋がっているとの指摘がされた[18][28]。
兆候 [編集]
ヘイゼル・スタジアムでの事故が発生した1985年には、3月11日にFAカップ準々決勝でのミルウォールのサポーターによる大規模な暴動(ケニルワース・ロード暴動)が、5月11日にバーミンガムで15歳の少年が死亡し57人が重軽傷を負う乱闘事件が発生[18]するなど、暴力的集団によるトラブルが毎週のように報じられていた[29]。こうした暴力行為に及ぶ集団は、チェルシー、トッテナム・ホットスパー、ミルウォールなどのロンドンを本拠地とするクラブに多く[30]、地方のクラブの中でもマンチェスター・ユナイテッド、リーズ・ユナイテッドなどの集団が危険な存在として知られていた[30]。
リヴァプールのサポーターは通称「コップ」[注 3]と呼ばれ熱狂的な応援スタイルで知られていた[31]。一方で、その声援が相手チームからは恐れられ「フーリガニズム」の代名詞と見做される事もあり[31]、国際試合では1984年5月30日のUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝のASローマ対リヴァプール戦[32][33]や、1985年3月にオーストリアのウィーンで行われたFKアウストリア・ウィーン戦などで暴力事件を引き起こしていた[32]。これらの頻発するサポーターによる暴動への対策として、チェルシーではスタジアムのゴール裏に強制収容所に用いられる鉄条網を設置し、「人体には害はないが強度のショック症状を与える」電流を流す改装を施した[18]が、大ロンドン議会の反対に遭い電流の使用は中止された[18]。
概要 [編集]
運営 [編集]
会場となったヘイゼル・スタジアムは収容人数6万人のベルギー国内で最大のスタジアムであり、陸上競技と球技兼用のスタジアムである。過去にUEFA欧州選手権1972決勝、UEFAチャンピオンズカップ決勝 (1958, 1966, 1974) 、UEFAカップウィナーズカップ決勝 (1964, 1976, 1980) 、ヨーロッパ陸上競技選手権大会 (1950) などの国際大会を開催した実績のあるスタジアムだったが、1930年の建設から55年の年月が経過しており老朽化が進んでいた[34]。
運営側は混乱を避けるためにユヴェントスサポーターは正面向かって右側ゴール裏のM、N、Oゾーン、リヴァプールサポーターには正面向かって左側ゴール裏のX、Yゾーンに席が割り当てチケット販売を行った。X、Yゾーンに隣接するZゾーンは一般観客用の席として割り当てられていたが、ダフ屋がチケットを持たずに現地を訪れた一般のファンにZゾーンの席を売りさばいた[34]。Zゾーンのチケットを購入した人々の多くはユヴェントスサポーターだったため、両サポーターがX、YゾーンとZゾーンを隔てるフェンスを挟んで対峙することになった[34]。
事故の経過 [編集]
会場では試合に先立ちエキシビションマッチとして11歳から12歳の選手で構成される若いベルギー代表選手による紅白戦が行われていた[33]。赤チームが3-0でリードしたまま前半を終了し、後半に入った19時10分頃からスタンドではサポーター同士によるトラブルが始まった[33]。
試合開始1時間前から酒に酔ったリヴァプールサポーターはZゾーンにいるユヴェントスサポーターに空き缶や旗を投げつけるなど断続的に挑発[35]。これにユヴェントス側も応じ両サポーターは小競り合いを繰り返していたが、リヴァプール側がXゾーンとZゾーンを隔てていた防御用フェンスを破壊すると、手薄な警備の隙を突いて煉瓦や鉄パイプを武器にユヴェントスサポーターのいるZゾーンへと雪崩れ込んだ[35][36]。
Zゾーンの観客はリヴァプール側の襲撃によりパニック状態になり、大勢の観客が襲撃を避けようとメインスタンドとZゾーンの境にある高さ3mのコンクリート製の壁に殺到した[34]。壁は老朽化のため殺到した観客の重量に耐え切れず倒壊したことで「群衆雪崩」が発生し、先頭部にいた観客は崩れ落ちた壁や後方から殺到した観客に押しつぶされる形となり次々と犠牲になった[34]。グラウンドや陸上競技用のトラックには負傷者やトラブルを回避する数百人近い人々で溢れかえり、重傷者には心肺蘇生などの救急処置が行われ、救急車とヘリコプターを使って市内の医療施設に搬送された[35]。また犠牲者の遺体はスタジアム正面入り口の仮設テントに並べられた[35]。
その一方で興奮した両サポーター同士が衝突を続けたり、警官隊めがけて投石を行うなどの行為が頻発した[37]。この試合を最後に監督を退く事を表明していたリヴァプール監督のジョー・フェイガンがスタンドに歩み寄りサポーターに対し冷静になるよう直に呼びかけを行った[37]。またユヴェントス主将のガエタノ・シレアとリヴァプール主将のフィル・ニール (Phil Neal) が場内放送を通じて事態を鎮圧するべくサポーターに呼びかけを行った[34]が聞き入れるファンは少なく、1時間後に警官隊700人、軍隊1000人を動員して暴動を鎮圧した[36]。
ベルギー内務省は事件翌日の5月30日、両クラブのサポーターの衝突によりイタリア人25名を含む38人が犠牲になり[38](後に39人が死亡[39]、内訳はイタリア人が32人、ベルギー人が4人、フランス人が2人、イギリス人(北アイルランド出身)が1人と判明[39])、事件に関与したとしてイギリス人12人を含む15人を逮捕したことを発表した[38]。
原因 [編集]
事故の背景には、ベルギー当局の警備上の問題があることが指摘された[38][40]。イギリス政府からはサポーター同士の衝突を懸念し、ベルギー政府に対し厳重な警備を行うよう事前に要請が行われた[35]が、スタジアム内では適切な警備体制は行われなかった[35]。通常の警備体制であれば両サポーターの間に緩衝地帯を設けてその間に警官隊を配置して混乱やトラブルを防ぐような仕組みになっているが[34]、当日のスタジアムでの警官の配置は不十分であり、両サポーターによる小競り合いが始まった後も警官隊の応援を要請するなどの対応は遅れた[34]。
また会場ではナイフや鉄パイプなどの凶器、瓶缶類の持込が公然と認められており[38]、暴動を起こしたリヴァプールサポーターは酒に酔い酩酊状態にあるため一般客は騒動を止めたくても止めることが出来なかったとしている[38]。この暴動にはイギリスの極右団体国民戦線 (NF) が関わっているとの証言が多くのファンや関係者からなされた[41]。NFはこれまでもサッカースタジアムで党員の勧誘や暴力行為を推奨する活動を行っており[41]、当日もNF党員がサポーターの暴動を扇動したと指摘された[41]。
一方、加害者側であるリヴァプール側サポーターの中には、事故の発端となったのはユヴェントス側であり、「ユヴェントス側の投石行為が暴動を誘発させた」と主張する者もいた[40]。また「ユヴェントス側サポーターに虐められていた子供を助けるために喧嘩をしかけた。このことが暴動のきっかけとなった」と主張するリヴァプール出身の少年の談話がイギリスの新聞に掲載された[42]が、抗議が殺到したという[42]。またユヴェントス側サポーターの一人が拳銃を所持し、暴動が発生した際に複数回に渡って警官に発砲を行ったとの報道がテレビニュースを通じて行われた[43]。
また警備体制の不備のほかに、スタジアムの老朽化[33]、ダフ屋行為による不正なチケット販売[33]、スタジアムでの飲酒の容認[33]による暴力行為の誘発などが挙げられるが、1984年5月30日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝のASローマ対リヴァプール戦の試合後に両サポーターが衝突し、イタリア人青年1人が死亡し37人が負傷した事件[33][44]や、事故直前に催されたエキシビションマッチが事故の遠因となっているとの指摘もされた[33]。
試合 [編集]
| 大会名 | UEFAチャンピオンズカップ 1984-85 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
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| 開催日 | 1985年5月29日 | ||||||
| 会場 | ヘイゼル・スタジアム(ブリュッセル) | ||||||
詳細は「UEFAチャンピオンズカップ 1984-85#決勝」を参照
ユヴェントス監督のジョヴァンニ・トラパットーニは「多数の死傷者を出した惨事の後に試合をすることは出来ない」と中止を求めた[45]が、主催者側の「試合が中止になれば、騒動は更に過熱化する」との主張を受け入れ[45]、試合開始を1時間30分後に遅らせて試合を決行した[45]。
試合は56分にズビグニェフ・ボニエクが倒されて獲得したPKをミシェル・プラティニが決めてユヴェントスが1-0で勝利。ユヴェントスは3度目の決勝進出で初優勝を成し遂げたが、イタリア勢としては1968-69シーズンのACミラン以来16年ぶりの優勝となった。またリヴァプールはこれまで同大会では4回決勝戦へ進出しいずれも優勝を成し遂げていたが、初の決勝戦での敗退となった。
なお決勝点を決めたプラティニ自身は25年後の2010年5月29日にトリノで行われた事件の追悼式典においてヘイゼルの悲劇について
私は30歳に満たず無邪気にサッカーを楽しんでいたが、あの夜の暗い体験をした。あの試合は普通ではなかった。悲劇を経験した全ての人間はあの記憶を消しさることは出来ないし誰も忘れることは出来ない。今でも犠牲者とその遺族の方々を考えずにはいられない
国際社会の反応 [編集]
- 5月29日、サッチャー首相は同日夜に「事件に関与し責任を負うべき者たちは、我が国とサッカー競技に対し多大な恥辱と不名誉をもたらした」との声明を発表[46]。
- 5月30日、サッチャー首相は事件の全責任がリヴァプール側のイギリス人にあることを認め、イタリア政府に謝罪。犠牲者の遺族に対し見舞金として暫定的に25万ポンド(約8千万円)を支払った[47][48]。同日、サッチャー首相は暴動の再発防止策として、警察の警備権限強化、スタジアムでのアルコール販売禁止、凶器となり得る瓶缶類の持込禁止、観客の身元を確認するためのIDカードの発行などを盛り込んだ規制立法案を提出[47]。元首のエリザベス2世はイタリアとベルギー両国に対し事件に関するメッセージを送り弔意を示した[47]。
- 5月29日、ヴィルフリート・マルテンス首相がイタリア政府に対し弔電を送った[36]。
- 5月30日、同国の内務大臣はイングランドの全てのサッカークラブのベルギーへの入国を拒否する声明を発表[47]。
- 5月31日、同国のテレビ局RTBFは事件当日、騒動が更に悪化することを懸念した関係者によりユヴェントスを意図的に勝利させたとする八百長疑惑を報道したが、ベルギーサッカー協会は疑惑を全面的に否定した[47]。
- 6月1日、メルスブローク空軍基地で犠牲者に対する追悼式典を開催し、マルテンス首相ら政府関係者が出席[49]。
- 5月29日、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領は「スタジアムを惨劇に変えた暴力行為を憎む」との声明を発表[36]。
- 6月1日、リグーリア州インペリア県のディアーノ・マリーナでイギリス系企業の所有するバスが襲撃にあう[50]。ミラノ市内でイギリス人男性が暴行を受ける[50]。
- 6月2日、ミラノ市内のイギリス系専門学校に火炎瓶が投げ込まれる[47]。同日、ローマ市内のイギリス大使館前で数百人がデモ活動[47]。
- 5月29日、第2ドイツテレビ (Zweites Deutsches Fernsehen, ZDF) は試合開催に抗議して当日の中継を中止した[36]。同テレビ局は放送中止の理由について「多数の死者を出した後に、暴徒に囲まれながら何事もなく試合を放送することは無責任である」と伝えた[46]。
対処 [編集]
イングランドのサッカーを統括するフットボール・アソシエーション (FA) は5月30日、協会に加盟する全クラブに対し翌1985-86シーズンの国際大会への出場自粛を決定[36]したが、欧州サッカー連盟 (UEFA) は6月2日、 イングランドの全クラブに対し欧州での国際試合への無期限出場禁止 [47][51](当初はイングランドの全クラブへの無期限出場禁止処分の解除後に当事者のリヴァプールは更に3年の出場禁止処分を課せられていたが、後にイングランドの全クラブは5年間、リヴァプールは7年間の出場禁止処分に変更された)、被害者側のユヴェントスに対しUEFA主催の国際試合においてホームゲーム2試合を無観客で執り行う[52]、主催者側のベルギーは今後10年間、UEFA主催の国際大会の決勝戦開催を禁止するとの処分を発表した[51][52]。FAの理事を務めるバート・ミリチップは「妥当な判断」としてこれを支持した[47]。UEFAは6月5日、事故犠牲者の遺族に対し総額50万スイスフラン(約5千万円)の見舞金を支払うことを決定[47]。
国際サッカー連盟 (FIFA) は事故後、試合時の安全性を高めるように世界各国のサッカー協会に対し通達したが[36]、UEFAの決定を受けて6月6日にイングランドの全クラブに対し国外での全ての国際試合禁止を決定。これに対しFAは「全ての国際試合から締め出されては改善した成果を見せる機会を失う」とFIFAの決定に提訴し[47]、同年7月11日に欧州以外での国際試合禁止処分は解除された[52]。
同年6月、欧州21カ国のスポーツ担当大臣による会議の席上でスタジアム周辺での警備強化、スタジアムでのアルコール販売禁止などを盛り込んだ「サッカースタジアムでの暴力根絶のための協定」が採択され、同年9月にイギリス、オーストリア、オランダ、ギリシャ、デンマーク、ベルギーの6カ国が協定に署名した[53]。
裁判 [編集]
イギリス当局により実行犯と見られるリヴァプールサポーター25人が割り出され、1987年9月9日、ベルギーでの裁判の起訴に出頭するため、軍用機でベルギーに移送された[54]。裁判は翌1988年から開始され、有罪の場合は最大で懲役15年の判決が下される可能性があった[54]。ベルギーで行われた裁判での5ヶ月の審議の結果、1989年に暴動に関与した14人が過失致死傷罪により有罪となり、7人に懲役3年、残りの7人が執行猶予3年の判決を受けた[39][54]。
影響 [編集]
クラブへの影響 [編集]
UEFAによるイングランド勢の出場禁止処分により以下のクラブが数年間、UEFA主催の各国際大会への出場資格を失った。事件が発生する年までの10年間でチャンピオンズカップに7度優勝するなど絶頂期にあったイングランドのクラブは国際舞台での活躍の場を失ったことで国際競争力を失う結果となった[55]。出場禁止処分が解けた後のイングランド勢のUEFAチャンピオンズカップとUEFAチャンピオンズリーグでの決勝進出は1999年のマンチェスター・ユナイテッドまで1つもなく、リヴァプールは事件から20年後の2005年まで同大会での決勝進出と優勝は途絶えることになった。
| クラブ | UEFAチャンピオンズカップ | UEFAカップウィナーズカップ | UEFAカップ |
|---|---|---|---|
| リヴァプール | 1986-87, 1988-89, 1990-91 | 1989-90 | 1985-86, 1987-88 |
| エヴァートン | 1985-86, 1987-88 | 1986-87 | 1988-89 |
| アーセナル | 1989-90 | - | 1987-88 |
| マンチェスター・ユナイテッド | - | 1985-86 | 1986-87, 1988-89 |
| コヴェントリー・シティ | - | 1987-88 | - |
| ウィンブルドン | - | 1988-89 | - |
| トッテナム・ホットスパー | - | - | 1985-86, 1987-88, 1989-90 |
| ノリッジ・シティ | - | - | 1985-86, 1987-88, 1989-90 |
| ノッティンガム・フォレスト | - | - | 1988-89, 1989-90 |
| サウサンプトン | - | - | 1985-86 |
| ウェストハム・ユナイテッド | - | - | 1986-87 |
| シェフィールド・ウェンズデイ | - | - | 1986-87 |
| オックスフォード・ユナイテッド | - | - | 1986-87 |
| ルートン・タウン | - | - | 1988-89 |
| ダービー・カウンティ | - | - | 1989-90 |
フーリガン対策 [編集]
1989年にサッカー監視法が制定され、サッカー関連の犯罪に関して有罪判決を受けた者に対し、裁判所が行動を制限する命令を下せるようにした[56]。この監視法は暴力行為だけでなく、人種差別行為、ダフ屋行為などを行った者も処罰の対象となった[56]。
また、武装組織アイルランド共和軍 (IRA) と対立していたアルスター義勇軍を取締する際に効果を発揮した潜入捜査をサポーター集団や暴力的サポーターに対し実施[57]。国家犯罪情報局 (NCIS) にサッカー部門が常設され情報を調整し、過去にスタジアムでの暴力事件に関与した人物のデーターベース化や、各国のクラブや警察機関と連携し情報を共有できるようにするなどの対策も講じられた[57][58]。
同年4月15日に行われたFAカップ準決勝のリヴァプール対ノッティンガム・フォレスト戦ではテラスと呼ばれるゴール裏の立見席にサポーターが殺到し、96人が死亡600人以上が負傷する群集事故が発生(ヒルズボロの悲劇)し、リヴァプールサポーターは再び批判を受けた[55]。事件を検証したピーター・テイラー裁判官は入場時の観客誘導に問題があったことを指摘すると共に、スタジアムの安全性確保のため立見席の廃止を提唱した(テイラー・レポート)[55][59]。この提唱を受け1992年から始まったプレミアリーグではスタジアムの座席は全席指定の着席式に改められた。
1980年代に発生した2つの事件はスタジアムにおける観客の安全性確保の大きな警鐘となった[55]。1990年代に入ると労働者階級に変わって中産階級のファンが増加[60]したことで暴力事件は減少し観客のマナーも向上するなど、スタジアム内でのトラブルは過去の出来事と考えられるようになった[60][61]。その一方で、路上、酒場、交通機関などといったスタジアム外でのトラブルは依然として頻発[62]するなど、フーリガン問題の根本的な解決には至っておらず[62]、NCISの規定では試合前後の24時間以内に発生したトラブルについてはサッカーに関連した事件として記録し、取り締まっている[62]。
その後 [編集]
UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05の決勝トーナメント準々決勝で、20年ぶりにリヴァプールとユヴェントスが対戦することとなった。
2005年4月5日に行われたアンフィールドでの第1戦の試合前に、事件の犠牲者への追悼式が行われた。この際に「加害者側」であるリヴァプールのサポーター達は「AMICIZIA」(イタリア語で友情)の人文字を作り「被害者側」であるユヴェントスのサポーターへ和解を求めた[63]。これに対しユヴェントスのサポーターは同年13日にデッレ・アルピで行われた第2戦において「1989年4月15日シェフィールド、神は存在する」と描かれた横断幕を掲示し、ヒルズボロの悲劇はヘイゼルの悲劇に対する神罰であると応じた[55]。
試合は第1戦はホームのリヴァプールが2-1で勝利、第2戦は0-0の引き分けに終わり、リヴァプールが準決勝へ進出した。
脚注 [編集]
注釈 [編集]
- ^ 英語名のHeysel Stadium DisasterのDisasterを日本語訳すると「災害」「惨事」「災難」になるが、日本では「悲劇」 (Tragedy) と表記されることが慣例化している[1][2][3][4][5][6][7]。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヘイゼル事件[8]、「ヘイゼル・スタジアム死亡事件」[9]「ヘーゼル・フットボール競技場騒動」[10]、「エーゼルの悲劇」[11]といった表記もある。
- ^ 1963年に制定された言語法により、ブリュッセルを含む周辺19自治体ではフランス語とオランダ語の双方を公用語とすることを定めている[12]。フランス語では、スタッド・デュ・エゼル (Stade du Heysel)、オランダ語では、ヘイゼル・スタディオン (Heizel Stadion) と表記されることになるが、本稿では慣例的表記[1]に併せて記す。
- ^ 第二次ボーア戦争の際に激戦地となった丘陵「スパイオン・コップ」に由来する[31]。この戦闘に多くのリヴァプール出身者が兵士として加わっており、その戦いぶりは市民の間で自慢となった[31]。
出典 [編集]
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参考文献 [編集]
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- 川北稔 『イギリス史』 山川出版社、1998年。ISBN 978-4634414105。
- パット・コリンズ「血塗られた欧州チャンピオンズカップ--欧州サッカーの栄誉を決める日が戦慄すべき夜となった!」『イレブン』1985年8月号
- ミシェル・ピコ「ベルギーの惨劇でやっと糾弾されたサポーターの暴走--ファンの暴挙はサッカーをダメにする」『サッカーマガジン』1985年8月号
- ドミニック・ボダン著、陣野俊史、相田淑子訳 『フーリガンの社会学』 白水社、2005年。ISBN 4560508941。
- クレイグ・マクギル著、田邊雅之訳 『サッカー株式会社』 文藝春秋、2002年。ISBN 978-4163581804。
- パトリック・ミニョン著、堀田一陽訳 『サッカーの情念--サポーターとフーリガン』 社会評論社、2002年。ISBN 978-4784503988。
- トニー・メイソン著、松村高夫、山内文明訳 『英国スポーツの文化』 同文館、1991年。ISBN 978-4163581804。
- テオ・ライゼナール著、佐藤克彦、野間けい子訳 『フーリガン解体新書』 ビクターブックス、2002年。ISBN 978-4893891723。