ブレーズ・コンパオレ
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| ブレーズ・コンパオレ Blaise Compaoré |
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| 任期: | 1987年10月15日 – 現職 |
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| 出生: | 1951年2月3日 フランス領オートボルタワガドゥグー |
| 政党: | 民主主義進歩会議(CDP) |
| 配偶: | チャンタル・コンパオレ |
ブレーズ・コンパオレ(フランス語:Blaise Compaoré、1951年2月3日 - )は、ブルキナファソの政治家。同国の第6代大統領。同国の政党、民主主義進歩会議(CDP)の創設者でもある。
目次 |
[編集] 生い立ち
コンパオレは1951年に首都ワガドゥグーから34km離れたジニアレで生まれた。トーマス・サンカラ大統領の時代には法務大臣を務めた。サンカラと出会ったのは、1976年、モロッコの軍事教育センターでのことになる。以来、サンカラとコンパオレは親しい間柄となった。その後、セイェ・ゼルボおよびジャンバプティスト・ウエドラオゴ政権に対するクーデターで大きな役割を担った。1985年にチャンタル・コンパオレと結婚している。
[編集] クーデター
1987年10月15日、コンパオレはクーデターによって当時大統領であったサンカラを殺害し、第6代大統領に就任した。サンカラの殺害について、コンパオレは「事故」と説明しているが、その主張には疑問の声が多い。大統領就任後、コンパオレはサンカラの政策方針の多くを転換した。また、就任後すぐに、政権に対する謀議を図ったとして著名な革命家リーダーであったアンリ・ゾンゴ、ジーン=バプティスト・ブカリー・リンガニの2人を排除した。
[編集] 大統領選挙
1991年、コンパオレは選挙によって大統領に選出された。主要な野党勢力は、コンパオレが権力の座に就いた際のサンカラの死について疑わしい点があることから、これに抗議する形でボイコットを行った。不安定な政治情勢と大衆の抗議によって、投票したのは有権者のおよそ25%だった。
1998年の選挙でコンパオレは再選を果たした。2005年8月、コンパオレは3選を目指す意思を表明。これに対して野党からは、大統領の任期を2期までに制限し、任期も7年から5年に短縮した2000年の憲法改正に反するという声が上がった。一方、コンパオレの支持者からは、修正憲法の条文は過去に遡及して適用することはできないと反発した。これらの反対や反論にもかかわらず、ブルキナファソの憲法委員会は2005年10月、コンパオレは2000年の段階で大統領の座にあったので、修正憲法は2期目が終わるまで適用されないという判断を下した[1]。この結果、コンパオレは2005年の大統領選挙に立候補することが認められることとなった。
2005年11月13日、大統領選挙が行われ、コンパオレは80.35%もの票を得て12人の対抗馬を破り3選を果たした。選挙戦当初、16の野党がコンパオレに対抗するため連携することを発表したが、失敗に終わった。コンパオレは「国民和解」を呼びかけたが、野党からの協力は得られていない。
[編集] 脚注
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