ブルンヒルド

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「拷問されるブルンヒルド」フィリポトー、ジラルデ画。

ブルンヒルド[1](543年頃 - 613年)は、アウストラシアの王シギベルト1世en)王妃。王の亡き後は息子や孫、曾孫の摂政としてアウストラシア東部とブルグントを支配した。ローマ式の中央集権制度を導入し[2]、当初は政治的な洞察力を持つ優れた進歩的な支配者として知られたが、晩年は冷酷で貪欲な人物として名高くなっていった。

生涯[編集]

ブルンヒルドは543年ごろに西ゴート王国の首都トレドで王アタナギルドと王妃ゴイスヴィントの間に生まれた。彼女は二人姉妹の妹であった。父が王位に登り詰めた554年、ブルンヒルドはまだ11歳だった。彼女はトレドでキリスト教アリウス派の教育を受けた。

最初の結婚[編集]

シギベルトの父クロタール1世はフランクの4つの王国を再統一したが、シギベルトと他の三人の息子達はそれを再び分割した。歴史家で司教のトゥールのグレゴリウスen)によれば、シギベルトが西ゴート王国の王女と結婚したのは、彼の兄弟が多妻婚を選んだことに対する批判であった。身分の低い女たちとふしだらな婚姻関係を持つ代わりに、シギベルトは教養があり身持ちのよい王女と結婚した。

シギベルトの弟、ネウストリア王キルペリク1世en)は兄の高貴な結婚の影響を受けてブルンヒルドの姉ガルスヴィントen)への求婚の使者を西ゴート王国へ派遣した。トゥールのグレゴリウスは、キルペリクはブルンヒルドと兄の結婚を羨ましく思ったため結婚を申し込んだとしている。しかしながらガルスヴィントは彼に娼婦や愛人を追放するように命じ、キルペリクはすぐ彼女にうんざりしてしまった。ガルスヴィントは故郷に帰らせてくれれば結婚の時に持参した財宝はいらないとキルペリクに懇願したが、彼はそれを信じなかった[3]。キルペリクはその年のうちに愛妾の一人フレデグンドと共謀してガルスヴィントを殺害した。彼はその後すぐにフレデグンドと結婚した。

ブルンヒルドは姉の死によりフレデグンドを忌み嫌い、激しい憎悪の念を抱いた。二人の王妃は夫に武力に訴えるよう求め[4]、シギベルトは兄のブルグント王グントラムに二人の王妃の争いを仲裁するように依頼した。グントラムはガルスヴィントへ「朝の贈り物」(en)として与えたボルドーリモージュカオールベアルンビゴールをブルンヒルドに賠償として委譲すべきという判決を下した。しかしキルペリクは簡単にこれらの都市を手放そうとはせず、ブルンヒルドも姉の殺害を忘れなかった。パリ司教ジェルマンen)が両者を仲裁した。567年から570年の間にブルンヒルドはシギベルトとの間にイングンド、クロドシンド、キルデベルトen)の三子をもうけた。

キルペリクがシギベルトの領地を侵略したことで和平は破られた。シギベルトはキルペリクをトゥルネーで敗った。シギベルトがブルンヒルドと子供たちと共にやって来るとパリの人々はシギベルトを征服者として歓待した。ジェルマンはシギベルトに和平を結び直しキルペリクを寛大に扱うよう説得して欲しいとブルンヒルドに書簡を送った。『ゲルマヌスの生涯』によれば、ブルンヒルドはこれを無視したとされており、事実シギベルトはトゥルネーへ向け出発した。フレデグンドは夫キルペリクに対する脅威に対し暗殺者を2人雇った。彼らはヴィトリで毒を塗った短剣(グレゴリウスによればスクラマサクス)でシギベルトを暗殺した。この時パリにいたブルンヒルドは王子キルデベルトをメッスに逃がしたが、彼女自身は捕えられルーアンに連行され、監禁された[5]

再婚[編集]

キルペリクと最初の妻アウドヴェラen)の息子メロヴィクは父の命令に背いて、母に会いに行くという口実のもとルーアンへ行き、未亡人となったブルンヒルドとの結婚を決めた。こうして彼は王位につく可能性を補強した。彼の義母フレデグンドは自分の息子に王位を継がせると決めており、夫と他の女の間に生まれた男子を排除していた。二人は司教プラエクスタトゥスen)に祝福され結婚したが、ブルンヒルドはメロヴィクの義理の伯母にあたるため、これは教会法に反していたとジェルマンは糾弾している[6]。キルペリクは聖マルタンの教会へ逃げ込んだブルンヒルドとメロヴィクを包囲した。最終的に彼らは和解したが、キルペリクはメロヴィクをソワソンへ連行した。

結婚を無効にするために、キルペリクはメロウィグを剃髪させ聖職に就かせようとル・マンの修道院へ送った。メロウィグはトゥールの聖マルティヌスの聖域へ逃れ(そこはグレゴリウスの教会であり、彼はこの出来事を目の当たりにすることになった[7])、後にシャンパーニュへ逃亡した。578年メロヴィクはついにトゥールへ戻ったが、そこで父キルペリクの罠に落ちた。彼は望みが断たれたと悲観し、従者に自分を殺すように頼み、従者はそれに従った[8]。キルペリクはメロヴィクの従者3人を捕らえ、拷問した上で処刑した[9]

第一摂政期[編集]

ブルンヒルドは息子キルデベルト2世の名の下にアウストラシア摂政となったが貴族たちの猛烈な反対を受け、目的を果たすまで一時的にブルグント王グントラムの宮廷へ隠棲しなければならなかった。アウストラシアを支配すると、彼女は女王として君臨した。西ゴート王国で受けた教育により、彼女は戦士ではなく行政の改革者となった。ブルンヒルドは旧ローマ街道を整備し、多くの教会と修道院と必要な要塞を建てた。また国庫を立て直して王国軍を再編成した。しかしブルンヒルドは王国の権力を押しつけ続けたため、それが緩やかなものであったにも関わらず貴族の反感を買った。自分の立場と王権の威信を強めるために、キルデベルトを相続人のいないグントラムの跡継ぎとするように説得し、グントラムは577年キルデベルトを跡継ぎと定めた[10]。579年には故郷の王国と自国の連合のため、ブルンヒルドはわずか13歳の娘イングンドを西ゴート王国の王子ヘルメネギルドに嫁がせた。しかし、ヘルメネギルドはカトリックに改宗し、続いて起きた西ゴート王国を二分した宗教戦争で妻と共に死んだ。

ブルンヒルドはキルデベルトがメロヴィング時代に成年とされる13歳になる583年までアウストラシアを支配した。

グントラム王との関係[編集]

アウストラシア諸公は彼女が息子である王キルデベルトへ与える影響力に強く反抗した。彼らのうち、ラウシング、ウルシオ、ベルテフリドの3人がキルデベルトを暗殺しようとしたが、計画が露見しラウシングは殺され残りの二人は要塞へと逃れた。グントラムはブルンヒルドとキルデベルトの息子たちを自分の宮廷に避難させるようキルデベルトに懇願し、キルデベルトはこれに応じた。間もなくウルシオとベルテフリドは殺された。587年グントラム、キルデベルト、ブルンヒルドはアンドロ条約en)を結び[11]、キルデベルトがブルグントの継承者であり、グントラムが生きているうちはアウストラシアとブルグンドの同盟関係にあると定めた。

同年西ゴート王国の王レカレド1世はキルデベルトとグントラムの両方に大使を派遣した。前者は使節を受け入れて堅い同盟関係を結んだが、後者は何らかの理由をつけて協定を拒否した。このためブルンヒルドとキルデベルトがスペイン王と王の妹クロドシンドとの結婚について交渉したとき、グントラムに却下され断念させられた。592年グントラムが死去、キルデベルトはブルグントを継承し、すぐにネウストリアの王クロタール2世との戦いに突入した。

第二摂政期[編集]

595年の9月、あるいは10月にキルデベルトが死に、ブルンヒルドはアウストラシアとブルグントを孫のテウデベルト2世(en)とテウデリク2世(en)に統治させようとした。彼女はキルデベルトの死の原因はフレデグンドにあると考えた。フレデグンドも597年にブルンヒルドと真っ向から対立したまま世を去った。

599年、年長の孫テウデベルトはブルンヒルドを宮廷から追放した。彼女はシャンパーニュのラルシ川en)の近くを彷徨っているところを農夫に見つけられ、テウデリクのもとへ連れていかれた。言い伝えによれば農夫はオーセル司教から褒美を与えられた。テウデリクはブルンヒルドを歓迎したが、彼はすぐに祖母の影響を受け、テウデベルトへの復讐へと傾いた。間もなく兄弟は戦争に突入した。

当時ブルンヒルドは50代後半にさしかかり、苦難を耐え抜いた今、彼女自身に終焉をもたらす冷酷さを見せ始めた。ブルンヒルドは最初は愛人としたプロタディウスen)に高い役職を与えるために宮宰ベルトルトen)の殺害を企てた。604年、彼女はテウデリクがベルトルトをセーヌ川沿いの王家のヴィラの視察に派遣するように説得した。クロタールは、おそらくブルンヒルドの命令について通報を受けていたらしいが、皮肉にもフレデグンドの元情人だった自分の宮宰ランドリックen)をベルトルトに会見させた。ベルトルトはわずかな派遣団しか伴っていなかった。彼は自分が引き続いて起こる宮廷内の対立の犠牲者となることに気付き逃亡したが、敵の一団に追跡され取り囲まれて殺害され、プロタディウスが彼の後がまに座った。

ブルンヒルドとプロタディウスはすぐにテウデベルトとの戦争を再開するようにテウデリクを説得した。しかし、宮宰はブルンヒルドのエゴを満足させるために戦うことを望まない部下の兵士によって殺された。プロタディウスの暗殺を命じた首謀者ウンセレン公(en:Uncelen)は間もなくブルンヒルドに逮捕され拷問され処刑されたが、公爵の地位にある者が王妃の復讐の犠牲者となるのはこれが最初ではなかった。

ブルンヒルドの摂政時代には、この後も同様な事が起こった。ビエンヌ大司教enデシデリウスen)は公式に近親相姦と虐待の罪でブルンヒルドを告発した。612年、デシデリウスはブルンヒルドとテウウデリクの前で貞節を要旨とする説教を行い、ついに彼女の怒りを買った。ブルンヒルドは、現在サン=ディディエ=シュル=シャロンヌfr)と呼ばれる村で司教を殺害するために3人の暗殺者を雇った。

同年、テウデリクはトルビアックの戦いでテウデベルトに勝利し彼を捕らえた。王妃[誰?]はテウデベルトが実は庭師の息子であると主張し、テウデリクはテウデベルトの身柄と王の印をブルンヒルドに渡し、ブルンヒルドはテウデベルトを修道院に幽閉した。そしてテウデリクが障害なく二つの王位を継承できるようにするため、おそらくブルンヒルドの命により、テウデベルトは息子メロヴィク共々殺害された。そしてテウデリクは両国の王位についたが間もなく613年の終わりごろアウストラシアの首都メス赤痢にかかり死んだ。

ボッカッチョ王侯の没落en)』「フランスの支配者」より、ブルンヒルドの殺害。

第三摂政期[編集]

テウデリク2世の跡継ぎは庶子のシギベルトen)一人であった。アウストラシアの宮宰ワルナカールen)は、彼がまだ年若く曾祖母の影響を受けるようになることを恐れ、国民会議に連れて行った。そこでシギベルトは貴族たちに王であることを宣言されたが、 ブルンヒルドの影響を排除することはできなかった。こうして長い人生の終わりの時にも(70代であった)彼女はフランクの摂政であり、この時は彼女の曾孫を後見した。

しかしワルナカールとブルグントの宮宰ラド(en)はピピン1世とメス司教アルヌルフen)に同調し、彼女が摂政の座につくことに憤慨した。彼らはブルンヒルドゆえに彼女を仰ぐ若い王を見捨て、ブルンヒルドのかつての敵クロタール2世と手を結び、彼女の摂政政治を守る為に挙兵しないこと、ブルンヒルドの摂政をクロタールにシギベルトを保護し摂政となることを認めると約束した。ブルンヒルドはシギベルトと共にエーヌでクロタール軍と戦った。しかし諸候たちは再びブルンヒルドを裏切った、すなわち貴族(en)のアルテウスとロコ、シグヴァルドらは彼女を見捨て、彼女と王は逃げなければならなくなった。彼らはゲルマン人の一族の助力を得られることを期待し、遠くオルブまで逃げたがクロタールの手先にヌーシャテル湖付近で捕まえられた。若い王と弟コルボは殺された。こうして血で血を洗うアウストラシアとネウストリアの抗争は終わり、クロタールは2つの王国を統一し、フランク王国の領土全域を支配した。

『フレデガーの年代記』(en)によれば、クロタールはブルンヒルドにフランクの王10人の死に対する責任があると非難した。これは通常、シギベルト1世、キルペリク1世、テオデベルト2世、テウデリク2世、シギベルト2世、キルペリクの息子メロヴィク、テウデリクの息子メロヴィク、コルボ、キルデベルト、そしてテウデベルトの息子たちに聖職者の中からデシデリウスを加えたものとされる。 『リベル・イストリアエ・フランコルム』(en)によれば:


フランクとブルグントの軍は一つとなり、皆が共に邪悪なブルンヒルドは死ぬべきだと叫んだ。すると王クロタールは彼女をラクダの上に乗せて軍の中を引き回すように命じた。それから彼女を荒馬の足に結びつけ手足が裂けるようにした。ついに彼女は死んだ。彼女の墓場は炎の中であった。彼女の骨は焼かれた。


ある言い伝えによると、ブルンヒルドはアブヴィルローマ街道、ラ・ショセ・ブリュノーを牝の荒馬に引きずられたといわれている。

家系図[編集]

(フランク王国) (西ゴート王国)
クロタール1世 アタナギルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カリベルト グントラム
 
 
 
 
 
 
 
 
シギベルト1世
 
ブルンヒルド
 
 
 
 
 
 
 
 
ガルスヴィント
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アウドヴェラ
 
キルペリク
 
 
 
 
フレデグンド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3子 メロヴィク
 
 
 
 
イングンド キルデベルト2世 クロドシンド 5子 クロタール2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テウデベルト2世 テウデリク2世 テウディラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シギベルト2世 3子

信仰[編集]

ブルンヒルドはアリウス派キリスト教徒として育ったが、シギベルトと結婚するに先立ちカトリックに改宗した。一般に、彼女は教会を保護し、教皇グレゴリウス1世に大変な敬意をもって遇していた。教皇は彼女に肯定的な書簡を書いており、597年には樹木崇拝en)のような異教の儀式の禁止について彼女に書き送っている。トゥールのグレゴリウスもまたブルンヒルドに支持された聖職者で、587年からこの世を去るまでグレゴリウスはブルンヒルドと彼女の息子にとって信頼できる廷臣だった。ブルンヒルド自身、領内の司教区と修道院に対して個人的に強い関心を持っており、リュクスイユ修道院en)の修道院長聖コルンバヌスen)との争いの原因となった。彼女はコルンバヌスをイタリアへ追放し、彼はボッビオに修道院を設立した。

ブルンヒルドはオータンの聖マルタン修道院に葬られた。そこは602年に彼女が創設したところで、異教徒が崇拝の対象としたブナの木をトゥール司教が切り倒した場所だった。1793年修道院は破壊され、ブルンヒルドの石棺は現在アヴィニョンのラピデール博物館に収蔵されている。

ブルンヒルドは多くの教会と修道院を建てた。ランの聖ヴィンセント修道院は580年に設立された。彼女はまたブルニケルen)に城を建て、アリニー=アン=モルヴァン近郊のローマ街道を修復した。近くにある丘、テロ=ブリュノー(Terreau Bruneau)は彼女由来すると信じられている。 モーヴ=シュル=ロワールfr)はブルンヒルドに名の由来をもつラ・フォーテン=ブリュノー(la Fontaine Bruneau)として知られているが、彼女は熱中症に苦しんだとき、泉の水で熱を冷ましたとされる。

伝説におけるブルンヒルド[編集]

多くの学者はブルンヒルドは『ニーベルンゲンの歌』のブリュンヒルデクリームヒルトの対立する二人の登場人物いずれにもインスピレーションを与えたとしている。クリームヒルトが結婚するジークフリートは、ブルンヒルドの夫シギベルトに多くの点で似通っている。また、ニーベルンゲンの歌の登場人物と出来事は6世紀後半のメロヴィング朝時代のガリアとの間に多くの共通点が見られる。トーマス・ホジキンen)の所見によれば:

いにしえの王たちによって長い間埋められた宝、秘密の洞穴、爬虫類の案内人や守り手、これらの奇妙な伝説により『ニーベルンゲンの歌』を虚構と思わせがちな雰囲気に夢中になってはならないのではないか?もしも良き王グントラムが竜の秘蔵物の幸運な発見者で通ってしまうのなら、彼の兄弟と王妃たち、彼らの戦い、彼らの和解と恐ろしい復讐など、叙事詩の最も悲劇的な主題について議論を提起しなければならないだろう。ヒロインのうちの一人の名はブリュンヒルデで、アウストラシアの王妃と同じ名なのだから。[12]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この名前は様々な形で綴られた。Brunhildaはドイツ語であり、たまたまではあるが英語でも最も一般的である。フランス語ではBrunehaut、スペイン語ではBrungildaもしくはBrunequildaであった。彼女はBrunilda、Brunichildis、Brunechildis、Brunichild、Brunechilde、Brunichilda、Brunhild、 Brunhilde、 Brünnhilde、 Brünhild、Brynhild、 Brynhildrとも綴られた。(Encyclopedia Britannica, 2004)。なお、翻訳にあたっては参考文献のカナ表記に従った。
  2. ^ フランス史1、p.144。
  3. ^ オーギュスタン、 上 p.66-67
  4. ^ Gregory IV.47
  5. ^ オーギュスタン、上 p.123
  6. ^ Gregory V.2
  7. ^ Gregory V.14
  8. ^ Gregory V.18
  9. ^ オーギュスタン、 上p.178-179。
  10. ^ Gregory VI.1
  11. ^ Gregory IX.20
  12. ^ Hodgkin, V, p 202. Retrieved from Northvegr.

参考文献[編集]

  • Joseph Henry Dahmus, Seven Medieval Queens, 1972.
  • オーギュスタン・ティエリ 『メロヴィング王朝史話 上下』小島輝正訳、岩波書店、1992年。
  • トゥールのグレゴリウス『フランク史 一〇巻の歴史』杉本正俊訳、新評論、2007年。
  • 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年。

出典[編集]