フロイラン・ゴンザレス
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| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| F1での経歴 | ||||
| 所属チーム | アチリバルジ・マセラティ , エキュリーロジエ・タルボ , フェラーリ ,マセラティ , ヴァンウォール |
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| 活動時期 | 1950 – 1960 | |||
| 出走回数 | 26 | |||
| 優勝回数 | 2 | |||
| 通算獲得ポイント | 77.64 | |||
| 表彰台(3位以内)回数 | 15 | |||
| ポールポジション | 3 | |||
| ファステストラップ | 6 | |||
| F1デビュー戦 | 1950年モナコGP | |||
| 初勝利 | 1951年イギリスGP | |||
| 最終勝利 | 1954年イギリスGP | |||
| 最終戦 | 1960年アルゼンチンGP | |||
| タイトル | 0 | |||
ホセ・フロイラン・ゴンザレス(Jose Froilan Gonzalez 、1922年10月5日 -)は、アルゼンチンの元F1 ドライバー。1954年ル・マン24時間レース覇者。
目次 |
特色 [編集]
F1においては、草創期における「名脇役」の1人とされ、太った体格と豪快な走りから、「大草原の猛牛」を意味する「パンパス・ブル」(The Pampas Bull )の異名を取った。2008年の時点でF1最多優勝記録を持つフェラーリに、初勝利をもたらしたドライバーでもある。
スポーツカー・レースにも出場している。1954年にはル・マン24時間レースにおいて、モーリス・トランティニアンとのコンビでフェラーリ375を駆り、優勝した。
経歴 [編集]
元々は、アルゼンチン国内でレース活動を行っていた。1950年、開催初年度となるF1世界選手権において、第2戦モナコGP・第6戦フランスGPの2戦に、プライベーター使用のマセラティから参戦。どちらもリタイヤだったが、初参加となったモナコGPでは予選で3位の成績を残している。
1951年開幕戦のスイスGPにおいては、プライベート使用のタルボから参戦。予選13位からリタイヤに終わった。
第1期フェラーリ時代 [編集]
1951年シーズン中盤、ピエロ・タルッフィ負傷に伴い、代役として第4戦フランスGPにフェラーリから出場。このレースで2位に入り、初の表彰台を獲得した。この走りに対し、フェラーリは続く第5戦イギリスGPでもゴンザレスを起用することとなった。
与えられたマシンは前年型だったものの、ゴンザレスは迎えたイギリスGPの予選でPPを獲得。決勝でも、ファン・マヌエル・ファンジオとの争いを制し、 ポールトゥーウィンで初優勝を飾った。この勝利は、フェラーリのF1初優勝としても記録されることとなる。
その後、残る3戦もフェラーリから出走。2勝目はならなかったものの、3レース全てで表彰台に上がり、ランキング3位となった。
マセラティ時代 [編集]
1952年はチームの選択に翻弄され、最終戦イタリアGPのみの出走となった。マセラティから参戦したこのレースでは、予選5位からレース前半をリードし、初となるFLも記録。しかし、ピットインの間にアルベルト・アスカーリに先行され、2位に終わっている。
1953年はマセラティから本格参戦したが、No.1ドライバーであるファンジオの陰に隠れる形となり、第5戦フランスGPでは「燃料を半分だけ積んでハイスピードで飛ばし、フェラーリの撹乱を誘う」という役割も担わされている。出走した5戦中、3位3回・4位1回・FL2回の成績が残っていたが、3戦を残してチームから離脱した。ランキングは6位。
第2期フェラーリ時代 [編集]
1954年は、フェラーリに舞い戻り参戦。復帰初戦となる開幕戦アルゼンチンGPでは、地元で予選2位からFLを記録し、3位表彰台を獲得している。第5戦イギリスGPでは、予選2位から優勝。3年前に初勝利の舞台となったシルバーストン・サーキットにおいて、自身2勝目を挙げた。
しかし第6戦ドイツGPにおいては、予選中に同胞のオノフレ・マリモンが事故死。決勝ではショックから集中力を切らし、 マイク・ホーソーンにマシンを譲りレースを終える一幕もあった[1](結果的には2位)。しかし、続く第7戦スイスGPではPPを獲得(決勝は、ハンス・ヘルマンとのシェアドライブで2位)。この年は、最終的にランキング3位となった。
| 先代: トニー・ロルト ダンカン・ハミルトン |
ル・マン24時間優勝者 1954 with: モーリス・トランティニアン |
次代: マイク・ホーソーン アイバー・ビューブ |
1955年は、地元である開幕戦アルゼンチンGPのみの出走となる。予選で自身3度目のPPを獲得したが、酷暑の中で体力を消耗し交代。最終的には、トランティニアン、ジュゼッペ・ファリーナとの3者でのシェアドライブながら、2位となっている。
1956年以後 [編集]
1956年以降は本格的なF1参戦はなく、地元であるアルゼンチンGPを中心とした、散発的な出走のみに留まることとなる。
1956年は、開幕戦アルゼンチンGPにマセラティ、第6戦イギリスGPにヴァンウォールから出走したが、どちらもリタイヤ。1957年は、フェラーリから開幕戦アルゼンチンGPのみに出走し、5位の成績を残した。
その後、1958年・1959年には1戦も出走しなかったが、1960年は開幕戦のアルゼンチンGPのみフェラーリから参戦。しかし予選11位・決勝10位という成績に終わり、これがF1ラストレースとなった。
引退後 [編集]
引退後は静かな余生を送っているが、一時期病気を患った影響で、体格はスリムに変貌している。
草創期におけるF1ドライバーの多くが鬼籍に入る中、80歳を超えなお健在であり、時折インタビュー等にも登場している。
エピソード [編集]
- 初優勝した1951年イギリスGPでは、リタイヤしていたNo.1ドライバーのアスカーリにマシンを譲るためトップ走行中にピットインした。しかしアスカーリは、ゴンザレスに「今日はお前の日だ。」と語り、そのまま走るよう促し身を引いたという。
脚注 [編集]
- ^ 当時は、チーム内でのマシンの交換が許されており、その場合それぞれに半分のポイントが与えられていた。