フロイラン・ゴンザレス

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フロイラン・ゴンザレス
José Froilán González 1950.jpg
基本情報
フルネーム ホセ・フロイラン・ゴンザレス
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
F1での経歴
所属チーム '50,'51,'52-'53,'56 マセラティ
'51 タルボ・ラーゴ
'51,'54,'55,'58,'60 フェラーリ
'56 ヴァンウォール
活動時期 1950-1960
出走回数 26
優勝回数 2
通算獲得ポイント 77.64
表彰台(3位以内)回数 15
ポールポジション 3
ファステストラップ 6
F1デビュー戦 1950年モナコGP
初勝利 1951年イギリスGP
最終勝利 1954年イギリスGP
最終戦 1960年アルゼンチンGP
タイトル 0
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ホセ・フロイラン・ゴンザレスJose Froilan Gonzalez1922年10月5日 - 2013年6月15日)は、アルゼンチンの元F1 ドライバー。1954年ル・マン24時間レース覇者。

特色[編集]

F1においては、草創期における「名脇役」の1人とされ、太った体格と豪快な走りから、「大草原の猛牛」を意味する「パンパス・ブル」(The Pampas Bull )の異名を取った。2008年の時点でF1最多優勝記録を持つフェラーリに、初勝利をもたらしたドライバーでもある。

スポーツカー・レースにも出場している。1954年にはル・マン24時間レースにおいて、モーリス・トランティニアンとのコンビでフェラーリ375を駆り、優勝した。

経歴[編集]

元々は、アルゼンチン国内でレース活動を行っていた。1950年、開催初年度となるF1世界選手権において、第2戦モナコGP・第6戦フランスGPの2戦に、プライベーター使用のマセラティから参戦。どちらもリタイヤだったが、初参加となったモナコGPでは予選で3位の成績を残している。

1951年開幕戦のスイスGPにおいては、プライベート使用のタルボから参戦。予選13位からリタイヤに終わった。

第1期フェラーリ時代[編集]

1951年シーズン中盤、ピエロ・タルッフィ負傷に伴い、代役として第4戦フランスGPにフェラーリから出場。このレースで2位に入り、初の表彰台を獲得した。この走りに対し、フェラーリは続く第5戦イギリスGPでもゴンザレスを起用することとなった。

与えられたマシンは前年型だったものの、ゴンザレスは迎えたイギリスGPの予選でPPを獲得。決勝でも、ファン・マヌエル・ファンジオとの争いを制し、 ポールトゥーウィンで初優勝を飾った。この勝利は、フェラーリのF1初優勝としても記録されることとなる。

その後、残る3戦もフェラーリから出走。2勝目はならなかったものの、3レース全てで表彰台に上がり、ランキング3位となった。

マセラティ時代[編集]

1952年はチームの選択に翻弄され、最終戦イタリアGPのみの出走となった。マセラティから参戦したこのレースでは、予選5位からレース前半をリードし、初となるFLも記録。しかし、ピットインの間にアルベルト・アスカーリに先行され、2位に終わっている。

1953年はマセラティから本格参戦したが、No.1ドライバーであるファンジオの陰に隠れる形となり、第5戦フランスGPでは「燃料を半分だけ積んでハイスピードで飛ばし、フェラーリの撹乱を誘う」という役割も担わされている。出走した5戦中、3位3回・4位1回・FL2回の成績が残っていたが、3戦を残してチームから離脱した。ランキングは6位。

第2期フェラーリ時代[編集]

1954年は、フェラーリに舞い戻り参戦。復帰初戦となる開幕戦アルゼンチンGPでは、地元で予選2位からFLを記録し、3位表彰台を獲得している。第5戦イギリスGPでは、予選2位から優勝。3年前に初勝利の舞台となったシルバーストン・サーキットにおいて、自身2勝目を挙げた。

しかし第6戦ドイツGPにおいては、予選中に同胞のオノフレ・マリモンが事故死。決勝ではショックから集中力を切らし、 マイク・ホーソーンにマシンを譲りレースを終える一幕もあった[1](結果的には2位)。しかし、続く第7戦スイスGPではPPを獲得(決勝は、ハンス・ヘルマンとのシェアドライブで2位)。この年は、最終的にランキング3位となった。

1955年は、地元である開幕戦アルゼンチンGPのみの出走となる。予選で自身3度目のPPを獲得したが、酷暑の中で体力を消耗し交代。最終的には、トランティニアン、ジュゼッペ・ファリーナとの3者でのシェアドライブながら、2位となっている。

1956年以後[編集]

1956年以降は本格的なF1参戦はなく、地元であるアルゼンチンGPを中心とした、散発的な出走のみに留まることとなる。

1956年は、開幕戦アルゼンチンGPにマセラティ、第6戦イギリスGPにヴァンウォールから出走したが、どちらもリタイヤ。1957年は、フェラーリから開幕戦アルゼンチンGPのみに出走し、5位の成績を残した。

その後、1958年1959年には1戦も出走しなかったが、1960年は開幕戦のアルゼンチンGPのみフェラーリから参戦。しかし予選11位・決勝10位という成績に終わり、これがF1ラストレースとなった。

引退後[編集]

フェラーリ・500F2を駆るゴンザレス。
(※:写真は2000年に開催されたコイズ・インターナショル・ヒストリック・フェスティバル)

引退後は静かな余生を送っているが、一時期病気を患った影響で、体格はスリムに変貌している。

草創期におけるF1ドライバーの多くが鬼籍に入る中、80歳を超えなお健在であったが2013年6月15日永眠。90歳没[2]

エピソード[編集]

  • 初優勝した1951年イギリスGPでは、リタイヤしていたNo.1ドライバーのアスカーリにマシンを譲るためトップ走行中にピットインした。しかしアスカーリは、ゴンザレスに「今日はお前の日だ。」と語り、そのまま走るよう促し身を引いたという。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 WDC ポイント
1950年 マセラティアキッレ・バルツィ 4CLT/48 GBR MON
Ret
500 SUI BEL FRA
Ret
ITA NC
(56位)
0
1951年 タルボ・ラーゴ/フロイラン・ゴンザレス T26C-GS SUI
Ret
500 3位 24 (27)
マセラティエンリコ・プラーテ 4CLT/48 BEL
DNA
フェラーリ 375 FRA
2*
GBR
1
GER
3
ITA
2
ESP
2
1952年 マセラティ A6GCM SUI 500 BEL FRA GBR GER NED ITA
2**
9位 6 12
1953年 ARG
3
500 NED
3*
BEL
Ret
FRA
3
GBR
4**
GER SUI ITA 6位 13 12
(14 12)
1954年 フェラーリ 625 ARG
3
500 BEL
4*
GBR
1
GER
2*
SUI
2
ITA
3*
ESP 2位 25 17
(26 914)
553 FRA
Ret
1955年 625 ARG
2*
MON 500 BEL NED GBR ITA 17位 2
1956年 マセラティ 250F ARG
Ret
MON 500 BEL FRA NC
(55位)
0
ヴァンダーヴェル VW 2 GBR
Ret
GER ITA
1958年 フェラーリ D50 ARG
5*
MON 500 FRA GBR GER PES ITA 21位 1
1960年 246 ARG
10
MON 500 NED BEL FRA GBR POR ITA USA NC
(45位)
0
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)
  • * 印は同じ車両を使用したドライバーに順位とポイントが配分された。
  • ** 印は同タイムでファステストラップを出した選手がいたため、1ポイントを半分ずつ分け合った。

脚注[編集]

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  1. ^ 当時は、チーム内でのマシンの交換が許されており、その場合それぞれに半分のポイントが与えられていた。
  2. ^ “ホセ・フロイラン・ゴンザレスが逝去”. ESPN F1. (2013年6月16日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/111389.html 2013年6月16日閲覧。 

関連項目[編集]

先代:
トニー・ロルト
ダンカン・ハミルトン
ル・マン24時間優勝者
1954 with:
モーリス・トランティニアン
次代:
マイク・ホーソーン
アイバー・ビューブ