フレッド・ローツ

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フレッド・ローツ Portal:陸上競技
選手情報
フルネーム フレデリック・ローツ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
種目 男子マラソン
所属 Mohawk Athletic Club
生年月日 1880年6月??
没年月日 1914年2月4日
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークブロンクス
身長 172cm
体重 69kg
自己ベスト 2:38:25(1905年)
このテンプレートの解説

フレデリック・ローツFrederick "Fred" Lorz1880年6月 - 1914年2月4日)は、第3回夏季オリンピックセントルイス大会陸上競技アメリカ合衆国代表選手だった人物である。

目次

キセル事件 [編集]

ニューヨーク出身のローツは、日中は煉瓦職人として働き、夜間にマラソンのトレーニングを積んでいた[1]1904年ボストンマラソンで5位に入賞し、セントルイスオリンピックへの参加資格を得た。

マラソン競技の当日は、気温32度の暑さで最終的に出場選手32名のうち完走したのは半数以下の14名という過酷なものになった[2][3]。ローツは先陣を切ってフランシス・フィールド競技場を飛び出していったが、9マイル[4] 地点で脱水症状と脚の痙攣を起こして倒れこんでしまった。そこへ自動車に乗った男が通りかかり、乗せて会場まで運んでもらった。しかしゴールの8キロ前で自動車がエンストし、そこから走って行くことになった。

フランシス・フィールド競技場に最初に戻ってきたローツはAAU会長のジェームズ・サリヴァンやメダルのプレゼンターを務めていたルーズベルト大統領令嬢アリス(en:Alice Roosevelt Longworth)などから祝福されたが、自動車に乗せた男が告発し、金メダルを剥奪され、マラソン界から永久追放されてしまった。そのため、このときローツから約1時間遅れで2番目にゴールしたトーマス・ヒックスが1位となった。

この事件を受けてAAUはローツの競技会への出場を禁止したが、後に彼の謝罪を受け入れ、処分を撤回した。その後、ローツは1905年のボストンマラソンで優勝している[5]。ローツは翌年以降もボストンマラソンに参加し続け、最後の参加となった1908年には7位に入っている。

彼は肺炎を起こして死去した。

脚注 [編集]

  1. ^ A New Marathon Champion: Frederick Lorz of the Mohawk Athletic Club of New York Captured the Great Run in an Exciting Contest Boston Evening Transcript (Boston): p. 4. April 20, 1905 2011年4月24日閲覧。(英語)
  2. ^ Athletics at the 1904 St. Louis Summer Games:Men's Marathon 2011年4月24日閲覧。(英語)
  3. ^ セントルイスオリンピックでのマラソン競技の距離は、ちょうど40キロメートルだった。このマラソンでの記録については、上位3名と失格したローツの合計4人分のみが判明している。
  4. ^ 14.484096㎞。
  5. ^ Boston Athletic Association 2010年2月26日閲覧。(英語)

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]