フリーデリケ・フォン・ハノーファー (1848-1926)
フリーデリケ・フォン・ハノーファー・ウント・クンバーラント(Friederike von Hannover und Cumberland, 1848年1月9日 - 1926年10月16日)は、ハノーファー王国の王族。全名はフリーデリケ・ゾフィー・マリー・ヘンリエッテ・アメーリエ・テレーゼ(Friederike Sophie Marie Henriette Amelie Therese)。ハノーファー王女およびカンバーランド公女、グレートブリテンおよびアイルランド王女。ハノーファー王ゲオルク5世の長女。
1848年1月9日、ハノーファー王ゲオルク5世(当時太子)とその妃であったザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの公女マリーの間に第二子としてハノーファーで生まれた。
1866年1月には、フリーデリケとプロイセン王子アルブレヒトの結婚の交渉がプロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの意向を受けたアドルフ・ルートヴィヒ・フォン・プラテン=ハラームントによって開始された。しかしこれはプロイセン王国とハノーファーの間の緊張が高まったため破談となった。その後同年に勃発した普墺戦争においてハノーファーはオーストリア帝国側に付いて敗れ、ハノーファーはプロイセンに併合された。フリーデリケを含むゲオルク5世一家はオーストリアへ亡命し、オーバーエスターライヒ州グムンデンのクンバーラント城(Schloss Cumberland、ゲオルク5世が帯びていたグレートブリテン貴族の爵位カンバーランド公に由来する)に住んだ。
イギリスのオールバニ公レオポルド(又従弟にあたる)や、オランダのオラニエ公アレクサンダーらに求婚されたがフリーデリケは断り、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の官僚の子で、ゲオルク5世の侍従であったアルフォンス・フォン・パーヴェル=ラッミンゲン(1843年 - 1932年)と恋愛結婚した。結婚後二人はハンプトン・コート宮殿に一室を与えられた。またウィンザー城やオズボーン・ハウスへしばしば招かれた。
フリーデリケは多くの慈善活動のパトロンとなった。1881年8月には出産後に病院から追い出された貧しい産褥婦のための施設「Convalescent Home」を設立した。また父ゲオルク5世が盲人であったこともあり、アッパー・ノーウッドのRoyal Normal College and Academy of Music for the Blindに寄付を行なった。他に彼女がパトロンとなったものにはTraining College for Teachers of the Deaf、Strolling Players' Amateur Orchestral Society、Hampton Court and Dittons Regatta、Home for Foreign Governesses、Mission to the French in London、Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animalsがある。
フリーデリケとアルフォンスは1898年にハンプトン・コート宮殿から退去し、以前から休暇で訪れていたフランスのビアリッツでイングランドよりも多くの時間を過ごすようになった。
1926年10月16日にフリーデリケはビアリッツで死去し、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂にある王族納骨堂に葬られた。
子女[編集]
アルフォンス・フォン・パーヴェル=ラッミンゲン男爵との結婚式は1880年4月24日に行われた。なお先立って同年3月19日にアルフォンスはイギリスに帰化している。二人の間には以下の一女が生まれた。
- Victoria Georgina Beatrice Maud Anne (1881年 – 1881年)