フリュネ
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フリュネ(プリュネ)(ギリシャ語:Φρύνη, 英語:Phryne)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの有名な高級娼婦(Hetaera, Courtesan)。客にいくら請求するかは、相手をどう思ったかによって、自分で自由に決めていた。顧客の言い分では、フリュネは最初 いつもの 額を持ちかけて、もし相手がそれに応じたら、値段を釣り上げていたらしい。
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[編集] 美貌と富
フリュネの本名はネサレテ(ギリシャ語:Μνησαρετή, 英語:Mnesarete, 賛美された美徳という意味)と言った。しかし顔が黄色かったため、娼婦仲間からフリュネ(ヒキガエルの意味)という仇名をつけられた。生まれはボイオーティアのテスピアイだが、アテナイに住んでいたらしい。フリュネはその類いまれな美しさによって巨額の富を得た。どのくらい金持ちだったかというと、紀元前336年にアレクサンドロス3世 (アレキサンダー大王)によって破壊されたテーバイの城壁の再建をフリュネが買って出たほどである。ただし、「 アレクサンドロスにより破壊され、娼婦フリュネにより修復される 」という言葉を壁に刻むのが条件だったので、テーバイ側はその申し出を断った。
[編集] 名声
フリュネの美貌は有名だった。ポセイドーンとエレウシスの祭が開かれた時、フリュネは着ていた服を脱ぎ、髪をおろし、素っ裸で海に入っていった。衆人環視の中だった。その中に画家のアペレスがいたという説がある。アペレスの有名な絵『海から上がるヴィーナス(アプロディーテー)』のモデルはフリュネだというのである。ちなみに、このアペレスの絵は、この題材[1]の典型となった(普通アプロディーテーは立像だが、アペレスのアプロディーテーは座っている)。
ずっと後の時代だが、ジャン=レオン・ジェロームの『Phryné devant l'Areopage(アレオパゴス会議でのフリュネ)』(1861年)も、フリュネの美貌にインスパイアされたものである。
彫刻では、プラクシテレスの『クニドスのアプロディーテー』もモデルがフリュネだと(何人かによって)言われている。
文学では、シャルル・ボードレールの詩『レスボス』と『美の女神』、ライナー・マリア・リルケの詩『フラミンゴ』が、フリュネの美と名声に霊感を受けて書かれた。
[編集] 裁判
エレウシスの秘儀を冒涜した罪でフリュネは訴えられた。フリュネを弁護したのは、フリュネの愛人の1人、雄弁家のヒュペレイデス(Hypereides)だった。しかし形勢は不利で、ヒュペレイデスはいきなりフリュネのローブを引き裂いて、その乳房を露わにした。それでフリュネは無罪となった。一説には、フリュネが自ら着ているものを脱いだとも言われている。裁判官の心変わりは、単純に彼女の美しいヌードに圧倒されたからではなく、その時代、肉体の美は神性の一面・神聖なしるしと見なされたからだった。
プラクシテレスの作ったフリュネの彫像は、テスピアエ神殿の、やはりプラクシテレス作のアプロディーテー像のそばに置かれた。
ある時、リディア王がフリュネを求めたが、フリュネは法外な金額を要求した。むかつく奴と思ったからである。しかし王はその金額を呑み、フリュネは王の希望に応えた。その後、王はその代金の埋め合わせのため、国民に税を課した[要出典](という説がある)。
反対に、哲学者のディオゲネスには無料で身を与えた。ディオゲネスの精神を立派だと思ったからである。ディオゲネス・ラエルティオスは、フリュネが哲学者クセノクラテスの美徳を確認しようとして失敗したと言っている[2]。
ギリシアの詩人・著作家のディミトリス・バロス(Dimitris Varos)は、『フリュネ』という本を書いた。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- アテナイオス, 食卓の賢人たち pp. 558, 567, 583, 585, 590, 591; [2]
- クラウディウス・アエリアヌス(Claudius Aelianus)Varia Historia (Ποικιλη Ιστορια) ix. 32;
- 大プリニウス『博物誌』xxxiv. 71.
[編集] 外部リンク
この記述には、パブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。

