フリオ・セサル・ファルシオーニ

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フリオ・セサル・ファルシオーニ Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Julio César Falcioni
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1956年7月20日(58歳)
出身地 ブエノスアイレス
身長 183cm
選手情報
ポジション GK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1976-1980
1981-1989
1990
1991
1991
アルゼンチンの旗 V・サルスフィエルド
コロンビアの旗 アメリカ・デ・カリ
アルゼンチンの旗 ヒムナシア・ラ・プラタ
コロンビアの旗 オンセ・カルダス
アルゼンチンの旗 V・サルスフィエルド
229 (0)
376 (5)
19 (0)
? (?)
20 (0)
代表歴
1989 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 3 (0)
監督歴
1997-2000
2002-2003
2003-2005
2005-2006
2006-2007
2007
2009-2010
2011-
アルゼンチンの旗 V・サルスフィエルド
アルゼンチンの旗 オリンポ
アルゼンチンの旗 CAバンフィエルド
アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ
アルゼンチンの旗 コロン
アルゼンチンの旗 ヒムナシア・ラ・プラタ
アルゼンチンの旗 CAバンフィエルド
アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フリオ・セサル・ファルシオーニJulio César Falcioni, 1956年7月20日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現在はボカ・ジュニアーズの監督を務める。

経歴[編集]

選手[編集]

1976年、プリメーラ・ディビシオン(1部)のCAベレス・サルスフィエルドからデビューした。1980年、前年にコロンビア・プロサッカーリーグ初優勝を飾ったアメリカ・デ・カリに移籍し、1982年から1986年までリーグ戦5連覇を果たした。1985年から1987年にかけて、3年連続でコパ・リベルタドーレスの決勝に進出したが、いずれも準優勝に終わった。また、1983年と1988年にはベスト4となっている。1990年にはアルゼンチンに戻り、ヒムナシア・ラ・プラタと契約した。コロンビアのオンセ・カルダス、古巣CAベレス・サルスフィエルドに短期間在籍した後に現役引退した。

1989年にはアルゼンチン代表として3試合に出場しており[1]コパ・アメリカ1989にも出場した。

指導者[編集]

1997年、下部リーグに属していた古巣CAベレス・サルスフィエルドで指導者としてのキャリアを開始した。同年にはレコパ・スダメリカーナ、翌年にはクラウスーラ1998で優勝し、2000年までベレスの監督を務めた。その後はオリンポ・デ・バイア・ブランカCAバンフィエルドインデペンディエンテCAコロンヒムナシア・ラ・プラタで指揮を執り、2009年には選手時代の古巣CAバンフィエルド監督に就任した。同年末にはアペルトゥーラ2009を制し、クラブ史上初のリーグ優勝を果たした。

ボカ・ジュニアーズ[編集]

2010年12月22日、CAバンフィエルドを離れてボカ・ジュニアーズの監督に就任した[2]。プレシーズンのトーナメント大会では攻撃的な采配を見せて期待されたが、クラウスーラ2011開幕戦ではホームで大敗し、9節までに5敗を喫した[3]。また、3節のCAオール・ボーイズ戦では、いかなる負傷もしていないにもかかわらず[4]、スター選手のフアン・ロマン・リケルメをチームから外したことで論争を呼び起こした[5]。仲の悪いマルティン・パレルモとリケルメを同等に扱う威厳を見せ、一部のメディアやサポーターから強い批判を受けたが、クラブ首脳陣はファルシオーニを支えた[6]。4-4-2を基盤に様々な選手を試したが、最終的には連携を高めることに成功し、10試合無敗でクラウスーラ2011を終えた[7]。クラウスーラ2011をもってパレルモが現役引退すると、アペルトゥーラ2011ではリケルメをキャプテンに任命した[3]。彼をトップ下に配した4-3-1-2フォーメーションをベースとすると、17節までの失点を4に抑え、2試合を残してアペルトゥーラ2008以来の優勝を決めた。

2012年のコパ・リベルタドーレスではフルミネンセFCに次ぐグループ2位で決勝トーナメントに進出し、決勝トーナメント1回戦ではウニオン・エスパニョーラ(チリ)を破り、準々決勝では再び顔を合わせたフルミネンセとの対戦を制して準決勝に進出。準決勝では前年のコパ・スダメリカーナ覇者であるウニベルシダ・デ・チレ(チリ)に勝利し、指導者としては初めて決勝に進出した。決勝ではコリンチャンスFCに2試合合計1-3で敗れて準優勝に終わり、ファルシオーニは選手時代の3度と合わせて同大会で4度目の決勝敗退となった[8]。クラウスーラ2012ではアルセナルFCCAティグレらと優勝争いを繰り広げたが、シーズン終盤戦にはコパ・リベルタドーレスを優先してサブメンバーで臨んだ試合もあり[9]、最終的に4位に終わった。

タイトル[編集]

選手[編集]

  • アメリカ・デ・カリ
プリメーラA 優勝 : 1982, 1983, 1984, 1985, 1986
コパ・リベルタドーレス 準優勝 : 1985, 1986, 1987

指導者[編集]

  • CAベレス・サルスフィエルド
レコパ・スダメリカーナ 優勝 : 1997
プリメーラ・ディビシオン 優勝 : クラウスーラ1998
  • CAバンフィエルド
プリメーラ・ディビシオン 優勝 : アペルトゥーラ2009
  • ボカ・ジュニアーズ
プリメーラ・ディビシオン 優勝 : アペルトゥーラ2011
コパ・リベルタドーレス 準優勝 : 2012

脚注[編集]

  1. ^ Argentina international footballers RSSSF
  2. ^ Scandolo, Ramiro. “Se hace la luz”. Diario Olé. 2010年12月23日閲覧。
  3. ^ a b 「3年ぶりの頂点が見えた! ボカを甦らせたファルシオーニ」footballista、ソルメディア、2011年10月5日、41頁
  4. ^ Beware the Ides of March...ESPN Soccernet、2011年3月1日
  5. ^ Fecha 3 Clausura 2011 South American Futbol.blogspot.com
  6. ^ 「即『結果』を求める国民性 時間をもらえない監督たち」footballista、ソルメディア、2011年11月9日、41頁
  7. ^ 「無敗で独走! ボカ3年ぶり頂点に」footballista、ソルメディア、2011年12月21日、25頁
  8. ^ 「102年目の悲願、コリンチャンスついに南米の頂点へ」footballista、ソルメディア、2012年7月18日・25日合併号、42頁
  9. ^ 「アルセナル初戴冠 本命ボカ、伏兵ティグレを猛チャージで退ける」footballista、ソルメディア、2012年7月18日・25日合併号、43頁

外部リンク[編集]