フランソワ1世 (フランス王)

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フランソワ1世

フランソワ1世François Ier de France1494年9月12日 - 1547年3月31日、在位:1515年 - 1547年)は、ヴァロア朝第9代フランス王。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイアフィリッポ2世の娘ルイーズとの間に生まれた。フランス最初のルネサンス君主と評される。アンリ4世と並び、最もフランス人に愛されている王である。

目次

[編集] 生涯

ルイ12世に世嗣がいなかったため、大甥に当たるフランソワが後継者とされた。王太子時代にルイ12世と王妃アンヌとの間に生まれた又従妹のクロードと結婚してブルターニュ公となり、1532年ブルターニュ公国をフランスに併合した。この後、フランス王太子(ドーファン)は代々ブルターニュ公を名乗ることになる。

人文主義者(ユマニスト)の教育を受け、即位後はレオナルド・ダ・ヴィンチロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てた。1530年には、のちにコレージュ・ド・フランスとなるコレージュ・ド・ロワイヤル(Collège de Royale)を設立し、ヘブライ語、古代ギリシア語数学の研究を促進させた。

2代前のフランス王シャルル8世(在位:1483年 - 1498年)が始めたイタリア戦争を継続し、1515年ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放した。スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年 - 1519年)は、翌年フランスへ移り、ルネサンス文化を伝えることになった。

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去すると、フランソワも後継者候補になるが、スペイン王カルロス1世(マクシミリアン1世の孫)が皇帝選挙に勝利し、カール5世として即位する。フランスはハプスブルク家によってドイツ・スペインと周囲を囲まれてしまう。1521年から1544年にかけては、イタリアを巡ってカール5世と争い、1525年のパヴィアの戦いでは前線で指揮を取るが、捕虜となってしまう。スペインで幽閉されていた間の1526年にカール5世とマドリード条約を結ぶが、解放されるや条約は無効と宣言し、教皇クレメンス7世もこれを支持した。

カール5世に対抗するため、コニャック同盟で教皇らと結び、ドイツのプロテスタント諸侯(ルター派)を支援したり、異教徒であるオスマン帝国スレイマン1世(在位:1520年 - 1566年)と秘かに結びつき、第一次ウィーン包囲をけしかけたりもしている。フランソワ自身はカトリックであり、檄文事件をきっかけに国内のプロテスタントを弾圧している。

カール5世とはその後、再び和平を結び、1530年にカール5世の姉でポルトガルマヌエル1世の未亡人であったレオノール(エレオノール)と2度目の結婚をしている。

フランソワ1世はまた、ジャック・カルティエカナダ植民に送り出し、フランス領カナダ(ケベック州)の基礎を築いている。

[編集] 文芸作品に登場するフランソワ1世

19世紀フランスを代表する作家の1人ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』(Le Roi s'amuse)を発表した。この作品はフランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたために、王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品。1832年11月22日にフランセ座で初演されたが、特権階級の腐敗ぶりとそれへの批判と言う当時としては極めて過激な内容であったため、早くも翌日には上演禁止となり、以後1882年まで上演される事は無かった。後にこの作品はジュゼッペ・ヴェルディによってオペラ化され、1851年に『リゴレット』として初演された。

[編集] 子女

最初の王妃クロードとの間に3男4女をもうけた。

2番目の王妃エレオノールとの間の子はいない。

[編集] 関連項目

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