フランソワ・ブッフィエ

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フランソワ・ブッフィエ 函館にて。

フランソワ・ブッフィエFrançois Bouffier 1844年-1881年)は19世紀のフランス軍第8歩兵大隊の歩兵。

略歴[編集]

慶応3年(1867年)、彼はジュール・ブリュネに同伴し、軍事顧問団として日本にやって来た。軍事顧問団は幕府伝習隊を調練した。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、軍事顧問団の隊長シャノワーヌは勅命によって日本から立ち去った。しかし、ブッフィエはフランス軍の職を辞し、幕府側で戦い続けることを選んだ。彼は箱館戦争に参戦し、「蝦夷共和国」軍の四列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)のうちの一隊の隊長を務めた。

明治2年4月9日(1868年5月20日)、新政府軍は北海道に上陸、5月11日(6月20日)五稜郭に立て籠もる箱館政権軍に対し、明治新政府軍の総攻撃が開始され、五稜郭は陥落、5月18日(6月27日)総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降した。フランス人らは、榎本の勧めに従い、総攻撃前の5月1日(6月10日)に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。

その後、ブッフィエは、共に函館で戦ったアルテュール・フォルタンジャン・マルランと共に、明治3年(1869年)、当時大阪にあった兵部省に雇われた。さらにその後、東京に移った兵学寮に雇われた。ブッフィエは日本女性と結婚し、2人の息子をもうけた。ブッフィエは1881年に死亡、横浜外国人墓地に埋葬された。また、彼の2人の息子も同所に埋葬されている。

なお、息子のオーギュスト・ルイ・ブッフィエはフランスには一度も行ったことが無かったが、フランス国籍であったため、第一次世界大戦が始まるとフランス軍に召集され、ヨーロッパへ出征している。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 鈴木明著、「追跡―一枚の幕末写真」、集英社(1984年)、ISBN: 978-4087724929