フランソワ・クロード・ド・ブイエ

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ブイエ侯爵の肖像画

フランソワ・クロード・アムル・デュ・シャリオール, ブイエ侯爵[1]: François Claude Amour du Chariol, marquis de Bouillé, 1739年11月19日-1800年11月14日)は、フランス革命期の王党派の将軍である。ナンシー事件で反乱鎮圧に功績があり、ヴァレンヌ事件では実行者の一人で、事件後に亡命したが、バルナーヴによって国王誘拐説の首謀者とされて罪を被ったために、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』では反革命分子の代表として名指しされた歌詞が現在に残る。名門貴族の出身で、ラファイエットとはいとこの関係[2]にある。

人物[編集]

フランス革命以前[編集]

ブイエは七年戦争に従軍した後、アメリカ独立戦争では、カリブ海の「聖ユスティアヌス攻防戦」の期間、アンティルの知事として対英国作戦の指揮を取った。フランス帰国後はアルザスフランシュ・コンテの三司教区の知事になった。これら国境地帯の行政権を委ねられたことが、ヴァレンヌ事件に関与するきっかけになる。

フランス革命[編集]

ブイエは1789年フランス革命には敵対的だった。彼はメス市と継続的に戦い、メスとナンシーの軍事的反乱を鎮圧した。 1790年に彼はムーズ県ザール県とモゼル県にまたがる管区軍司令官となった。

王党派と見込まれて国王パリ脱出計画に勧誘されると、彼はルイ16世に対して、王の家族は他国に反革命を訴えることが可能な場所で彼の管区内にある国境の町のモンメディに避難するべきと提案した。しかしこの計画は1791年7月21日のヴァレンヌ事件によって失敗し、ブイエは亡命した。事件後、実際の首謀者である国王と王妃マリー・アントワネットら王族の責任を回避するために、バルナーヴらフイヤン派は国王誘拐説をでっち上げ、その首謀者としてブイエを示唆した。彼は国王のために働いただけであったが、すでに国外にいたので反論できなかった。結果として、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の歌詞の5番において言及され、

Français, en guerriers magnanimes,
Portez ou retenez vos coups!
Épargnez ces tristes victimes,
À regret s'armant contre nous.
À regret s'armant contre nous.,
Mais ces despotes sanguinaires,
Mais ces complices de Bouillé,
Tous ces tigres qui, sans pitié,
Déchirent le sein de leur mère!

フランス人よ、寛容な戦士として
認容と攻撃を慎むことも考えよ!
あの痛ましき犠牲者と
我らに武器を向けた事を後悔した犠牲者たちを許すのだ!
我らに武器を向けた事を後悔した犠牲者たちを許すのだ!
ただしあの血に飢えた暴君と
ブイエ将軍の共謀者らは別である!
あの無慈悲で残虐な虎どもは
自分の母胎を引き裂くのである!

と名指しで非難される悪名だけが残った。

亡命と晩年[編集]

亡命したブイエはロシア帝国に滞在した。1791年9月6日に神聖ローマ皇帝レオポルト2世ボヘミア王としての戴冠式のために、彼はプラハハプスブルク家の宮廷に赴いた。1797年に彼は回顧録を出版し大変な成功を収めたのち、1800年ロンドンで死去した。息子のルイ・ド・ブイエはフランス帝国で将軍となった。

ドイツの文学者ハインリヒ・フォン・クライストは著書「Fantasien auf einer Reise nach Prag」のなかでブイエの人となりを書き残している。クライストは、1791年の9月2日にプラハのエステート劇場でモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』の上演を親子で鑑賞していたブイエの様子を見て、亡命後したこととフランスでの中傷の動きに対して、煩悶と自責の念とで苦しむ傷ついた人物と描写している。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 「ブイエ」は爵位名で、「シャリオール」が姓の部分、「フランソワ・クロード・アムル」が名前の部分になる。認知度が高いためブイエを姓と同じように使うのも一般的。記事名はフランス語版やイタリア語版に準じフランソワ・クロード・ド・ブイエとした
  2. ^ ラファイエットの伯母(父の姉)がブイエの父方の祖母にあたる

関連項目[編集]