フランス語版ウィキペディア

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フランス語版ウィキペディア
Wikipédia francophone
フランス語版ウィキペディアのロゴ
URL
http://fr.wikipedia.org/wiki/
使用ウィキ Mediawiki
分野 限定なし
言語 フランス語
項目数 1,452,018
ライセンス GFDL / CC-BY-SA 3.0 Unported
利用料 無料
設立日 2001年8月
管理人 187名(2012年10月1日)
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フランス語版ウィキペディア (Wikipédia francophone) は、フランス語により記事が執筆されるウィキペディアである。2001年8月に開始し、2012年10月現在の記事数は約130万件。英語版ドイツ語版に次いで、3番目に記事数の多いウィキペディアである。2012年10月現在、管理者数は187人。

フランス語版ウィキペディアには、フランスの市町村(コミューン)の記事が多く存在する。コミューンの記事はDasBotというボットによって作成され、フランスのすべてのコミューンが網羅される途上にある。さらには通常複数のコミューンを含む行政区画である小郡(カントン)に関する記事も作成されている。

歴史[編集]

2001年
  • 3月23日: フランス語版ウィキペディアが正式に立ち上げられる。
  • 5月19日: 最初のデータが記録される:[1]
  • 6月6日: 最初のメインページが作成される:[2]。当時の参加者はValéry BeaudBuzzであった。
2002年
  • 6月: 新たなロゴがRinaldumの独断によって作成される(他の言語版のウィキペディアとは全く異なる、緑色のロゴであった)。しかしながら他のウィキペディアンの合意を得ていなかったためにRinaldumは強い批判を浴び、ロゴは差し戻された(このロゴは保存されている)。
  • 8月: Mulotとの紛争の後、AnthereAoinekoShaihuludの3名が、最初の管理者として任命される。また最初のIPブロックが実行される。
  • 10月31日: フェイズ3に移行する。
  • 12月: 活動が急激に活発化する。ボットによる連続的破壊行為が確認され、修正が行われた。その後、この種の破壊行為に対処するため、記事の差し戻しを瞬時に行えるようソフトウェアを変更した(この権限は管理者のみが行使できる)。
2003年
  • 1月: サーバーのダウンが頻発し、活動が急激に減少する。
  • 2月6日: メインページに色が付けられる(着色前着色後)。このデザインはAoinekoによって作られ、ポーランド語版英語版など、他の言語版に輸出された。
  • 2月7日: 記事数が5000本に到達する。
  • 2月19日: 記事数が6000本に到達する。
  • 3月7日: 記事数が7000本に到達する。7000本目の記事は1045であった。
  • 3月27日: 記事数が8000本に到達する。
  • 4月13日: 記事数が9051本に到達する。これによりポーランド語版の記事数を上回り、英語版、ドイツ語版に次ぐ、3番目に記事数の多いウィキペディアとなった。
  • 5月15日: 記事数が1万本に到達する。
  • 5月18日: メインページに実装されていた閲覧回数カウンタが10万回に到達する。
  • 7月: ページ数が2万ページに到達する。このときの記事数は1万2800本であった。
  • 7月中旬: ページ数の集計方法が変更される。少なくともコンマを1つ含むページを集計する方法から、少なくともリンクを1つ含むページを集計する方法に変更された。これにより記事数は1万3058本から1万3789本へと増加した。
  • 8月5日: 記事数が1万5000本に到達する。ソフトウェアがフェイズ3に移行してからの編集回数が2万回を超える。
  • 8月20日: パフォーマンスを高めるため、いくつかの機能が禁止される。
  • 9月4日: 記事数が1万6000本に到達する。
  • 10月: 新しいロゴに変更される。
  • 11月3日 - 11月11日: 悪質な破壊行為の繰り返しにより、Papotagesに対して最初の永久ブロックが行われる。
  • 11月17日: 記事Lorraineが最初の今週の記事に選考される。この記事に対しては38人の利用者が編集を行った。
  • 11月22日: 記事数が2万本に到達する。
2004年
  • 1月26日: 記事数が2万5000本に到達する。
  • 3月14日: 記事数が3万本に到達する。
  • 3月下旬: ウィキペディアがUTF-8に移行する。
  • 5月1日: 記事数が3万5000本に到達する。
  • 6月16日: 記事数が4万本に到達する。
  • 7月23日: 記事数が4万5000本に到達する。
  • 8月26日: 記事数が5万本に到達する。5万本目の記事はnèfleであった。
  • 11月2日23時33分: 記事数が6万本に到達する。6万本目の記事はlord Yarboroughであった。
  • 12月22日: 記事数が7万本に到達する。7万本目の記事はBoréeであった。
2005年
  • 2月6日: 記事数が8万本に到達する。
  • 3月14日: 記事数が9万本に到達する。
  • 4月21日: 記事数が10万本に到達する。10万本目の記事はPierre Séguierであった。
  • 8月18日: 記事数が15万本に到達する。
  • 12月4日: 記事数が20万本に到達する。20万本目の記事はGeorge Henry Corlissであった。
2006年
  • 3月4日: 記事数が25万本に到達する。25万本目の記事はJohn Anglinであった。
  • 6月4日: 記事数が30万本に到達する。30万本目の記事はGouvernement fédéral (Allemagne)であった。
  • 8月26日: 記事数が35万本に到達する。35万本目の記事はUS Juve Stabiaであった。
  • 11月 記事数が40万本に到達する。
2007年
  • 5月 記事数が50万本に到達する。
  • 6月 記事数が60万本に到達する。
2008年
  • 7月 記事数が70万本に到達する。
2009年
  • 4月 記事数が80万本に到達する。
  • 12月 記事数が90万本に到達する。
2010年
  • 8月 記事数が100万本に到達する。
  • 12月 記事数が110万本に到達する。
2011年
  • 8月 記事数が120万本に到達する。
2012年
  • 4月 記事数が130万本に到達する。

外部リンク[編集]