フェヴァーシャムのアーデン

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フェヴァーシャムのアーデン』(Arden of Faversham、オリジナルの綴りはArden of Feversham)は、エリザベス朝時代の戯曲書籍出版業組合記録に登録されたのは1592年4月3日で、同じ年にエドワード・ホワイトによって出版された。内容は、妻とその愛人に殺害されたトマス・アーデンの事件を、事件の発覚、処刑まで描いたものである。現存する中では、最古の家庭悲劇となる。作者はわからないが、あまり信頼できない証拠からウィリアム・シェイクスピアとする説もある。

材源[編集]

トマス・アーデン(Thomas Arden, or Arderne)はテューダー朝初期の成功した実業家だった。1508年に、おそらくノリッチで生まれた。アーデンは宗教改革の混乱に乗じて富を築いた。具体的には、1538年ヘンリー8世が没収したカトリック修道院の財産の売買である。アーデンが殺人を犯した家(現在もフェヴァーシャム Favershamに残っている)は元々はフェヴァーシャム修道院(Faversham Abbey)の宿坊だった。アーデンの妻アリスはモズビーという名前の下層階級に属する愛人がいて、二人は夫の殺害を企んでいた。何度か計画を失敗した後、二人はカレーの元イングランド領出身のブラック・ウィルとルーズバグ(劇中ではシェイクバグと呼ばれる)という元兵士たちを殺し屋として雇った。そして1551年2月14日、アーデンは殺害され、死体は、セントバレンタインデーの祭に訪れた人の誰かのやったことに見せかけるため、吹雪の中に捨て置かれた。しかし、殺し屋たちの足跡が消える前に吹雪が止んだ。足跡は家まで続いていた。事件は発覚し、殺し屋たちはすぐに犯行を自白した。アリスとモズビーは裁判にかけられ、有罪判決を受けた。その年のうちにモズビーは絞首刑に、アリスは火刑に処せられた。ブラック・ウィルはフランドルに逃げた。イングランドの記録にはブラック・ウィルがフランドルで処刑されたとあるが、フランドルの記録ではイングランドに送られ処刑されたとある。いずれにしても、火刑に処せられたものと思われる。ルーズバグは脱獄し、その後の消息は不明である。他にもいた共謀者たちはさらし絞首刑(Gibbet)に処せられた。その一人ジョージ・ブラッドショーは配達した封書の中の曖昧な文章で有罪判決を受けた。明かな誤審であり、死後に無罪を宣告された。

この話はラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)の『年代記』を通してエリザベス朝人に広く知られていたようだが、事件はつい最近のことで記憶にも新しかったことだろう。この劇の作者の知人の中には当時のことをよく覚えている人たちもいたものと思われる。

劇の内容[編集]

劇は殺人・裁判にいたる事件の流れだけでなく、事件のこみいったテーマ性までホリンシェッドの『年代記』に忠実である。また主要登場人物は前述のルーズバグを除くと全員実名である。

最初の場面で、アーデンはひどく曖昧な人物として描かれる。アーデンは不摂生で横暴で不正直に見える。グリーンという名前の友人から土地の一部を、実質、騙し取る。もちろん、この性格描写は、「邪悪な女の恐るべき悪意と偽善、淫らな性への飽くことなき欲望、殺人者全員の恥ずべき最期」と本の表紙に書いてある劇の意図を変えるものではない。この惹句は、この匿名のエリザベス朝劇作家が並以上の複雑なキャラクターを生み出す能力があることを示している。それは殺害シーンについても言える。殺し屋たちが霧の夜にアーデンを見つけようとするくだりの真に迫った緊張感と、殺し屋たちの無能な試みのほとんどベイソスなユーモアの結合がその例である。

テキストと作者[編集]

この劇は当時、匿名で、1592年(Q1)、1599年(Q2)、1633年(Q3)の3回「四折版」として出版されている。最後の出版は、その年、大判紙にアリス視点で書かれたバラッドが載ったことから出された。どの表紙にも上演や劇団の記録はない。それはこの劇がエリザベス朝演劇の主流以外書かれた劇であることを暗示している。しかし、この劇は決して忘れ去られなかった。ジョージ・リロ(George Lillo)による改訂版がほぼ3世紀にわたって上演された。1921年にオリジナル版に戻され、それ以後も断続的に上演されている。1799年には、バレエ版がサドラーズウェルズ劇場で上演された。1967年にはアレクサンダー・ゲールが『Arden Must Die』としてオペラ化した。

作者に関しては詳細な分析が行われてきたが、いまだに解答は得られていない。シェイクスピア説が最初に唱えられたのは1770年のことで、提唱者はフェヴァーシャムの古物研究家エドワード・ジェーコブ(Edward Jacob)だった。他にもアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン、ジョージ・セインツベリー(George Saintsbury)、19世紀の評論家チャールズ・ナイト、ニコラス・デリウスがシェイクスピア説を採っている。他にも、この劇は最低でも1度、宮内大臣一座一座によって演じられ、その時シェイクスピアが役者としてシェイクバグを演じた(シェイクバグは悪党でありながら慣習を破って散文でなく韻文で話す)という説、この劇を出版したエドワード・ホワイトはシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』を出版した人物だからこの劇もそうだという説がある。シェイクスピアが若い頃、フェヴァーシャムで上演した旅回りの一座のメンバーだったらしいという証拠がいくつかある。もしそれが真実なら、地元の人から事件のことを聞かされた可能性もあるかも知れない。シェイクスピアの母親の名前がメアリ・アーデン(Mary Arden)だったというのは、事件とは何の関係もない偶然の一致だが、その偶然がシェイクスピアの関心をこの事件に向けさせたということはなくもない。ちなみに、シェイクスピアが『お気に召すまま』の舞台に選んだのもアーデンの森(Arden)だった。

クリストファー・マーロウの名前も作者の候補にあがっている。キャラクターの強い激情ときわだって徳の高いヒーローの欠如はマーロウの特徴と共通したものである。マーロウはカンタベリーの近くで育って、この劇で示される地域の知識は持っていそうである。

フレデリック・ガード・フレイ(Frederick Gard Fleay)やチャールズ・クリフォードはトマス・キッドを候補者に挙げた。キッドは一時期マーロウと一緒に住んでいた。

しかし、これらはいずれも推論以外の何物でもない。

最近の上演[編集]

  • 2001年夏、この劇がフェヴァーシャムで上演された。上演場所は、実際の殺人の舞台となったアーデン家の庭だった。

参考文献[編集]

  • Arden of Feversham: a study of the Play first published in 1592 (1970) written and illustrated by Anita Holt
  • C. F. Tucker Brooke, ed., The Shakespeare Apocrypha, Oxford, Clarendon Press, 1908.
  • Max Bluestone, "The Imagery of Tragic Melodrama in Arden of Faversham," in Bluestone and Rabkin (eds.), Shakespeare's Contemporaries, 2nd ed., Prentice-Hall, 1970.

外部リンク[編集]