フェリアル・ビント・ファールーク

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幼い頃のフェリアル王女、1940年以前

フェリアル・ビント・ファールーク亜剌:فريال بنت فاروقラテン文字転写:Ferial(Farial) bint Farouk, 1938年11月17日 モンタザ宮殿アレクサンドリア - 2009年11月29日 ジュネーヴ)は、ムハンマド・アリー家統治期のエジプト王家の一員。最後のエジプト王フアード2世の異母姉。

エジプト王ファールーク1世とその最初の妻ファリダ王妃の長女として生まれた[1]。国王夫妻の第1子としてその誕生は盛大に祝福され、数千人の貧民に対する朝食の配給が行われ、王女と同じ日に生まれた新生児がいる1700の家庭に、当時としては高額の1エジプト・ポンドが配られた。両親の間にはその後、ファウズィーヤファディアの2人の妹が生まれたが、父は男子が生まれないことを理由に1948年に母を離縁し、ナリマン・サディクと再婚した。1952年のエジプト革命に際して家族とともにエジプトを追われ、イタリアローマで少女時代を送った。

スイスリュトリLutry)のル・グラン・ヴェルジュ校(Le Grand Verger)で学び、ローザンヌの秘書学校で講師として働いた[2]。1966年1月24日、ウェストミンスターでスイス人のホテル経営者の息子ジャン=ピエール・ペルトン(Jean-Pierre Perreten、1968年没)と結婚した。夫はフェリアルとの結婚に際してスンニ派ムスリムに改宗し、シャミール・シェリフ(Samir Cheriff Perreten)と名乗った[2]。しかし2人は長女のヤスミーヌ(Yasmine Perreten、1967年 - )の誕生後まもなく離婚した。ヤスミーヌは2004年、エジプト女権活動家の草分けであったフーダ・シャーラーウィーHuda Shaarawi)の孫息子と結婚した。

離婚後、フェリアルはモントルーの学校でタイピングフランス語の教師として働き、2009年に胃がんにより亡くなった[2]。遺骸はカイロ、アル・リファーイー・モスクAl-Rifa'i Mosque)の副王廟に葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ Buyers, Christopher. “The Royal Ark: The Muhammad 'Ali Dynasty (EGYPT page14)”. 2012年4月30日閲覧。
  2. ^ a b c Princess Ferial Farouk”. The Daily Telegraph (2009年12月9日). 2012年4月30日閲覧。

外部リンク[編集]

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