フィリップ・オクチャーブリスキー

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フィリップ・セルゲーヴィチ・オクチャーブリスキー
生誕 (1899-10-23) 1899年10月23日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
トヴェリ付近のルクシノ村[1]
死没1969年7月8日(1969-07-08)(69歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の旗 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国セヴァストポリ
所属組織ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
部門 ソビエト連邦海軍
軍歴1917年 – 1960年
最終階級海軍大将
指揮アムール小艦隊ロシア語版
黒海艦隊
戦闘ロシア内戦
第二次世界大戦
受賞
1等ウシャコフ勲章 1等ウシャコフ勲章 1等ナヒーモフ勲章 2等スヴォーロフ勲章 オデッサ防衛記章 セヴァストポリ防衛記章 カフカース防衛記章 1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章 1941年–1945年大祖国戦争勝利20年記念記章 労働者農民赤軍20年記念記章 ソビエト陸海軍30年記念記章 ソ連軍40年記念記章 ソ連軍50年記念記章 レジオン・オブ・メリット勲章コマンダー 1等1944年9月9日勲章

フィリップ・セルゲーヴィチ・オクチャーブリスキーロシア語: Фили́пп Серге́евич Октя́брьский|Filipp Sergeevich Oktyabr'skii, ラテン文字転写: 1899年10月23日[2][注釈 1] - 1969年7月8日)は、ソ連の軍人。ソ連邦英雄。最終階級は海軍大将。なお、本姓はイワノフ(ロシア語: Иванов)である。大祖国戦争では黒海艦隊司令官を務め、セヴァストポリ包囲戦を指揮した。

経歴[編集]

イワノフ(オクチャーブリスキー)は、1899年10月23日ロシア帝国トヴェリ県ロシア語版[3]ルクシノ村(現トヴェリ州スターリツキー地区ロシア語版)で、ロシア人農民の家に生まれた。

1915年、イワノフは出稼ぎのためシュリッセリブルクに、次いでサンクトペテルブルクに向かった。消防士や、ラドガ湖スヴィリ川ネヴァ川を航行する汽船会社(現セヴェロ=ザーパドノエ・パロホツトヴォ社ロシア語版)の補助操縦手などを経て、1918年赤色バルト艦隊ロシア語版へ志願した[4]。彼は入隊後すぐにロシア内戦へ動員され、バルト艦隊や北方小艦隊の水兵として白軍と戦火を交えている。1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)へ入党した。翌年にはバルト艦隊水雷学校を、1922年にはペトログラード共産主義大学付属課程を修了した[5]1924年、彼は十月革命を記念して、自らの姓であるイワノフを、ロシア語で10月の意味を持つオクチャーブリスキーに改称している[4]1928年M・V・フルンゼ記念海軍学校ロシア語版付属並行課程を修了[5]。バルト艦隊や太平洋艦隊黒海艦隊に勤務し、魚雷艇の艇長、群長、大隊長、支隊長、旅団長を歴任した。

1938年2月よりアムール小艦隊ロシア語版司令官に就任し、1939年3月からは黒海艦隊司令官となった[5]

1941年5月21日、オクチャーブリスキーは海軍中将へ昇進した。大祖国戦争ではオデッサセヴァストポリの防衛を担っている。黒海艦隊司令官と同時に、彼は1941年から1942年までセヴァストポリ防衛地区司令官を兼任していた。一連の戦闘における避難計画では、陸軍や海軍の軍人はたとえ負傷兵であっても避難の対象外とされていた[6][7]。そのため、黒海艦隊の指揮を執っていたオクチャーブリスキーは、包囲されたオデッサの防衛部隊に対して物資輸送や敵への艦砲射撃を敢行するなど積極的な支援を行った。部隊や市民の撤退も支援している。しかし、オデッサは1941年10月16日に陥落した。それに伴い、黒海艦隊はセヴァストポリへ撤退した。

セヴァストポリでもソビエト連邦ナチス・ドイツとの間で激しい戦闘が行われたが、オクチャーブリスキー率いる黒海艦隊は市街の防衛に奮闘した。だが、1942年7月1日の夜間、彼は防衛地区司令官でありながら飛行機でセヴァストポリ市内からの脱出を図った。彼の脱出から2日後の7月3日にセヴァストポリは陥落している。負傷兵を含む多くの部下を見捨てて司令官だけが逃げたという事実は、兵士の士気を著しく下げ[8]、セヴァストポリの陥落を早めたとされる。これにより、捕虜や虐殺などで取り残された約8万人の兵士を一度に失う結果となった[8]

セヴァストポリの集落であるインケルマンロシア語版には、ワインを貯蔵するための横坑が岩壁に掘られていた。そのため、戦時下においてこの横坑は野戦病院や弾薬庫、兵器庫として活用されていた。既にセヴァストポリは包囲され、ドイツ軍がインケルマンを占領するのも時間の問題となっていた1942年6月29日、オクチャーブリスキーの副官N・F・ザイツ中尉により、この弾薬庫は爆破された。インケルマンへ上陸したドイツ兵は、爆発とともに高さ約30メートルの岩壁が300メートルにわたって崩落する様子を目撃している。この崩落に野戦病院も巻き込まれ、沿海軍の第47、第427医療部隊や負傷した赤軍兵士、避難していた民間人など約3,000人が犠牲となった[9]

オクチャーブリスキーは並行してケルチ・フェオドシア上陸作戦ロシア語版の指揮も執り、結果としてクリミアでの橋頭保確立に貢献した。

1943年6月、オクチャーブリスキーはアムール小艦隊司令官に任じられた。再び黒海艦隊に戻ってきたのは1944年3月のことである。彼の指揮する黒海艦隊はカフカースクリミアの解放に貢献し、かつて彼の指揮下で失われたセヴァストポリも回復された。4月10日に海軍大将へ昇進。

終戦後もオクチャーブリスキーは黒海艦隊の指揮を執り続けた。1948年11月から1951年1月まで海軍第一副総司令官を担っていたが、病気を理由に退いている。1952年4月からは科学試験場局長へ移り、1953年11月まで務めた。1954年、一時軍務から離れてフェオドシヤスタリ・クリムロシア語版などで過ごしている。1957年に復帰し、P・S・ナヒーモフ記念黒海高等海軍士官学校ロシア語版(セヴァストポリ)の学校長に就いた[5]

ソビエト連邦最高会議幹部会1958年2月20日付命令によって、フィリップ・セルゲーヴィチ・オクチャーブリスキー(イワノフ)はソ連邦英雄第10800号に列せられ、レーニン勲章金星章ロシア語版が贈られた。

1960年9月、オクチャーブリスキーはソビエト連邦国防省監察総監部軍事監察官となり、後に顧問に就任している。その他、共産党員として1941年2月から1952年まで中央監査委員会ロシア語版委員を務めたほか[5]第1期ソビエト連邦最高会議では代議員(クリミア自治ソビエト社会主義共和国民族会議ロシア語版代議員、任期:1940年 - 1946年)に選出され[10]、続く第2期ソビエト連邦最高会議でも代議員(クリミア州連邦会議代議員、任期:1946年 - 1950年)に選出されている[11]

1969年7月8日、セヴァストポリで死去。オクチャーブリスキーはセヴァストポリの名誉市民でもあった。遺体はコムナル墓地ロシア語版に埋葬された。

叙勲[編集]

コムナル墓地ロシア語版にあるオクチャーブリスキーの墓
ソビエト連邦
ソ連邦英雄
レーニン勲章3回
赤旗勲章3回
赤星勲章
1等ウシャコフ勲章2回
1等ナヒーモフ勲章
2等スヴォーロフ勲章
オデッサ防衛記章
セヴァストポリ防衛記章
カフカース防衛記章
1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章
1941年–1945年大祖国戦争勝利20年記念記章
労働者農民赤軍20年記念記章
ソビエト陸海軍30年記念記章
ソ連軍40年記念記章
ソ連軍50年記念記章
外国
レジオン・オブ・メリット勲章コマンダー(アメリカ合衆国
1等1944年9月9日勲章ブルガリア王国

顕彰[編集]

ソビエト連邦海軍には、オクチャーブリスキーの名を冠した巡洋艦アドミラル・オクチャブリスキーロシア語版が存在していた。それ以外にも、英雄都市セヴァストポリの記念碑やトヴェリ州スターリツァに位置する通りの名前など、現在でも彼の名に因んだ施設を見ることができる。

出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ユリウス暦では10月11日

脚注[編集]

  1. ^ "War Heroes" (Russian language)”. 2015年7月7日閲覧。
  2. ^ По другим данным — Template:СС2 (см.: Template:Sfn-текст).
  3. ^ Деревня Лукшино, входившая в Мартьяновский округ Зубцовского уезда, не сохранилась, ныне территория относится к Template:МР Тверской области.
  4. ^ a b Сайт «Великая война».
  5. ^ a b c d e Октябрьский (Иванов) Филипп Сергеевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898—1991. 2016年9月30日閲覧。
  6. ^ Последние дни обороны Севастополя Archived 2012-04-15 at the Wayback Machine..
  7. ^ Схема эвакуации из Севастополя руководителей его обороны Archived 2012-03-01 at the Wayback Machine..
  8. ^ a b Замиховский Григорий Ефимович”. Воспоминания ветеранов Великой Отечественной Войны. 2018年12月24日閲覧。
  9. ^ “[http://2005.novayagazeta.ru/nomer/2005/16n/n16n-s23.shtml ВЗОРВАНЫ И ЗАБЫТЫ Моряки и пехотинцы продолжали защищать Севастополь после того, как город тайно покинули их командиры]”. Новая газета. 2018年12月24日閲覧。
  10. ^ Депутаты Верховного Совета СССР I-го созыва 1937—1946”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898—1991. 2016年9月30日閲覧。
  11. ^ Депутаты Верховного Совета СССР II созыва 1946—1950”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898—1991. 2016年9月30日閲覧。

参考文献[編集]

  • ЛурьеВ.М. (2001). Адмиралы и генералы Военно-Морского Флота СССР в период Великой Отечественной и Советско-японской войн (1941-1945) (1000 экз ed.). СПб.: Русско-Балтийский информационный центр «БЛИЦ». ISBN 5-86789-102-X
  • Герои Советского Союза: Краткий биографический словарь. Vol. 2 /Любов — Ящук/ (100 000 экз ed.). М.: Воениздат. Пред. ред. коллегии И. Н. Шкадов. 1988. ISBN 5-203-00536-2
  • Долгов И. А. Золотые звёзды калининцев. — М.: Московский рабочий, 1984. — Кн. 2.

外部リンク[編集]

  • "フィリップ・オクチャーブリスキー". Герои страны ("Heroes of the Country") (ロシア語).
  • Октябрьский Филипп Сергеевич на сайте Министерства обороны Российской Федерации
  • Н. Г. Кузнецов Из материалов по обороне Севастополя (О Ф. С. Октябрьском)
  • Октябрьский (Иванов) Филипп Сергеевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898—1991. 2016年9月30日閲覧。