フィヨルニル

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フィヨルニル[1]フヨルニル[2]フョルニル[3]など。FjölnirFjölnerFjolnerFjolneなど)は、紀元前1世紀から1世紀初頭にかけてガムラ・ウプサラにいたとされる、ユングリング家に属するスウェーデン王である。

彼は半ば神話伝説的な時期の文献に、フレイゲルズの息子として登場している。フレイの子孫は、彼の別名「ユングヴィ」に由来する「ユングリング家」(ユングリンガル)と呼ばれたという[4][5]

フィヨルニルは、のちにデンマークとなるシェラン島に、同様に神話時代の王として知られる「平和」のフロージ(フロディ)を訪ねた際、蜂蜜酒の樽の中に転落し溺死した。

フィヨルニルの後はその息子スヴェイグジルが継いだ。

『グロッティの歌』[編集]

古エッダ』の『グロッティの歌』は、フィヨルニルがアウグストゥス(紀元前62年 - 紀元14年)と同時代の人であったと伝えている。

彼はすばらしい王であり、その治世の収穫は豊作であり、平和が続いていた。 彼の治世に、王フロージ(フリズレイヴ(en)の息子)は、シェラン島のレイレ(en)を支配していた。

『グロッティの歌』は、フロージがフィヨルニルをウプサラに訪ねた折に、2人の女巨人フェニヤとメニヤを買ったことを語る。 しかしこの2人の女巨人は、フロージ王の破滅の原因となった。 (グロッティの歌を参照)

『ユングリング家のサガ』[編集]

ユングリング家のサガ』第10章は、フィヨルニルがフレイとゲルズの間の息子だと語っている[4]。フィヨルニルはユングリング家において神格化されない最初の王であった[注釈 1]

Freyr tók þá ríki eptir Njörð; var hann kallaðr dróttinn yfir Svíum ok tók skattgjafir af þeim; hann var vinsæll ok ársæll sem faðir hans. Freyr reisti at Uppsölum hof mikit, ok setti þar höfuðstað sinn; lagði þar til allar skyldir sínar, lönd ok lausa aura; þá hófst Uppsala auðr, ok hefir haldizt æ síðan. Á hans dögum hófst Fróða friðr, þá var ok ár um öll lönd; kendu Svíar þat Frey. Var hann því meir dýrkaðr en önnur goðin, sem á hans dögum varð landsfólkit auðgara en fyrr af friðinum ok ári. Gerðr Gýmis dóttir hét kona hans; sonr þeirra hét Fjölnir.[6][7]

大意:
フレイは良い季節をもたらした。ウプサラに大きな神殿を建造し、税と不動産と貢ぎ物を集めた。その時代に「フロディの平和」が始まり、全土が豊かであり、国民はこれをフレイのおかげとした。彼の妻はギュミルの娘でゲルズといい、その息子はフィヨルニルといった。

著者スノッリ・ストゥルルソンは続く第11章で、フレイの死後にフィヨルニルがスウェーデン王になったと語っている。 しかしフィヨルニルは、シェラン島の王である「平和のフロージ」(Friðfróði)を訪問した際、蜂蜜酒の樽に落ち、溺死してしまう[8]

Fjölnir, son Yngvifreys, réð þá fyrir Svíum ok Uppsala auð; hann var ríkr ok ársæll ok friðsæll. Þá var Friðfróði at Hleiðru; þeirra í millum var heimboð ok vingan. Þá er Fjölnir fór til Fróða á Selund, þá var þar fyrir búin veizla mikil ok boðit til víða um lönd. Fróði átti mikinn húsabœ; þar var gert ker mikit margra alna hátt, ok okat með stórum timbrstokkum; þat stóð í undirskemmu, en lopt var yfir uppi, ok opit gólfþilit, svá at þar var niðr hellt leginum, en kerit blandit fult mjaðar; þar var drykkr furðu sterkr. Um kveldit var Fjölni fylgt til herbergis í hit næsta lopt, ok hans sveit með honum. Um nóttina gékk hann út í svalir at leita sér staðar, var hann svefnœrr ok dauðadrukkinn. En er hann snerist aptr til herbergis, þá gékk hann fram eptir svölunum ok til annarra loptdura ok þar inn, missti þá fótum ok féll í mjaðarkerit, ok týndist þar.[6][7]

大意:
ユングヴィ・フレイの息子フィヨルニルがスウェーデン人を支配した。彼もまた良い季節と平和をもたらした。フロージ王がレイレを支配したが、2人は友好的であった。ある時フィヨルニルがシェラン島のフロージ王を訪ねた。その大きな館には木製の大きな深い樽があり、低い床に置いたそれに屋根裏から強い蜂蜜酒を注いでいた。フィヨルニルと一行は、夜に寝る場所として屋根裏に隣接した部屋をあてがわれた。フィヨルニルはひどく眠い上に泥酔しており、寝る場所を探して屋根裏に沿った回廊を歩くうち、足を滑らせ、酒の樽に落ちて溺れ死んだ。

『ユングリンガ・タル』[編集]

スノッリは、9世紀に成立した『ユングリンガ・タル』(en)における数行の詩も引用している。詩では、フィヨルニルがフロージの住居において蜜酒により命を落とした旨が語られている[9]

Varð framgengt,
þars Fróði bjó,
feigðarorð,
es at Fjölni kom;
ok sikling
svigðis geira
vágr vindlauss
of viða skyldi.[6][7]

ノルウェー史』。12世紀後半に成立したノルウェーの歴史書)は、『ユングリンガ・タル』のラテン語による概要を掲載している。それは、スノッリが引用したものより古いものである。 この文献も、フィヨルニルがフレイの息子でありスヴェイグジルの父であること、蜂蜜酒の樽の中で浸死することを伝えている。

Froyr vero genuit Fiolni, qui in dolio medonis dimersus est, cujus filius Swegthir [...][10]
大意:フレイがフィヨルニルを生んだ、彼は蜂蜜酒の大樽の中で溺死した。彼の息子、スヴェイグジル、…

それより古い文献である『アイスランド人の書』も、『ユングリンガ・タル』での王家の系統を列挙し、それにもフレイの後継者とスヴェイグジルの先代として、フィヨルニルを挙げている。加えてこの文献は、フィヨルニルがフロージ王(「平和」のフロージ)のもとで死んだことを手短に述べている。

iii Freyr. iiii Fjölnir. sá er dó at Friðfróða. v Svegðir: [11].


その他の「フィヨルニル」[編集]

「フィヨルニル」という名前は、オーディンの名乗った別名にも見られる。 『古エッダ』の『グリームニルの言葉』第47では彼がゲイルロズ王に身分を明かす時に名乗り[12]、『レギンの歌』第18節では、彼が崖の上に立ってシグルズとレギンに話しかけた際に名乗った[13]

スノッリも、『散文のエッダ』第1部『ギュルヴィたぶらかし』第3章において、オーディンの名の1つとして言及している[14]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (一)』52頁によれば、フレイの妹のフレイヤが最後の神とされている。

出典[編集]

  1. ^ 『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (一)』、『「詩語法」訳注』などにみられる表記。
  2. ^ 『北欧の神話』にみられる表記。
  3. ^ 『イングリング列王詩』にみられる表記。
  4. ^ a b 『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (一)』51頁(「第十章 フレイの死」)。
  5. ^ 『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』(山室静筑摩書房、1982年)111頁。
  6. ^ a b c Norrøne Tekster og KvadでのYnglinga saga Archived 2005年12月31日, at Bibliotheca Alexandrina
  7. ^ a b c Ynglingatalの補助的なオンライン公開版
  8. ^ 『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (一)』53-54頁(「第十一章 フィヨルニル王の死」)。
  9. ^ 『イングリング列王詩』202-203頁。
  10. ^ Storm, Gustav (編者)(1880年). Monumenta historica Norwegiæ: Latinske kildeskrifter til Norges historie i middelalderen, Monumenta Historica Norwegiae (Kristiania: Brøgger), p. 97
  11. ^ ÍslendingabókのGuðni Jónsson'による版 Archived 2007年5月8日, at the National and University Library of Iceland
  12. ^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』(V.G.ネッケル他編、谷口幸男訳、新潮社、1973年)56頁(「グリームニルの歌」第47節)。
  13. ^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』136頁(「レギンの歌」第18節)。
  14. ^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』226頁(「ギュルヴィたぶらかし」第3章)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 伊藤盡「アドルフ・ノレーン編フヴィンのショーゾールヴル作『ユングリンガ・タル、あるいはイングリング列王詩』(前編)」『杏林大学外国語学部紀要』第17号、2005年。
  • スノッリ・ストゥルルソン『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -(一)』谷口幸男訳、プレスポート・北欧文化通信社、2008年、ISBN 978-4-938409-02-9
  • 谷口幸男「スノリ『エッダ』「詩語法」訳注」『広島大学文学部紀要』第43巻No.特輯号3、1983年。