フィデス=ハンガリー市民同盟

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ハンガリーの旗 ハンガリーの政党
フィデス=ハンガリー市民同盟
Fidesz-Magyar Polgári Szövetség
Fidesz logo.png
党のロゴ
党首 オルバーン・ヴィクトル
成立年月日 1988年3月30日
本部所在地 ブダペスト
ハンガリー国会議席数
(37%)
141 / 386
(2006年4月)
政治的思想・立場 中道右派[1]
保守主義[1]
キリスト教民主主義
公式サイト Fidesz.hu
シンボル オレンジ
国際組織 国際民主同盟
キリスト教民主主義インターナショナル
ヨーロッパ人民党
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フィデス=ハンガリー市民同盟(フィデス ハンガリーしみんどうめい、ハンガリー語: Fidesz-Magyar Polgári Szövetség)は、ハンガリー中道右派キリスト教民主主義保守主義政党[1]。略称はFidesz-MPSZFideszフィデス)。旧名は青年民主同盟Fiatal Demokraták Szövetsége、略称:フィデス、Fidesz)、フィデス=ハンガリー市民党Fidesz-Magyar Polgári Párt)。

1998年の選挙で勝利し、政権に就いたものの、2002年2006年の総選挙ではハンガリー社会党に敗れ、その後は国会内最大野党となっていたが、2010年総選挙では勝利し、政権を奪回した。

歴史[編集]

党結成[編集]

1988年3月に大学の学生自主研究機関であるライク・ラースロー・コレギウム、ビボー・イシュトヴァーン・コレギウムを中心とする37名の大学生ら知識人が結成したが、結成直後、共産主義政権下で自由に認められていない政治団体の結成であるとして、官憲により弾圧された。結成当時は入党資格を35歳以下の者に限定し、党首を置かず、複数の対外スポークスマン制度をとった。強力な反共主義で知られ、1989年6月にナジ元首相(1956年ハンガリー動乱のため1958年6月に処刑される)の葬儀において幹部のオルバーン・ヴィクトルが駐留ソ連軍の撤退と複数政党による自由選挙を求めた演説は有名である。オルバーンの他、フォドル・ガーボル1989年8月にプラハの春ソ連軍介入21周年デモに参加してプラハで拘留されたドイチュ、オルバーンやフォドルとともに円卓会議に参加したケベール・ラースローらが、初期のフィデスにおける中心的存在。体制転換期は、同じ反共主義の自由民主同盟(SZDSZ)と協力し、1989年11月にハンガリー社会党ポジュガイ・イムレの大統領選出を防いだ国民投票に同調、1990年の社会主義体制終焉後初の国会選挙でも同党とリベラル・ブロックを組み、国会に議席を得た。

路線対立[編集]

1990年以降の民主政権期においては野党となったが、1990年9月の地方自治体選挙で躍進、10月のガソリン値上げ発表に端を発するタクシートラック運転手らによるバリケード事件では、ハンガリー民主フォーラム(MDF)政権の打倒を目指す最大野党自由民主同盟の姿勢とは一線を画した。その後も、対立する最大野党自由民主同盟与党ハンガリー民主フォーラムの協調を訴え、1991年にはスペイン民主化の基盤となったモンクロア協定にならい、国会内政党労働組合・雇用団体などを集め主要問題について議論するよう訴えた。こうした与野党間の協調を訴える姿勢や、若者による政党という新鮮さが国民の支持を得、旧共産党時代の共産党機関紙などがフィデスを支持したことも加わって、1991年から1993年にかけては、国民の3割もの高い支持を得るに至った。

しかし1993年にそれまで35歳としていた入党年齢制限を廃止、さらに党首制の導入を決定、オルバーンが党首に選出される過程で、自由民主同盟に近い立場のフォドルが離党、後に自由民主同盟に移り、これにウンガールらの一部議員が続いた。それまでフィデスの党紙であった「マジャール・ナランチ」誌編集部幹部も、フォドルと行動をともにしてフィデスを離れた。フォドルらの離党は、それまでフィデスを熱烈に支持していた旧共産党系の主要新聞が一挙にフィデス離れを起こすきっかけとなり、さらに年金審議での反対投票や与党ハンガリー民主フォーラムとともに生じた党本部売却疑惑などによって、支持率を大きく減らした。

右派政党への路線転換[編集]

フィデスは1994年議会選挙でも自由民主同盟と選挙協力を行い、1990年選挙に続いてリベラル政権の樹立を目指して協力したが、すでに社会党への接近が噂されていた自由民主同盟との選挙協力は、いわば両党の妥協の産物であった。選挙後に自由民主同盟が、過半数を得て選挙に大勝したハンガリー社会党からの連立政権参加要請の受け入れを決めたため、リベラル・ブロックは崩壊した。フィデスは1994年秋の地方自治体選挙では右派ハンガリー民主フォーラムキリスト教民主国民党(KDNP)と選挙協力関係を結び、1995年からは明白に右派保守主義政党に転換し、党名をフィデス=ハンガリー市民党に変更した。

その後、ハンガリー民主フォーラムキリスト教民主国民党の党内対立による分裂を受け、これら勢力の一部を吸収、または選挙協力を結ぶなどし、その結果1998年の選挙で勝利し、独立小地主党ハンガリー民主フォーラムとともに組閣し、オルバーン党首が首相に就任した。オルバーン政権は、社会党政権の大規模な民営化・外資導入政策に対抗し、ハンガリー中小企業の育成、悪化していた治安の回復、大学授業料制の撤回、若年夫婦への住宅取得制度導入、学生への信用供与、高等教育機関の整理統合などの政策を進め、国外ハンガリー少数民族への支援法案(ステータス法)を制定するなどの成果を挙げた。しかし2002年の選挙では、労働者最低賃金引き上げ、公務員の給与引き上げなど、ポピュリスト的政策を訴えたメッジェシ・ペーテル首相候補を擁するハンガリー社会党に僅差で敗北し、野党となった。

2002年選挙での敗北を受けて2003年に政党名を再び変更し、現在のフィデス=ハンガリー市民同盟となった。2004年欧州議会議員選挙では支持率を再び盛り返し、社会党に勝利した。2005年には社会党と自由民主同盟の対立の間隙を縫い、ショーヨム・ラースローを大統領とすることに成功した。しかし2006年国会選挙ではジュルチャーニ・フェレンツを新たな首相とした社会党に支持率を盛り返され接戦となり、社会党と選挙公約を争って乱発しあったが、結局敗北した。

政権復帰[編集]

だが2006年秋、社会党のジュルチャーニ首相が、選挙で勝利するため嘘の経済統計数値を国民に伝えていたことを語った党内内部演説が暴露され、9月から10月にかけて大規模なジュルチャーニ首相辞任要求・反ハンガリー社会党暴動・抗議デモが発生、フィデスは地方自治体選挙で大勝し、その後は記録的に高い支持率を得ている。(国民議会の)任期満了によって実施された2010年の国民議会選挙で政権に返り咲いた。

現況[編集]

フィデスへの支持は、生活水準が高い国内西部の諸県や、中部のバーチ・キシュクン県、東部のハイドゥー・ビハル県など、40歳代以下、地方において高い。1990年から1994年まで与党であったハンガリー民主フォーラムキリスト教民主国民党独立小地主党らの支持層を基本的に継承している。その経済政策は、左派政権与党のハンガリー社会党自由民主同盟が積極的な資本導入・市場経済化政策を進めたのに対して、諸政策に国家の介入をより多く認める、キリスト教民主主義的・準社会主義的政策をとっている。1990年代初期にはリベラル政党として知られたが、1994年左派リベラル自由民主同盟が社会党との連立政権に参加したことを理由に、そのあとは右派政党と協力、このため自由民主同盟系や、旧共産党系の左派メディアからは激しく嫌われており、極右政党であるかのごとき批判をされることもあるが、政治思想的にはオーストリア国民党ドイツキリスト教民主同盟(CDU)などに類似のキリスト教民主主義政党である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c http://www.parties-and-elections.de/hungary.html Parties and Elections in Europe - Hungary