ファーギー・フレデリクセン

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ファーギー・フレデリクセン
デニス・フレデリクセン (1983年)}
デニス・フレデリクセン (1983年)
基本情報
出生名 Dennis Hardy Frederiksen
別名 デニス・フレデリクセン
デヴィッド・ロンドン
ファーギー
Fergy Frederiksen(別表記)
F. Frederickson(誤表記)
出生 1951年5月15日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシガン州グランドラピッズ
死没 2014年1月18日(満62歳没)
学歴 セントラル・ミシガン大
ジャンル プログレッシブ・ロック
映画音楽
ダンス・ホップ
ニュー・ウェイヴ
ケイジャン
ヘヴィメタル
AOR
ロック
ポップス
職業 ボーカリスト
作曲家
担当楽器
ベル
活動期間 1970年代 - 2014年
共同作業者 コモン・ピープル
MSファンク
トリリオン
ヴィレッジ・ピープル
エンジェル
サバイバー
ル・ルー
TOTO
RTZ
Karo
トミー・ディナンダー
リッキー・フィリップス
レディオアクティヴ
メッカ
ワールド・クラシック・ロッカーズ
ハートブレイカー
公式サイト http://fergiefrederiksen.wordpress.com/

ザ・ビートルズ
ポール・ロジャース
スティービー・ワンダー
スティーリー・ダン

ファーギー・フレデリクセンFergie Frederiksen、本名:デニス・ハーディ・フレデリクセン Dennis Hardy Frederiksen 1951年5月15日 - 2014年1月18日 ) はアメリカミュージシャンボーカリスト作曲家)である。TOTOの元メンバーとして知られている。

流転のボーカリスト[編集]

1951年アメリカ合衆国ミシガン州グランドラピッズで、デンマーク系の家庭に生まれる。13歳の時に歌い始め、15歳になると40歳代のミュージシャン・グループコモン・ピープルフライング・ホームをバックにクラブやパブでハイトーンを披露し、10代にしていろいろと学んだようである。セントラル・ミシガン大へは、体操選手特待生として進学[1]、1年の時にミシガン州チャンピオンとなり、将来のオリンピック選手として期待された。しかしながら、体操ではなく音楽で生計を立てる道を選んだ。1975年に、友人である MSファンクのリード・ボーカリスト、トミー・ショウスティクス加入のため、フレデリクセンに代役を依頼、1976年のMS解散まで同バンドに在籍した。シカゴトリリオンがリード・ボーカリストを探しているという話を聞きつけ加入、1978年エピックより初のレコード・デビューとなる氷牙(原題はセルフ・タイトル)がリリースされた。(デニス・フレデリクセンとクレジットされている。キーボードは後にプロデューサーとして名をはせるパトリック・レナード)通学と音楽活動でミシガンとイリノイを往復するのが苦で同バンドを脱退する。なお、後任ボーカルにはシカゴ大卒の数学者トム・グリフィンが加入、「クリア・アプローチ」をリリースした。現在、ギタリストFrank Barbalaceを中心にサードアルバムを製作中である。

大学卒業後はセッション・ワークを主体として活動、映画音楽コマーシャルジングルに作品を残す。ヴィレッジ・ピープルの映画「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」(邦題 ミュージック・ミュージック)のサウンドトラックにおいてデヴィッド・ロンドン名義で、「サマンサ」と「サウンド・オブ・ザ・シティ」を歌い、同アルバムは豪州でチャート1位、英国で9位となる。次作「ルネッサンス」では、全曲の作曲に彼のクレジットが付いている。また同時期に、シェールRudyという曲も提供した。フレデリクセン本人は、このような性癖を持ったグループと活動したことに対して多くを語りたくないとのこと。また、初のソロ・アルバム、「デヴィッド・ロンドン」をスウェーデンメトロノーム・レコードからリリース、同アルバムは流通量が少ないためかなり入手困難である。CMソングでは、クラフト・ゼネラル・フーズ社提供のCM歌を歌ったらしいが、本人が忘れてしまっている事もあり、商品名も判らず、インターネット上では確認出来なかった[2]

フレデリクセンのソロ・アルバムは、エンジェルのキーボーディストのグレッグ・ジェフーリアの手に渡るところとなり、同バンドのリード・ボーカルとなる。ベーシスト リッキー・フィリップスと出会うことともなり、その後の共同プロジェクトの礎となる。エンジェル時代の公式盤は発売されなかったものの、非公式音源集「Angel Rarities collection」にてフレデリクセンの歌声を聞くことが出来る。なお、そのうち数曲はホワイト・シスターのアルバムでは公式曲となっている。

1982年頃にカンサスのリードボーカルのスティーヴ・ウォルシュが脱退。サミー・ヘイガーを含む200人が挑んだ後任選出オーディションでジョン・エレファンテと争そったが敗北する[3]。しかし、同バンドのマネージャー バッド・カーの目に留まることとなり後の道が開けた。ジム・ピータリック率いるサバイバーの新リード・ボーカルに収まりそうになったが、結局アルバム「アイ・オブ・ザ・タイガー」にてバックグランド・ボーカルをスパークルしただけで終わってしまう。日本ビニール盤ライナーには、Background vocals:Fergie(姓表記なし)と記載されているだけの扱いで印税収入もなかったが、ピータリック人脈は2000年代に入り活きて来ることになる。

83年になると、ル・ルー(前身バンドLevee Bandにボビー・キンボールが所属)のリード・ボーカル・スポットに空きがあるとマネージャーのバッド・カーから聞きつけ加入、アルバム「ソー・ファイアド・アップ」をRCAレコードからリリースする。(前ボーカル ポラードはバプテスト教会の牧師となる)この当時のアナログ盤の表記では、Dennis Frederiksenに戻っていて、カンサスの初期アルバムの録音で有名なルイジアナ州ボガルーサStudio In The Countryで製作された[4]。フレデリクセンと女優キャリー・ハミルトンとの破局を描いた曲「キャリーズ・ゴーン」はチャートの79位であった。なお、ハミルトンは日米合作映画 TOKYO-POPで主演している。その後、フィリップスらとアバンドン・シェームというユニットを結成、ドラムスにパット・トーピー、ギターにティム・ピアススコット・シーツ、キーボードにジョン・パードルという布陣で、映画Armed Responseのサウンドトラック、 Over Night Sensationなどを制作する。

フィリップスがフレデリクセンのデモ・ビデオをトトのドラマーのジェフ・ポーカロに渡したところ、同バンドに興味を持たれオーディションを受ける。ジェフ・ポーカロが強く強くフレデリクセンを推したこともあり、同予選でエリック・マーティンを退け、キンボールに代わってリード・ボーカルの座を獲得し、トト5枚目のアルバム「アイソレーション」をコロムビアから発売する。「ストレンジャー・イン・タウン」がヒットしたが、セールス的には前作を上回ることは出来なかった。次作「ファーレンハイト」ではバックアップ・ボーカルで1曲のみ参加しただけで、さまざまな理由により同バンドを脱退する。(スティーヴ・ルカサーとの対立が一因と言われている)

1987年頃からは、ボストンのギタリストのバリー・グドローの新プロジェクトRTZでデモ作成に入り、同バンドのボーカルに納まりそうになったが頓挫、デモ音源だけが残っている。バンド名自体、ロンドンの曲Destination Zeroから採ったとする説もある。1991年には、セルフ・タイトルアルバム「Return to Zero」が発売されたが、全てブラッド・デルプ版になっていた。

1988年ドイツに渡り、同国のヘビー・メタル・バンド、Karoのアルバム「ヘビー・バースデー」5曲目、「火の玉」で攻撃的バッキング・ボーカルをイグナイトする[5]。この録音には、スウェーデンのトミー・ディナンダーも参加しており、フレデリクセンにとっては後期活動における重要な仕事となった[6]

この後、「燃え尽きて」しまい、音楽業界に嫌気が差し引退、数年間レストラン・ビジネスに携わる。

安住の地[編集]

音楽に対する情熱が再度湧き上がり、旧友フィリップスとレコーディング作業に入る。1994年に復帰作「フレデリクセン/フィリップス」をリリース、アバンドン・シェーム時代の楽曲(ベイビー・ブルー・アイズとキャプチャード)も日の目を見ることとなる。97年、ジョセフ・ウィリアムズのソロ・アルバム「3」にバックグラウンド・ボーカルで参加。1999年には、ソロ・アルバム「イクィリブリアム」を発表した。1997年頃からは、ステッペンウルフニック・セント・ニコラスマイケル・モナークサンタナアレックス・リガートウッドジャーニーエインズレー・ダンバーらとワールド・クラシック・ロッカーズの一員として参加、ライブ録音盤を複数製作、フレデリクセンにとっては安住の地のひとつとなっていた。メンバーの入れ替えが時々あり、2010年頃元ボストンのフラン・コスモが固定メンバーとなっていた。コスモが歌う時はバックグランド・ボーカルを務めていた。

2000年代に入ると、若い頃のような渡り鳥傾向は完全消滅、スタジオ録音作品はほとんど全てディナンダー・ファミリー/人脈上で作成される。レコーディングの安住の地である。レディオアクティヴの3作品「セレモニー・オブ・イノセンス」「Yeah」「テイクン」にリード・ボーカルを提供。2002年にはメッカのデビュー・アルバムに参加し、高い評価を受ける。2007年にはフレデリクセン/デナンダー名義で「バプティズム・バイ・ファイア」を発表。燃え尽きた男が完全復活を遂げる。他のディナンダー関連の作品では、フランスのギタリスト フレデリック・スラマのプロジェクトAORの作品「ナッシング・バット・ザ・ベスト」「ジャーニー・トゥー・L.A」に素晴らしいボーカルを提供する。ノルウェーの「ノーザンライト」、イタリアマイランドの「ノーマンズ・ランド」日本盤ボーナストラックでも1曲ずつ歌っている。 2012年6月には初代TOTOボーカリストのボビー・キンボール、元シカゴのビル・チャンプリン、元ジャーニーのスティーブ・オージェリーと東京・大阪・名古屋でVoice Of AORとして来日し、Isolationから4曲を披露し、ビル・チャンプリンとのデュエットでシカゴの「忘れ得ぬ君に」を歌唱した。

ノース・スター・ステート~死去[編集]

フレデリクセンは、前妻の故郷、北欧移民が多いミネソタ州ミネアポリス/セント・ポールツインシティーズ郊外ディープヘーブンに移住[7]、同州にガッチリと根を下ろしていた。地元のローカル・バンド ハートブレーカーと一緒に州内でライブを散発的に行っていた[8]。 2009年からは、地元のボクシングの英雄スコット・ルドックス筋萎縮性側索硬化症・慈善コンサートを、元サバイバーのジミ・ジェイミソンやリガートウッドとハートブレーカーをバックに開催していた。また、自身C型肝炎に感染していることを公表し、同疾病の啓蒙活動にも携わっていた。2010年6月に患者であることを公表した。2011年、ソロアルバム「ハピネス・イズ・ザ・ロード」、2013年 「エニー・ギヴン・モーメント」を発表。

2014年1月18日、同州マウンド市の自宅にて、癌により死去[9]

ディスコグラフィー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ linkedin.com  "Fergie Frederiksen owner at Der Rev Music Greater Minneapolis-St. Paul Area", Retrieved on April 24, 2010.ただし、トト在籍期間には虚偽記述が見られる
  2. ^ Endless Dreams Words  "1985年のインタビュー(ファンクラブ会報掲載分)", Retrieved on April 22, 2010.
  3. ^ Louisiana Music Hall of Fame "INDUCTEES-VIDEOS LeRoux #47 interviews Fergie-Jim-Leon-Rod 1982 ", Retrieved on April 25, 2010.
  4. ^ myspace Studio in the Country "Studio In The Country's Photos", Retrieved on April 28, 2010.
  5. ^ Dan Lucas The Official Homepage "Guests Fergie Frederiksen Backing Vocals on Ball of Fire ", Retrieved on April 23, 2010.
  6. ^ Tommy Denander Discography "Karo Heavy Birthday", Retrieved on April 23, 2010.
  7. ^ facebook Fergie Frederiksen "facebook Fergie Frederiksen", Retrieved on April 26, 2010.
  8. ^ Official Website for Heartbreaker "Official Website for Heartbreaker", Retrieved on April 26, 2010.
  9. ^ TOTOでも活躍したシンガーのファーギー・フレデリクセンが死去 amass 2014年1月19日

外部リンク[編集]

ウェブマスターはノルウェー人のクラウス・ヤコブセン

関連項目[編集]