ファトゥマ・ネスリシャー・スルタン

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ファトゥマ・ネスリシャフ・スルタン

ファトゥマ・ネスリシャー・スルタントルコ語:Fatma Neslişah Sultan, 1921年2月4日 イスタンブール - 2012年4月2日 イスタンブール)は、オスマン帝国の皇女。帝国末期の2人の君主、スルタン・ヴァフデッティン(メフメト6世)カリフ・アブデュルメジト(2世)の孫娘にあたる。トルコの市民名としてはネスリシャー・オスマンオウルNeslişah Osmanoğlu)を名乗った。

生涯[編集]

カリフ・アブデュルメジト2世の長男エメル・ファルークトルコ語版皇子と、スルタン・ヴァフデッティンの三女サビーハ・スルタントルコ語版皇女の間の第1子、長女として、ニシャンタシュ宮殿で生まれた。両親の間には他に2人の妹、ハンザデ・スルタントルコ語版ネジラ・スルタントルコ語版が生まれている。父の異母妹デュルリュシェフヴァル・スルタン英領インドニザーム藩王国の王太子妃であった。トルコ革命に伴う帝政崩壊により3歳で家族と共に亡命を余儀なくされ、南仏ニースで育った。

1940年、エジプト副王アッバース・ヒルミー2世の息子ムハンマド・アブデル・モネイム王子と結婚し、エジプト王室の一員となった[1][2]。アブデル・モネイムは1938年、又従弟のファールーク1世国王の許可を得てアルバニアゾグ1世の妹と婚約したが破談に終わっており[3]、ネスリシャー・スルタンを新たに妻に選んだのである。1952年のエジプト革命中、夫が幼王フアード2世摂政宮に就任すると[4]、ネスリシャーも摂政宮の夫人として王室のファーストレディ役を務めることになった。彼女は慈善事業などの公務をこなした他、ポロの競技大会やテニスの国際競技大会などスポーツ関係のイベントにも、王妃の代役として姿を現した[5]

夫の摂政時代は10か月ほどで終わり、1953年に王政廃止が決定されると、アブデル・モネイム夫妻は王族の地位を失った。1957年、夫妻はガマール・アブドゥル=ナーセル大統領の政権打倒を目論む陰謀に参加した容疑で逮捕された。夫妻はトルコ共和国大統領のエジプト政府に対する働きかけにより、釈放された。夫妻はエジプトを出国して欧州に渡るが、まもなくネスリシャーの生国トルコに移った。1979年に夫と死別した後も、娘と一緒にトルコに居住し続けた[5]。2012年、心筋梗塞により91歳で死去した。

子女[編集]

夫アブデル・モネイムとの間に1男1女をもうけた。

  • 長男:アッバース・ヒルミー(1941年 - )
  • 長女:イクバール・ヒルミー(1944年 - )

脚注[編集]

  1. ^ Montgomery-Massingberd 1980, p. 35
  2. ^ Montgomery-Massingberd 1980, p. 247
  3. ^ “TO WED KING ZOG'S SISTER; Prince Abdul Moneim Receives Egyptian Ruler's Permission”. The New York Times. (1938年7月12日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F30D13FD3B5C1B7A93C0A8178CD85F4C8385F9 
  4. ^ Rizk, Yunan Labib (27 January – 2 February 2005). “Royal help”. Al-Ahram Weekly (727). http://weekly.ahram.org.eg/2005/727/chrncls.htm 2008年8月2日閲覧。. 
  5. ^ a b Raafat, Samir (2005年3月). “Egypt's First Ladies”. Egy.com. 2010年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月27日閲覧。

参考文献[編集]

  • Montgomery-Massingberd, Hugh, ed (1980). Burke's Royal Families of the World. Volume II: Africa & the Middle East. London: Burke's Peerage. ISBN 978-0-85011-029-6. OCLC 18496936 

外部リンク[編集]