ピウス9世 (ローマ教皇)

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ピウス9世
ピウス9世

ピウス9世(Papa Pio IX, 1792年5月13日-1878年2月7日)はローマ教皇(在位:1846年6月16日-1878年2月7日)、カトリック教会司祭。本名、ジョバンニ・マリア・マスタイ・フェレッティ(Giovanni Maria Mastai-Ferretti)。31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持ち、イタリア独立運動の中で、古代以来の教皇領を失い、第1ヴァティカン公会議を召集し、『誤謬表』を発表して近代社会との決別を宣言。カトリック教会の福者ピオ9世と表記されることもある。

[編集] 生涯

18世紀の終わり、1792年イタリアのセニガリアで貴族の家に生まれたジョバンニ・フェレッティは神学校で学び、1819年叙階された。ローマチリで働き、スポレトの大司教に任命された後、1840年枢機卿に選ばれた。グレゴリウス16世の死去を受けて行われたコンクラーヴェは保守派と改革派の激しいせめぎあいとなったが、紆余曲折を経て選ばれたのは改革派とみられていたフェレッティであり、ピウス9世を名乗った。1700年以来最年少となる54歳での選出だった。

彼はまず教皇領において政治犯の恩赦を行った。背景にはイタリアの統一運動(リソルジメント)の高まりがあり、教皇領の住民たちの教皇の動向への注視があった。彼のもっとも有名な文書である『誤謬表』(シラブス)は1846年の回勅『クアンタ・クラ』に付属するかたちで発表された。これによって教皇庁と近代社会との断絶は決定的になった。

1848年に入るとイタリアをめぐる情勢はゆれ始める。教皇はイタリア北部をおさえていたオーストリア帝国を支持していたため、これに反感をもっていた民衆によって暴動が起こるようになる。11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れて密かにガエタへ逃れた。1849年にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇はフランスに援助を依頼したため、フランス軍がローマに進駐した。翌年教皇はローマに戻った。

1858年ナポレオン3世はイタリアのカヴールと同盟し、オーストリア軍を攻撃。オーストリア軍をイタリアから撤退させた。ここにいたってイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇領を要求。これを拒否されると武力で進駐し、1870年、フランス軍の撤退したローマまで押さえた。ここにいたって教皇は自らが「バチカンの囚人」であると宣言し、イタリア政府とバチカンは断交状態に陥った。

第1ヴァティカン公会議はこのような不安定な政情の中で行われ、普仏戦争の勃発によって予定会期のほとんどを消化しないまま閉会した。ここで採択された「教皇不可謬説」はその解釈をめぐって大きな波紋をうむことになる。

ピウス9世と日本は縁があり、1862年日本二十六聖人を列聖したのがピウス9世であり、1868年には長崎での信徒発見のニュースに対して喜びをあらわす書簡を発表している。

1878年2月7日、教皇が世を去ったとき、その在位期間は31年7ヶ月におよび、史実であきらかな教皇たちの中では最長の在位期間を記録していた。2000年9月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

先代:
グレゴリウス16世
ローマ教皇
第255代:1846年 - 1878年
次代:
レオ13世