ビーチング・アックス
ビーチング・アックス(英語: Beeching Axe、ビーチングの斧)は、1960年代にイギリス国鉄の運営費用を削減しようとしたイギリス政府の取り組みに対する非公式の名称である。ビーチングという名は「イギリス国鉄の再建」という報告書 (The Reshaping of British Railways) の主著者であるリチャード・ビーチング博士 (Dr. Richard Beeching) に由来している。この報告書では貨物輸送の新しい形態や幹線旅客輸送の近代化も提案されているが、輸送量が低く収益が少ない路線の無差別の廃止と、運行を継続するその他の路線においても各駅停車と小駅の廃止を提言したことで記憶されている。
この報告書は、道路輸送が拡大して旅客・貨物を鉄道から奪い始めたことにより、1950年代から大きな損失が発生し始めたことへの対策であった。1955年の鉄道近代化計画の導入にも関わらず、この損失はイギリス国鉄を悩ませ続けていた[1]。ビーチングは、大胆な措置をとることが、将来の損失拡大から鉄道を救う唯一の方策であると提案していた。
しかしながら政府は、報告書のうち、投資を必要とする部分よりも費用を削減する部分に、より熱心であった。報告後10年間に4,000 マイル(6,400 キロメートル)を超える路線と3,000を超える駅が廃止され、鉄道網の路線長の25%と駅の50%が削減された。今日に至るまで、鉄道ファンの団体や年配者、特に廃線に影響された地方の人々には、ビーチングの名前はいまだに鉄道の大規模な廃止や各駅停車の運行削減と同義語となっている。
目次 |
前史[編集]
ビーチング博士は鉄道の廃止とよく関連付けられているが、かなりの数の路線は1960年代以前に既に廃止されていた。
第二次世界大戦以前の廃止[編集]
19世紀に急速に成長したイギリスの鉄道網は、第一次世界大戦直前の時点で最高の路線長に到達した。1913年の時点で23,440 マイル(37,504 キロメートル)の鉄道があった[2]。
大戦後、鉄道はバスや自動車、航空機などの他の交通手段との競争に直面し始めた。これにより、少数の路線が1920年代から1930年代にかけて廃止された。これら初期の廃止の大半は短い郊外の路線で、より頻繁な運行をしていたバスや路面電車との競争に敗れたものであった。この例としては、1934年に旅客輸送を廃止したバーミンガムのハーボーン線 (Harborne Branch Line) がある。
また、それまでは、互いに競合する鉄道会社により、多くの路線が同じ区間に並走して建設されていた。1923年に鉄道会社が4大グループに再編成されると、こうした重複する路線の多くは余分なものとなって廃止された。1923年から1939年までの間に、合計1,264 マイル(2,022 キロメートル)の路線が旅客輸送を廃止した[2]。
第二次世界大戦の勃発により、鉄道は戦争の遂行に不可欠となり輸送量が増加したため、しばらくの小康状態を得た。イギリスの鉄道網が国有化された1948年の時点で、戦争中に保守や新規の投資がほとんど行われなかったため、鉄道はかなり疲弊した状態にあった。
イギリス国鉄初期の廃止[編集]
1950年代初期には鉄道の廃止が再開された。イギリス運輸委員会 (BTC: British Transport Commission) は1949年に、利用の少ない支線を廃止する権限を持った「支線委員会」 (Branch Lines Committee) を設置した。多くの小さなあまり利用されていない路線はこの時期に廃止された。しかしながら、1959年に廃止されたイースト・アングリアのミッドランド・アンド・グレート・ノーザン・ジョイント鉄道 (Midland and Great Northern Joint Railway) のように国土を横断する亜幹線の中にも廃止されたものがあった。1948年から1962年までの間に合計3,318 マイル(5,309 キロメートル)の鉄道が廃止された[2]。
この時期には、鉄道開発協会 (Railway Development Association) の主導による廃止反対運動が見られるようになった。鉄道開発協会のもっとも有名な参加者としては詩人のジョン・ベチェマン (John Betjeman) がいる[3]。
ビーチング・アックスに至る経緯[編集]
1950年代初期には経済が回復し、燃料の配給制度が終わって、より多くの人が自動車を買えるようになり道路による貨物輸送も可能になったので、戦前と同様に、鉄道との競合が再開された。鉄道はこの状況に適応しようと苦闘した。イギリスの鉄道は他の国に遅れを取っていた。他の国に追いつくために、イギリス運輸委員会は1955年に近代化計画を発表し、鉄道網の近代化に12億4000万ポンド以上を費やして、蒸気機関車をディーゼル機関車や電気機関車に置き換えることを提案した。この計画では、旅客と貨物を再び取り戻して、1962年までに黒字を回復することになっていた[4]。近代化計画の多くは承認された。
鉄道の輸送量は、1950年代にはほぼ安定していたが[5]、収支は着実に悪化していった。これは主に、収入の増加よりも上回るペースで労働コストなどの支出が増加したためである[3][5]。旅客・貨物運賃は、インフレを制御し、また有権者の歓心を買うために、政府により繰り返し値上げが凍結された[3]。
結果として1955年までに収入は運営コストをもはやカバーできなくなり、状況は着実に悪化していった。近代化に費やされた多くの資金は借入に頼り、多くが浪費されていった。1960年代初期には鉄道は財務的な危機に陥っていた。営業損失は1960年には6800万ポンド、1961年には8700万ポンド、1962年には1億400万ポンドに達し、これは2005年の価値に換算すると10億ポンドに相当する[6]。イギリス運輸委員会はもはや借入金に対する利子を支払うことができなくなり、これがさらに財務的な問題を悪化させた。政府は耐え切れなくなって根本的な解決策を模索し始めた。
1960年代初期の時代の雰囲気に同調して、保守党のハロルド・マクミラン政権の運輸大臣は、道路建設会社の社長であるアーネスト・マープルズ (Ernest Marples) であった。在任中は利益相反を回避するために彼の所有する株の3分の2は妻に譲渡されていた[7][8]。マープルズは、交通の未来は道路にあり、鉄道はヴィクトリア朝の遺物であると考えていた。
議長のイヴァン・スティードフォード (Ivan Stedeford) にちなむスティードフォード委員会という名称で知られる諮問委員会が、イギリスの交通の状況について報告し助言を行うために設立された。この委員会には、当時インペリアル・ケミカル・インダストリーズの技術担当重役であったリチャード・ビーチングも参加していた。ビーチングは後の1961年に新設されたイギリス鉄道委員会 (British Railways Board) の議長に指名された。スティードフォードとビーチングは、ビーチングの鉄道網を切り詰めるという提案について対立した。議会での質疑に関わらず、スティードフォードの報告は出版されず、ビーチング計画として知られることになる鉄道網の将来に関する提案が政府に採用され、鉄道網の3分の1を廃止し100万両に及ぶ貨車の3分の1を廃車することになった。
ビーチングは、鉄道は営利事業であるべきで公共サービスではなく、地方の支線のように収支が合わない部門は廃止されるべきとした。彼の論理では、廃線により、鉄道網の残った部分は収益性を回復する事を見込んでいた。
ビーチング第1段階[編集]
ビーチングがイギリス国鉄の議長であった時、彼はすべての鉄道路線の交通流動に関する検討を開始した。
この検討は復活祭の2週間後、1962年4月23日の週に行われ、鉄道網の総合計距離の30パーセントは全旅客・貨物の1パーセントしか輸送しておらず、また全体の半分の駅は収入の2パーセントしか生み出していないと結論づけた[3]。
1963年3月27日の報告書「イギリス国鉄の再建」(The Reshaping of British Railways)[9] またはビーチング第1報告は、イギリスの18,000 マイル(29,000 キロメートル)に及ぶ鉄道のうち、主に地方の支線や国土横断線について6,000 マイル(9,700 キロメートル)を廃止すべきと提案していた。さらに、他の多くの鉄道路線も貨物専用とされ、存続する路線でも多くのあまり利用されない駅については閉鎖されるべきとした。この報告は政府に受け入れられた。
当時、この議論を呼ぶ報告はビーチングの爆弾 (Beeching Bombshell) やビーチングの斧 (Beeching Axe) とマスメディアに呼ばれた。鉄道を失うことになる地域からは抗議が寄せられた。その多くの場合は、特に地方部では、代替する公共交通手段が無かった。
政府は、輸送はバスでより安く代替可能で、廃止された鉄道の代わりにバスを運行すると約束した。
報告書の重要な部分として、イギリスの鉄道は主要幹線を電化すべきで、また時代遅れで不経済な車扱貨物輸送の代わりにコンテナ化された貨物輸送を採用すべきと提案していた。この中には、フレートライナーの開設やウェスト・コースト本線のクルー (Crewe) からグラスゴーまでの1974年の電化延伸のように、結果的に採用されたものもあった。さらに職員の勤務条件は次第に改善された。
年ごとの廃止路線[編集]
1950年の時点で、イギリス国鉄には約21,000 マイル(33,800 キロメートル)の路線と約6,000の駅があった。1975年には鉄道網は12,000 マイル(19,300 キロメートル)の路線と2,000 の駅に縮小した。それ以降はおおむね同じ規模を保っている。
不採算路線の廃止は、20世紀を通じて進められた。1950年代には、イギリス国鉄の支線委員会が大きな反対の見込まれない重複した路線を廃止候補としたため、その数は増加した。国有化からビーチング報告の発表までの間に、およそ3,000 マイル(4,800 キロメートル)の路線が既に廃止されていた[10]。しかし、報告の発表後、廃止は顕著に加速した。
| 年 | 廃止路線長 |
|---|---|
| 1950年 | 150マイル (240 km) |
| 1951年 | 275マイル (443 km) |
| 1952年 | 300マイル (480 km) |
| 1953年 | 275マイル (443 km) |
| 1954年から1957年 | 500マイル (800 km) |
| 1958年 | 150マイル (240 km) |
| 1959年 | 350マイル (560 km) |
| 1960年 | 175マイル (282 km) |
| 1961年 | 150マイル (240 km) |
| 1962年 | 780マイル (1,260 km) |
| ビーチング報告発表 | |
| 1963年 | 324マイル (521 km) |
| 1964年 | 1,058マイル (1,703 km) |
| 1965年 | 600マイル (970 km) |
| 1966年 | 750マイル (1,210 km) |
| 1967年 | 300マイル (480 km) |
| 1968年 | 400マイル (640 km) |
| 1969年 | 250マイル (400 km) |
| 1970年 | 275マイル (443 km) |
| 1971年 | 23マイル (37 km) |
| 1972年 | 50マイル (80 km) |
| 1973年 | 35マイル (56 km) |
| 1974年 | 0 マイル (0 km) |
実行されなかった廃止提案[編集]
全ての廃止提案が実行されたわけではない。多くの路線が政治的な理由から存続した。例えば、スコットランドのハイランド地方を通る路線、ファー・ノース線 (Far North Line) やウェスト・ハイランド線 (West Highland Line) などは廃止候補に選定されながら、強力なハイランド地方のロビーの圧力も理由の1つとなって存続した[2]。ハート・オブ・ウェールズ線 (Heart of Wales Line) は、多くの与野党が伯仲する選挙区を通っており、あえてそれを廃止しようとする勇気は誰にもなかったために存続したといわれている[2][3]。
これに加えて、コーンウォールのタマー・バレー線 (Tamar Valley Line) のような路線は、並行道路が未整備であるために存続した。
廃止候補とされていなかったのに最終的に廃止された路線もある。マンチェスターとシェフィールドを結ぶウッドヘッド線 (Woodhead Line) は、依存していた貨物輸送が衰退してしまったために1981年に廃止された。
ビーチング第2段階[編集]
1964年、ビーチング博士は2番目のあまり知られていない報告、最初の報告書よりさらに踏み込んだ「主要幹線ルートの開発」(The Development of the Major Railway Trunk Routes)[11] 、あるいはビーチング第2報告書と呼ばれる報告書を発表した。報告書では、大規模な投資を続行する価値があると考えられる路線を選定した。
この報告では、都市間ルートや都市近郊の重要な通勤路線以外の路線を、すべて廃止すべきとしていた。右の地図はこの報告が実行された場合の結果を示しており、鉄道網は7,000 マイル(11,260 キロメートル)に削減され、イギリスには骸骨のような路線網しか残らないことになる。国土のうちのある部分、ウェールズの大半、北部スコットランド、ヨークシャー、イースト・アングリア、南西イングランドにはほとんど鉄道が残らないことになった。
ビーチング第2報告で提案された主要な廃止路線[編集]
- イースト・コースト本線のニューカッスル以北
- ノース・ウェールズ・コースト線のチェスター - ホーリーヘッド間
- ウェスト・ウェールズ線 (West Wales Line)
- セトル-カーライル線 (Settle-Carlisle Line)
- カンブリアン・コースト線 (Cumbrian Coast Line)
- ウェスト・オブ・イングランド本線 (West of England Main Line) のレディング - トーントン (Taunton)間
- コーニッシュ本線 (Cornish Main Line) のプリマス以西
- グレート・イースタン本線以外のイースト・アングリアの全ての路線
- パース、ダンディー、アバディーン以北およびウェスト・コースト本線以西のスコットランドの全ての路線
この報告は行きすぎとみなされ、労働党政権によって却下された。ビーチング博士は1965年に辞任した。路線の廃止に責任があるのは政治家であるにも関わらず、ビーチング博士の名前は路線廃止と同義語となった。
政策の変化[編集]
労働党のハロルド・ウィルソンが政権を取ったのは1964年のことであった。選挙期間中、労働党は政権を取ったら鉄道の廃止を中止すると公約していた。しかしながら政権に就くと、労働党はすぐにこの公約を撤回して、1960年代末まで前任者の時代よりさらに速いペースで廃止は続行された。
1965年、バーバラ・キャッスル (Barbara Castle) が運輸大臣に指名された。彼女は予測できる未来に少なくとも11,000 マイル(17,700 キロメートル)の路線が必要であると決定し、鉄道網はこの規模で安定すべきとした。
1960年代末に向けて、鉄道の廃線は、当初期待していた支出削減や鉄道網の収支欠損の改善という結果につながらず、今後もそれが見込めないことが一層明白になってきた[2]。キャッスルはまた、その収支を償うことはできないが社会的に価値のある役割を果たしている路線については、政府が補助すべきであると規定した。しかしながら、これを可能にする規定が1968年交通法(Transport Act 1968、第39章に3年間の補助金支給条項がある)に盛り込まれた時点で、この補助金の支給を受けたであろう多くの路線が既に廃止・撤去されており、この規定の効果を薄れさせた。そうではあるが、この規定により多くの支線が救われた。
概観[編集]
鉄道路線の廃止は、支出を削減して収益性を回復させるという大きな目的を果たすことができなかった。鉄道網のほぼ3分の1を廃止して、ビーチングはほぼ3000万ポンドの支出削減を得たものの、1億ポンドを超える総損失が続いていた[3]。こうした損失は、支線が幹線に対するフィーダーとして機能していて、支線が廃止された時にこうしたフィーダー交通も失われてしまったことが大きな原因である。これは結果として幹線をますます脆弱にし、輸送量と収入を減らすことを意味した。当初の予想では、自動車の所有者は廃止された支線がかつて接続していた幹線の最寄駅まで運転し、そこから列車に乗るだろうと考えられていたが、実際は自宅から最終目的地まで直接、自動車で行くようになった。同じ問題が貨物輸送にも起き、支線を廃止したことにより鉄道網は貨物を戸口から戸口へ輸送する能力をかなり失ってしまった。旅客の場合と同じように、トラックが貨物を集めて最寄の駅まで運び、貨物列車で長距離を輸送し、再びトラックに積み替えられて目的地へ運ぶモデルが想定されていた。しかしながら、高速道路網の発展とコンテナ化の進展、そして2箇所で貨物の積み替えを必要とすることによる純然たる経済コストの問題などにより、長距離の道路輸送は鉄道を代替できるようになった。
ビーチング計画が支出削減を達成できなかったもう1つの理由としては、廃止された路線の多くはわずかな損失で運行されていたということがある。例えばサンダーランドからウェスト・ハートルプール (West Hartlepool) までの路線は1マイルあたりわずか291ポンドで運行されており[2]、こうした路線を廃止しても全体の損失にはわずかな変化しかもたらさなかった。皮肉なことに、利用の非常に多い通勤路線が最大の損失を出していたが、ビーチングでさえこうした路線を廃止することは政治的にも現実的にも大問題であるということは分かっていた[2][3]。
報告書が発表された時点で既にいくつかの支線で用いられていた、軽便鉄道の発想を用いることは、ビーチングには無視された。その後イギリス国鉄やその後継者は、ビーチング・アックスで廃止されずに存続した利用の少ない路線、例えば基礎鉄道として存続したイプスウィッチからローストフト (Lowestoft) までの路線などでこの概念を適用して成功を収めている。実際のところビーチング報告では、運営費や勤務体制などの一般的な経済性にはほとんど触れていなかった。例えば、マンスフィールド線にある駅のように、廃止された駅の多くは1日18時間駅員が配置されており、1日中係員が配置されている複数の古臭い信号扱所で制御された路線を、ビーチングも指摘したように、新しい気動車よりずっと費用の掛かる蒸気機関車による列車が運行されていた[3]。
振り返ってみれば、存続していれば今はもっと多くの利用が想定され、重要な幹線になってさえいたかもしれない路線があるという点で、ビーチングの廃止路線の中には短期的視野に過ぎたと見られるものがある。セトル-カーライル線は廃止の危機にさらされていたが存続し、今では旅客・貨物の両面で史上最高の交通量を捌いている。2007年に開通したCTRL以前で、イギリスで最後に建設された幹線ルートであるグレート・セントラル本線 (Great Central Main Line) は、当時提案されていた英仏海峡トンネルとイングランド北部を結ぶルートとなることが意図されていた。イギリスの一般的な車両限界よりも広いヨーロッパ大陸の車両限界を採用し、また現代の高速鉄道と同じ、踏切がなくカーブや勾配を極力小さく抑えた規格で建設されていた。路線は1966年から1969年までの段階で、建設から60年で廃止され、その28年後英仏海峡トンネルが開通した。英仏海峡トンネルとCTRLの開業後、北部イングランドとトンネルを結ぶ高速鉄道が議論されている。グレート・セントラル本線の多くの区間は既に跡形もなくなっている。
バス代行の失敗[編集]
鉄道をバスで代行するという政策もまた失敗した。多くの場合で、バス代行は代行される鉄道よりもはるかに遅く不便で、人々から大変不評であった[3]。さらに、多くの代行バスは単に廃止された駅を結んで走っているだけで、そうした駅の中には利用が想定される集落から離れた場所に存在するものもあった。このため、代行バスのほとんどは数年間運行されただけで利用客の少なさを理由として廃止され、結果として国土の広い部分が事実上何の公共交通手段もない状態に置かれることになった。
ビーチングによる最終的な廃止[編集]
鉄道廃止後に自動車への依存が増えて、渋滞と大気汚染の損失増大が鉄道の廃止によるわずかな支出削減効果を上回り、鉄道の廃止が有効でないことが明らかになったことと、廃止が世論に支持されなかったことにより、1970年代初期には廃止は終結した。1973年のオイルショックが、完全に石油に依存する道路交通にのみ頼ることの問題を浮き彫りにしたことで、大規模な鉄道の廃止は完全に終結することになった。
ビーチング・アックスによる最後の主要路線の廃止で、おそらくもっとも議論を呼んだものでもあるのが、1969年に廃止されたカーライル - ホーイック (Hawick) - エディンバラを結ぶ98 マイル(158 キロメートル)のウェーブリー線 (Waverley Line) である。スコットランド議会の承認を受けて2006年からこの路線の主要な部分を再建する計画が進められている。わずかな例外を除いて、1970年代初頭から路線を廃止する提案は人々から強い反対にあって計画は棚上げされた。こうした反対は、1960年代半ばから後半にかけての多くの路線が廃止された経験に起因していた。今日、イギリスの鉄道は世界中のほとんど全ての鉄道網と同様に、赤字で運行されていて補助金を必要としている。
構造物の撤去と土地の処分[編集]
路線の再開には、環境面で利点があることは言うまでもないことに加え、過去40年間で、これらの廃止路線の沿線地域の多くは発展してきている。1963年の時点で旅客数が減少し、当時は渋滞の少なかった道路で自動車の利用が増加して利益が出ていなかった路線でも、現在でなら利益を出すことができるものがあり、また少なくとも渋滞と大気汚染を減らし、存続している鉄道路線の混雑を緩和するという望ましい効果があって、政府からの補助金を投入してでも運行する価値のある路線もある。しかしながら多くの場合、ビーチング・アックスによって廃止された路線を再開することは法外な費用が掛かる。報告書で規定されていたことではないが、ビーチング以来鉄道事業に余剰の土地の処分に関する方針があった。このため、多くの橋や切通し、築堤が撤去されて開発用に土地は売却された。存続した路線にある廃止駅の建物は解体されるか売却された。アメリカのレールバンクの枠組みと似た方式で将来の再使用に備えて廃止路線の線路敷きを保存しておかずに、土地を完全に処分してしまうビーチング以来の方針には、かなりの批判がある。さらに、収入を全く生まないのに保守をし続けなければならない多くの残存構造物があり、路線を廃止しても削減できなかった支出となっている。
サーペル報告[編集]
1980年代初頭、マーガレット・サッチャー政権下で、再びビーチングのように多くの廃止の可能性がでてきた。1983年、ビーチング博士と共に働いていた公務員であるデービッド・サーペル (David Serpell) が、より多くの鉄道の廃止を提案したサーペル報告 (Serpell Report)[12] として知られることになる報告書をまとめた。この報告書には、発電所に運ぶ石炭の輸送量が多いミッドランド本線 (Midland Main Line) の廃止や、その通過している地域のために政治的に受け入れられないグレート・セントラル線のバス転換、バーウィック・アポン・ツウィード (Berwick-upon-Tweed) からエジンバラまでのイースト・コースト本線の廃止など、重大な問題点があることが示された。多くの方面から強烈な反対を受け、信用性を失って、この報告書はすぐに放棄された。
線路の合理化[編集]
あまり明白ではないビーチングによる廃止の1例として、かつて複線であった区間の単線化がある。かつては4つの路線のジャンクションで重要な鉄道の町であったが、グレート・セントラル鉄道の廃止以来1本のプラットホームがあるだけになっていたプリンセス・リスバラ (Princes Risborough) からビスター (Bicester) までの区間は単線化されたが、後にチルターン・レイルウェイズにより21世紀初頭に再度複線化された。単線化された路線としては他にインヴァネスからディングウォール (Dingwall) の区間があるが、この区間は今ではファー・ノース線のインヴァネスからサーソーやウィック (Wick) までの列車本数を増加させる上で大きな障害となっている。ウェスト・オブ・イングランド本線は、かつてはロンドンから南西方面への急行ルートであったが、国土全体の観点からはグレート・ウェスタン本線 (Great Western Main Line) と重複しているとみなされたため、単線化されて実質的に2次的な国土横断路線へ格下げされた。
単線化は問題を引き起こした。チェルトナムからスウィンドンまでのゴールデン・バレー線 (Golden Valley Line) や、オックスフォードからウスターまでのコッツウォルド線 (Cotswold Line) の輸送量は、再度の複線化が検討される水準まで増加した。コッツウォルド線では、今では1960年代に単線化された当時の2倍の列車を運行しようとしている。これに加え、単線区間では対向列車の通過待ちをしなければならないために遅延が波及して、定時性が悪化している。そして、対向列車や追い抜き列車を待つ時間が加算されるために所要時間が長くなった。ロンドンからウスターまでの所要時間は以前よりかなり長い。
路線の再開[編集]
1960年代のビーチングによる鉄道廃止以来、道路の交通量はかなり増加して、地域によっては交通マヒに近い状態になっている。これに加えて、近年鉄道の旅客は記録的なレベルになっている。このためいくつかの廃止路線が復活している。
これに加えてかなりの数の廃止駅が再開され、また旅客輸送が廃止されていた路線でも再開されている。こうした例の多くは旅客交通委員会 (Passenger transport executive) が地域の旅客鉄道輸送を促進する役割をしている都市部にある。
ロンドン[編集]
今では廃止されたグレーター・ロンドン・カウンシルによって行われた検討の後、ファリンドン駅の南のスノー・ヒルトンネル (Snow Hill tunnel) では1986年に旅客輸送が再開され、セント・パンクラス駅からのミッドランド本線と、かつてのサザン鉄道をロンドン・ブリッジ駅経由で連絡できるようになった。テムズリンクと名付けられたこの路線は、今ではロンドンの南北を結ぶ鉄道路線となり、ベドフォード (Bedford) からブライトンを連絡して、成功を収めている。その廃止はビーチングによるものではなかったが、この成功はビーチングの手法と反対に、鉄道を拡張することの可能性を示した。イーストロンドン線は、かつてブロード・ストリート駅 (Broad Street railway station) へ通じていた区間を再開しようとしている。
南部[編集]
ビーチング・アックスによるものではないが1967年に廃止されたバーシティー線 (Varsity Line) の一部と、オックスフォード-ビスター線 (Oxford to Bicester Line) は、イギリス国鉄の部門であるネットワーク・サウスイースト (Network SouthEast) により1987年に再開された。バーシティー線の西側の区間の完全な再開は2028年に行われる見込みである。プリンセス・リスバラからアインホー・ジャンクション (Aynho Junction) までのチルターン本線 (Chiltern Main Line) は1998年に再度複線化された。ハンプシャーのチャンドラーズ・フォード (Chandler's Ford) は、ビーチング・アックスにより1969年に廃止された駅を2003年に新しく開設した。ロンドン-エールズベリー線 (London to Aylesbury Line) は、かつてのグレート・セントラル本線に沿って北へ全く新しいエールズベリー・ベール・パークウェイ駅 (Aylesbury Vale Parkway railway station) まで延長されることになっており、2008年12月に開業する計画である。かつて貨物専用となったイーストリー (Eastleigh) からチャンドラーズ・フォードまでの路線は旅客輸送が再開された。
イースト・ミッドランズ[編集]
注目すべき再開としては、ノッティンガムシャーのノッティンガムからマンスフィールド (Mansfield) を経由してワークソプ (Worksop) までのロビン・フッド線 (Robin Hood Line) で、1990年代初頭に再開した。かつてマンスフィールドはイギリスで鉄道がない最大の町であった。
ウェスト・ミッドランズ[編集]
ウェスト・ミッドランズでは、従来のスノーヒル駅を置き換える新しいバーミンガム・スノーヒル駅が1987年に開業した。スノーヒル駅へ通じるバーミンガム市外の下を通るトンネルも、キッダーミンスター (Kidderminster) やウスターまでの路線と共に再開された。これによりロンドンのメリルボーン駅に発着するバーミンガムとロンドンを結ぶ新しいサービスも始まった。スノーヒルからウルヴァーハンプトンへのかつての路線はミッドランド・メトロの路線として再開した。コヴェントリー-ナニートン線 (Coventry-Nuneaton Line) の旅客営業は1988年に再開された。ライトレールや都市鉄道として成功裏に多くの路線が再開されているにもかかわらず、このコンセプトは未だに多くの地方政府の一定しない評価により危機にさらされている。ウォルソールからヘンズフォード (Hednesford) の路線は1989年に旅客営業を再開し、1997年にルージリー (Rugeley) まで延長された。
サウス・ウェールズ[編集]
ビーチングはサウス・ウェールズを衰退しつつある工業地域とみなした。この結果、この地域は鉄道網のほとんどを失った。1983年からこの地域では鉄道が復権し、ランハラン駅 (Llanharan railway station) のように32の新駅が開設され、20 マイル(32 キロメートル)以内の4路線が再開された。アバーシノン (Abercynon) - アバーデラ (Aberdare)、バリー (Barry) - ブリッジェンド (Bridgend)、ブリッジェンド - マエステグ (Maesteg) とエブ・バレー線 (Ebbw Valley Line) である。
スコットランド[編集]
スコットランドでは、1985年に再開されたエジンバラ - バスゲート線 (Bathgate) が、サッチャー政府によって導入された、路線を試験的に再開して利用が定着した場合にのみ運行を継続するという新しい政策の最初の成功例となった。計画では現在、バスゲートからドラムゲロッチ (Drumgelloch railway station) までの15 マイルの区間の再開に着手しており、これによりグラスゴーからエジンバラまでバスゲートを経由するルートが完全に再開されることになる。さらに近年、アーガイル線 (Argyle Line) の4 マイル(6.4 キロメートル)の支線が2005年12月に再開されて、カーテルロー (Chatelherault railway station)、メリートン (Merryton railway station)、ラークホール (Larkhall railway station) などに1968年以来の鉄道の便が復活した。スターリング-アロア-キンカーディン線 (Stirling-Alloa-Kincardine rail link) は2008年5月19日に再開されて、旅客・貨物と共に40年ぶりに運行された。ウェーブリー線のエジンバラとガラシールズ (Galashiels) の間の35 マイル(56 キロメートル)の区間は2013年に再開する計画で投資が承認された。1969年の路線の廃止によりスコティッシュ・ボーダーズには鉄道路線がなくなった。2007年にはイースト・ファイフ・コースト線をリーブン (Leven) からセント・アンドルーズ(St Andrews) まで開通させる運動が始まった。
保存鉄道[編集]
何本かの路線は保存鉄道として再開業した。
脚注[編集]
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- ^ The Railways Archive :: The Reshaping of British Railways - Part 1: Report
- ^ Daniels, G. & Dench, L.A. (1975). Passengers No More. Shepperton: Ian Allan. ISBN 0-7110-0438-2
- ^ The Railways Archive :: The Development Of The Major Railway Trunk Routes
- ^ The Railways Archive :: Railway Finances - Report of a Committee chaired by Sir David Serpell KCB CMG OBE
参考文献[編集]
- Freeman Allen, G. (1966). British Railways after Beeching. Shepperton: Ian Allan. (No ISBN)
- Gourvish, T. R. (1974). British Rail 1948 - 1973: A Business History. Cambridge.
- Henshaw, David 1994). The Great Railway Conspiracy. ISBN 0-948135-48-4.
- White, H. P. (1986). Forgotten Railways. ISBN 0-946537-13-5.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Colour film of one of the closed "branch" lines in operation
- Website about Beeching cuts in more detail
- Railway maps before and after cuts
- Extensive before and after photo collection of closed stations, with commentaries
- History of the closed Guildford to Horsham branch line
- download the Beeching Report Part 1
- download the Beeching Report Part 2 (maps)