ビン越

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本来の表記は「閩越」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。

戦国時代によって滅ぼされた越人がこの地に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前333年から紀元前110年頃とされる。特に紀元前202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった。閩越王無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。

成立の背景[編集]

春秋時代後期から戦国時代紀元前475年 - 紀元前221年)前期にかけて、勾践により復興され、現在の浙江省紹興市一帯に存在したであるが、紀元前334年勾践7世の孫無彊との戦いに敗れて殺害され、ここに越は滅亡した。越の王族は海路に入り、越の国人も遷山(現在の福建省長楽市)に至った。このようにして越人が福建北部に定住し、当地の原住民である百越族と融合、やがて閩越を建国することとなった。

閩中郡の設置[編集]

紀元前221年が中国を統一すると、福建に対して派兵し、翌年には閩越人の活動地域に閩中郡を設置した。当時の秦朝は閩中は中原から遠く離れた荒服の地と認識し、また治地勢も険しく、越人も強悍であり統治は困難との認識を有していた。そのため新の40郡の一つとして閩中郡を設置したが、その統治方法は他の郡とは異なったものであった。秦末に守尉令長を派遣したが、閩越王の王位を除き「君長」の名義を与え、従来どおりの統治を行わせるに留まり、実質的な統治力が及ぶものではなかった。

しかし閩越への影響力を強めたい秦は、越人を大量に現在の浙江省北部や安徽省江西省へと移民させ、また中原の犯罪者を中心に移民を進め、その融合を図った。

紀元前209年陳勝・呉広の乱が発生すると、それまで秦の影響力を有していた各地に影響を与えた。閩越王の無諸は兵を率いて閩中より北上し、中原の農民叛乱に加勢、秦朝に打撃を与えている。紀元前206年に秦が滅亡して楚漢戦争が始まると、無諸は再度中原に北上し、劉邦を支援して項羽を撃破、漢朝の創建に貢献している。紀元前202年、漢朝は無諸の支援に感謝して閩越王に封じ、閩中の統治を認めた。無諸は仙游一帯をその影響下に置いた。またこの年、無諸は閩越王城の再建に着手している。

閩越王城は面積約48万平方メートル、4つの城門を有していた。東西城門間には丸石で舗装された10メートル幅の大通りが整備され、通りの北側には2万平方メートルの宮殿区が設けられた。当時の閩越は東南一帯の最大勢力であり、王城も現地最大の都市であったと考えられている。1世紀に及ぶ発展の中、閩越人は百越文化の風俗習慣、宗教、文化、芸術等を維持し、政事経済面では華夏文化の影響を受け、燦爛たる閩越文化を創造していた。

無諸の死後、その子孫の間で内訌が発生し、しばしば内戦に及んだ。そうした中でも北方の東甌、南方の南越を攻略し、百越諸民の服従のみならず周辺諸国の朝貢をも実現し、前漢南方の一大勢力となっていた。

東越王余善の時期には「武帝」の玉璽を刻印し、皇帝として自立、反漢の兵を挙げた。この時期の漢朝は武帝の治世下で国力が充実していた時期であり、地方勢力の強大化に反対していた時期である。武帝は匈奴を攻略して北方を安定させた後、数十万の兵を閩越に派兵した。同時に漢朝は閩越に対して政治工作を行い、一部勢力を漢朝に帰順させることに成功している。事前準備を整えた武帝は紀元前110年、大軍をもって閩越を江淮の内地へ遷すことを命じ、閩越は滅亡した。

関連項目[編集]