ビル・エヴァンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビル・エヴァンス(Bill Evans, 本名:William John Evans(ウィリアム・ジョン・エヴァンス), 1929年8月16日 - 1980年9月15日)は、ジャズのピアニスト。 米国・ニュージャージー州出身。
ドビュッシー、ラベルなどのクラシックに影響を受けた印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美なピアノ・タッチ、いち早く取り入れたインター・プレイ、といった演奏は、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなど多くのピアニストたちに多大な影響を与えたほか、ジョン・マクラフリンといった他楽器のプレイヤーにも影響を与えている。
エヴァンスのアルバムには駄作が一枚も無いと評されることもあるほど、質の高い録音が多い。中でもベースのスコット・ラファロと録音した諸作品(特にアルバム「ワルツ・フォー・デビー」)は、ジャズを代表する傑作としてジャズファン以外にも幅広い人気を得ている。
目次 |
[編集] バイオグラフィ
[編集] 1950年代
彼の父は、兄のハリーと同様に、幼い頃からエヴァンスに音楽を学ばせている。1950年代のニューヨークでの活動では、伝統的なジャズ・前衛的なジャズのいずれにおいても優秀なピアニストとして知られるようになった。この時代には、サイドマンとしての活動が主であり、リディアン・クロマティック・コンセプトで知られる理論家・作曲家ジョージ・ラッセルの録音に参加している。ジョージ・ラッセルからの影響は、作曲に現れていると言われる。1956年には、最初のリーダーアルバム「New Jazz Conceptions」を残している。
1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに短期間加わり、録音とツアーを行っているが、バンドで唯一の白人であること、ドラッグを常習する他のメンバーとの摩擦、そして彼自身がリーダーとしての活動を望んだために、バンドを離れる。しかしデイヴィスの要望で、ジャズ史に大きな影響を与えた1959年の「カインド・オブ・ブルー」のセッションに参加している。ハード・バップ的な頻繁なコードチェンジではなく、モードに根ざしたアドリブをこのアルバムで目指していたマイルスは、エヴァンスのアイディアが必要だった。このアルバムに、エヴァンスは自作「Blue in Green」を提供している(ただし、クレジットはマイルス作曲となっている.エヴァンスのポートレート・イン・ジャズでの同曲のクレジットはDAVIS-EVANS。)。 また「Flamenco Sketches」が「Everybody Digs Bill Evans」収録の「Peace Piece」と発展させたものと伺えるなど、「カインド・オブ・ブルー」にはビル・エヴァンスの色彩が濃い。
[編集] 1960年代
1960年代始めに、エヴァンスはドラマーのポール・モチアンとベーシストのスコット・ラファロをメンバーに迎え、歴史に残るピアノトリオ(ファーストトリオ)を結成する。このトリオは、スタンダードナンバーの独創的な解釈もさることながら、即興性に富んだメンバー間のインター・プレイが高く評価され、ピアノトリオの新しい方向性を世に示した。
従来までは、永くピアノ・ベース・ドラムス・ギターなどの楽器奏者は、ホーン奏者のための「リズムセクション(伴奏者)」と呼ばれ、リズムを刻む「道具」に過ぎず、後に多数組まれるようになったいわゆる「ピアノ・トリオ」においても、主役はあくまでピアノでありベースやドラムスはあくまでリズムセクションの範疇として処遇されていた。
しかし、ビル・エヴァンス・トリオにおいては、この旧来の慣習を打ち破り、テーマのコード進行をピアノ・ベース・ドラムスの3者が各自の独創的なインプロビゼーションを展開して干渉し合い、独特な演奏空間を演出した。特筆すべきはベースのスコット・ラファロで、積極的にハイノート(高音域)で対位旋律を弾き、旧来のリズムセクションの枠にとどまらない新しいベースの演奏スタイルを形成した。また、ポール・モチアンも単にリズムを刻むにとどまらずエヴァンスのインプロビゼーションに挑みかかるようなブラシ・ワークやシンバル・ワークを見せるなど、このトリオで収録した「ポートレイト・イン・ジャズ」・「エクスプロレイションズ」・「ワルツ・フォー・デビイ」および同日収録の「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の4作は、「リバーサイド四部作」としてファンの間では特に高い評価を得ている。ただしよく聞くと、ヴァンガード・ライヴにおいて、明らかにラファロが小節の数え間違えをしており、また起承転結の結をうまく付けられず戸惑っている部分がある。
しかし、「ワルツ・フォー・デビイ」および「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の収録からわずか11日後、1961年7月6日に25歳の若さでラファロを交通事故で失うこととなり、しばらくレギュラートリオ活動は停止することとなった。
このレギュラートリオ活動停止中の演奏活動としては、他セッションへの参加のほか、ピアノソロを録音するものの、没後「The Solo Sessions vol.1」「vol.2」として一部発表されているものを除いては、総じてお蔵入りとなっている。翌年にはベースにチャック・イスラエル(英語発音:イズリールズ)を迎えて活動を再開するが、スコット・ラファロと共演していた頃のような緊密なインタープレイは、その後退を余儀なくされた。しかしチャック・イスラエルはもともとラファロの影響を非常に大きく受けたベーシストであり、ヴォイシングこそ地味ながらも、エヴァンスの気まぐれのようなソロ渡しや空間創出に対し、メロディアスなソロで応えており、インタープレイがしっかりと行われている。この点は、テンションの高い名盤である「トリオ’65」でよくわかる。この時期の収録作として「ムーンビームス」「ハウ・マイ・ハート・シングス」(1962年)などが挙げられる。
1966年にエヴァンスは、 当時21歳のエディ・ゴメスを新しいベーシストとしてメンバーに迎える。若いが優れたテクニックを持ち、飛び込むかのように音の隙に入ってくる積極性を持つエディ・ゴメスは、ラファロの優れた後継者となる以降、ゴメスは78年に脱退するまでレギュラーベーシストとして活躍し、そのスタイルを発展させつづける。
[編集] 1970年代
1969年にマーティー・モレルがドラマーとしてトリオに加わり、家族のために1975年に抜けるまで活動した。このメンバー(セカンドトリオ)での演奏の質は、初期の録音でずっと後に発売されたライブ版「枯葉」(Jazzhouse)にも良く現れており、「"ワルツ・フォー・デビィ"ライヴ!」(You're Gonna Hear From Me)、「モントルーII」、「Live in Paris, 1972」、「The Tokyo Concert」、「シンス・ウイ・メット」(Since We Met)と、このメンバー最後のアルバムである1974年にカナダで録音した「ブルー・イン・グリーン」など。 1976年にドラムはモレルからエリオット・ジグモンドに交代する。このメンバーでの録音として「クロスカレンツ」(Crosscurrents)、「アイ・ウィル・セイ・グッドバイ」(I Will Say Goodbye)、「ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング」(You Must Believe in Spring)などが挙げられる。ジグムントは少なくともモレルのように邪魔はしていない。麻薬常習であったエヴァンスの音楽は、次第にその破壊的内面を見せるようになる。その頃、最初の妻とされるエレイン(一般には結婚したと考えられていたが、正式には結婚していなかったとされる)と別れるが、エレインはすぐに自殺してしまった。エヴァンスの死後に追悼盤として発売された「You Must Believe in Spring」収録の「Suicide is Painless(痛みのない自殺)」は、映画「M*A*S*H」(1970年)及びTVシリーズ版「M*A*S*H」のテーマとして知られる曲である。
1978年にゴメスとジグムンドがエヴァンスの元を去る。後任に何人かのミュージシャンを試し、中にはマイルス時代の仲間(ヤク中仲間でもあった)だったフィリー・ジョー・ジョーンズもいた。最終的にはベースのマーク・ジョンソン(末期のエヴァンスに対し、病院へ行くよう懇願したエピソードが残されている)、ドラムのジョー・ラバーバラ(ラバーベラ)にメンバーが落ち着き、これがエヴァンス最後のトリオ(ラストトリオ)メンバーとなった。このメンバーでも「ターン・アウト・ザ・スターズ」(Turn Out The Stars)など幾つかの録音を残しているが、内省的でありつつもよりドライヴした明るい演奏をするようになった。これは、常用している麻薬がヘロインから、コカインに移ったこととの関係が指摘される。だが、本人がインタビューで語っているように、このラストトリオとの演奏がとにかく楽しかったのだと解釈する方が自然であろう。このラストトリオの初作品と、現在公式録音でラストレコーディングとされており、CD化(全部で16枚)されているキーストン・コーナーのライブ演奏を比べると、トリオ全体が大きく進化していることが良くわかる。エヴァンスの死の直前まで、彼らは、前進し続けたのである。この死の直前のライブ演奏こそがエヴァンスの最高傑作とする者も多い。 エヴァンスの麻薬使用は1950年代後半のマイルス・ディヴィスとの仕事の頃に問題となっていた。ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかった。1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件があった。これを機にヘロインをやめることになったという。
1979年の「We Will Meet Again」は、ピアニストかつピアノ教師であった兄ハリーのための作品でもある。この年、録音の4ヶ月前にハリーは自殺している。エヴァンスは、前述のキーストンコーナーでのライヴに続き、1980年9月9日にニューヨークの「ファッツ・チューズデイ」で演奏をするが、既に激しい体調不良に襲われており、ジョー・ラバーバラが演奏を中止するよう求めたが、エヴァンスはいうことを聞かず、演奏を続けた。しかし、ライブの二日目にあたる11日、ついに演奏が続けられなくなり、やむなく中止し、自宅で親しい人達に三日間にわたり看病された。14日にジョー・ラバーバラが説得し病院に運ぶが、翌日の月曜日に死亡。死因は肝硬変、出血性潰瘍にともなう失血性ショック死。51歳であった。死の直前まで自らのスタイルを研究発展させ、鬼気迫る演奏を繰り広げたのだという。
[編集] ディスコグラフィ
[編集] リバーサイド・レコード (Riverside Records)
- New Jazz Conceptions (1956)
- Everybody Digs Bill Evans (1958)
- Green Dolphin Street (1959, not issued until the 1970s)
- Portrait in Jazz (1959)
- Explorations (1961)
- Sunday at the Village Vanguard (1961)
- Waltz for Debby (1961)
- How My Heart Sings (1962)
- Interplay (1962)
- Moonbeams (1962)
- The Solo Sessions (two volumes 1963)
- At Shelly's Manne Hole (1963)
[編集] ヴァーヴ・レコード (Verve Records)
- Empathy (with Shelly Manne Monty Budwig) (1962)
- Conversations With Myself (1963)
- Trio '64 (1964)
- Trio '65 (1965)
- Bill Evans Trio with Symphony Orchestra (1965)
- Intermodulations (with Jim Hall) (1966)
- A Simple Matter of Conviction (with Shelly Manne) (1966)
- At Town Hall Volume One (1966)
- Further Conversations With Myself (1967)
- California Here I Come (1967)
- Alone (1968)
- At the Montreux Jazz Festival (1968)
- What's New (with Jeremy Steig) (1969)
- From Left to Right (1970)
- The Bill Evans Trio Live (1971) 1964年録音
[編集] ファンタジー・レコード (Fantasy Records)
- The Tokyo Concert (1973)
- Eloquence (1973)
- Since We Met (1974)
- Re: Person I Knew (1974)
- intuition (1974)
- The Bill Evans - Tony Bennett Album (1975)
- Montreux III (1975)
- Alone Again (1975)
- Quintessence (1976)
- Crosscurrents (1977)
- I Will Say Goodbye (1977)
[編集] ブルーノート・レコード (Blue Note Records)
- Undercurrent (with Jim Hall) (1962)
- The Tony Bennett/Bill Evans Album (1962)
- Paris Concert, Edition One (1979)
- Paris Concert, Edition Two (1979)
[編集] ワーナー・ブラザーズ・レコード(Warner Bros. Records)
- You Must Believe In Spring (1977)
- Affinity (1978)
- 一部英語版より転用

