ビクトル・ペッチ

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ビクトル・ペッチ Tennis pictogram.svg
基本情報
ラテン文字名 Víctor Pecci
国籍 パラグアイの旗 パラグアイ
出身地 同・アスンシオン
生年月日 1955年10月15日(58歳)
身長 193cm
体重 86kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1973年
引退年 1990年
ツアー通算 21勝
シングルス 10勝
ダブルス 11勝
生涯通算成績 547勝413敗
シングルス 358勝243敗
ダブルス 189勝170敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1980)
全仏 準優勝(1979)
全英 3回戦(1979・80)
全米 3回戦(1979)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 1回戦(1982)
全仏 ベスト8(1983)
全英 3回戦(1978)
全米 ベスト8(1978)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 9位
ダブルス 31位

ビクトル・ペッチVíctor Pecci, 1955年10月15日 - )は、パラグアイアスンシオン出身の元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手で、1979年全仏オープン男子シングルス準優勝者である。シングルス自己最高ランキングは9位。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス11勝を挙げた。身長193cm、体重86kgの大型選手。

1974年にプロ入りし、同年の全仏オープン4大大会にデビューする。1979年全仏オープンでは、ペッチはノーシードから勝ち上がった。4回戦で第6シードのハロルド・ソロモンアメリカ)を破ると、準々決勝では第3シードのギレルモ・ビラスを 6-0, 6-2, 7-5 のストレートで破り、準決勝では第2シードのジミー・コナーズを 7-5, 6-4, 5-7, 6-3 で破って決勝に進出した。しかし、決勝では第1シードのビョルン・ボルグに 2-6, 1-6, 7-6, 4-6 で敗れて準優勝に終わり、パラグアイのテニス選手として最初の4大大会優勝には届かなかった。ボルグはこの勝利で、全仏オープンで2年連続4度目の優勝を達成する。

それから2年後、1981年全仏オープンでペッチは2年ぶり2度目の準決勝に進んだが、またもや第1シードのボルグに 4-6, 4-6, 5-7 で敗れた。2度目の4強進出の過程では、ペッチは3回戦で第4シードのジーン・マイヤーアメリカ)を破った後、4回戦ではポーランドヴォイチェフ・フィバク、準々決勝では地元フランスヤニック・ノアを破ったが、ここでもボルグの厚い壁に阻まれたことになる。

ペッチのその他の4大大会成績は、全仏準優勝の1979年ウィンブルドン全米オープンで記録した3回戦進出が最高で、全仏以外の大会では好成績が少なかった。1981年に2度目の全仏4強入りをした後、彼は4大大会で1回戦・2回戦止まりに後退し、1986年全仏オープンでの1回戦敗退を最後に4大大会挑戦を断念した。

パラグアイが男子テニス国別対抗戦・デビスカップに初参加したのは1931年であったが、最初は1931年1932年の2度しか参加できず、1982年になってから「50年ぶり」にパラグアイのデ杯復帰が実現した。ビクトル・ペッチはこの年から、現役引退する1990年までパラグアイのデ杯代表選手を務め、1983年にチームを最上位16ヶ国による「ワールドグループ」昇格へと導いた。1983年から1987年まで、パラグアイはデ杯で5年連続の「ワールドグループ」準々決勝に進出を果たす。1988年、ワールドグループ1回戦でペッチを欠いたパラグアイ・チームはチェコに敗れてしまったが、ワールドグループ・プレーオフではペッチがいて、ニュージーランドに4勝1敗で勝ってグループ残留を決める。しかし、1989年のワールドグループ1回戦でアメリカに敗れたパラグアイは、ワールドグループ・プレーオフでスイスに5戦全敗を喫し、ここでワールドグループから転落してしまう。1990年に「アメリカン・グループ1」の準決勝でカナダに5戦全敗で敗れたデ杯戦を最後に、ペッチは35歳で現役を退いた。彼の引退後、パラグアイはデ杯ワールドグループ復帰を実現させたことがない。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • ATPシニアツアー発行「シニア・プレーヤーズ・ガイド」1992年版 (シニアツアーの公式ガイドブック)