ヒッタイト語

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ヒッタイト語(ヒッタイトご)はインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語アナトリア半島ヒッタイト帝国の人々が話していた。

ハットゥシャ(現在のトルコ北部ボアズキョイ)を中心とするヒッタイト帝国で、紀元前1600年頃、あるいはそれ以前から紀元前1100年頃まで用いられたが、ヒッタイト語とその同系言語(まとめてアナトリア語派と呼ばれる)はそれ以後も数百年にわたって用いられたらしい。

ヒッタイト語は他の印欧語と異なる点が多く、早い時期に印欧語から分離したと推測されてきた。印欧語族の「姉妹言語」と考える研究者もいる。

名称[編集]

ヒッタイト語という用語には問題がある。ヒッタイトというのは旧約聖書の記録にちなんで発掘後にこの帝国に付けられた名称である。

ヒッタイトで発見された文書はいくつかの言語で記されており、その中でヒッタイト語で記された部分にはnesili (またはnasili 、「ネサの言葉で」の意)と書かれている。またKanisumnili 「カネシュの言葉で」と記された場合もある。ネサとカネシュはヒッタイトの中心的都市の名で、同じ都市の可能性もある。

元来ヒッタイトあるいはハットゥサというのはヒッタイト人が支配する前からいた原住民ハッティ人英語版が称した名と考えられる。その言語はやはりヒッタイトの文書の中に用いられているが、ヒッタイト語とは全く別系統であり、区別するためにハッティ語英語版(原ハッティ語)などと呼ばれる。

文法[編集]

言語の特徴と系統[編集]

ヒッタイト帝国はおおまかに分けて古ヒッタイト(古王国、および最近はその概念に疑問が出てきた中王国)と新ヒッタイト(新王国)の2つになるが、ここで言語学上の主題なるのは古ヒッタイトのほうである。ヒッタイト語(古ヒッタイトの言語)は印欧語として最も古いものの1つと考えられるにもかかわらず、ヴェーダ語サンスクリット)、ミケーネ語古代ギリシャ語)、リトアニア語バルト語派)など古風な言語の示す複雑さを欠いている。

語順[編集]

語順は〔主語-目的語-動詞〕というSOV型である。

性、格[編集]

ヒッタイト語には通性と中性の2(あるいは生物と無生物か)しかない。名詞には5しかなく(サンスクリットリトアニア語には8格、ポーランド語チェコ語には7格ある)、その中の一部は一般の斜格(述語に用いられる格)語幹に接尾辞をつけただけのようにみえる。動詞もサンスクリットやギリシャ語のような複雑さを持っていない。

語彙[編集]

ヒッタイト語は非インド・ヨーロッパ言語からの借用語が非常に多いのが特徴で、なかでもハッティ語英語版フルリ語からの借用が頻繁にみられる。特にハッティ人はヒッタイトの居住地域の原住民で、ヒッタイトの支配層となるインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派の人々の侵入により、この地の政治的支配層となったアナトリア語派の人々によって同化吸収され、子孫は主に庶民層や僧侶などヒッタイト社会の基層を形成したと推測される。一部にはハッティ人がこの地からヒッタイトによって駆逐されたと考える説もある。ハットゥシャ遺跡から出土する文書のうち、聖典魔術関係の文書はインド・ヨーロッパ語族のルウィ語に加えて、ハッティ語やフルリ語で書かれたものが多い。一方でそれ以外の用途の世俗的な文書はヒッタイト語で書かれていることが多い。

発音[編集]

ヒッタイト語には喉音が残っている。これらは1879年、他の印欧語の母音音価にもとづいてフェルディナン・ド・ソシュールが仮説を出したが、他の知られている印欧語には単独の音素として残っていない。ヒッタイト語ではいくつかの喉音がh として書かれる。ヒッタイト語はこの点では非常に古風であり、喉音の発見はソシュールの仮説をみごとに確証したのである。

喉音を除けばヒッタイト語を含むアナトリア語派の発音体系は全体的に単純なものとなっている。喉音という古風な音を残しながら全体的な体系が単純化されているということは、アナトリア語派の他の印欧語からの分化が古い時代に起こり、その後ハッティ人などといった非印欧語系の人々との社会的同化が起こったことを強く示唆する。一部の学者はインド・ヨーロッパ祖語とアナトリア語派の祖語はもともとさらに古い時代に分化し別系統となった言語であったと考えるが、主流的な見方ではインド・ヨーロッパ祖語の集団から一部の集団がアナトリアへ移住していき、非インド・ヨーロッパ語族の集団との同化過程でアナトリア語派が形成されたとされる。

さらに、アメリカのスタートヴァントやドイツのゲーツェおよびヴィットマンなど一部の学者は、後の時代にサテム化現象となった発音変化の流行の基本的な形態の一部がアナトリア語派で見られることを指摘している。これ自体はいわゆるサテム化の本格的なものとは言えないが、形態上は後のサテム化現象と共通している。

歴史(仮説)[編集]

アナトリア語派の分化[編集]

一部の比較言語学者は、アナトリア語派は他の印欧語各語派祖語よりも早い時期に原印欧語から分かれたと考えている。「インド・ヒッタイト祖語」を想定して、この用語のうちのインド(印欧祖語)とヒッタイト(アナトリア語派)の間に線引きをし、この両者の分化により印欧祖語とアナトリア語派(アナトリア祖語)の2つが形成されたと考える人もいる。

2003年にニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレー博士らが、分子進化学の方法(DNA配列の類似度から生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統分析)を応用して印欧語族の87言語を対象に2449の基本語を調べ、言語間の近縁関係を数値化しコンピュータ処理して言語の系統樹を作った。その結果紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ祖語の起源であり、ここから紀元前5000年までにギリシャ語派アルメニア語派が分かれ、紀元前3000年までにゲルマン語派イタリック語派が出来たことが明らかになったと主張したことがあった。インド・ヨーロッパ語族の起源として考古学的には、紀元前4000年頃の南ロシアのクルガン文化と、紀元前7000年頃のアナトリア農耕文化の2つの説が有力視されていたが、博士は、以上の結果は時代的にはアナトリア仮説英語版を支持するものであると考えたのである[1]

ただし従来ヒッタイト人の支配層の先祖は古代のいずれかの時期に黒海東岸ないし北岸方面から南下しアナトリアで非印欧語族の原住民(ハッティ人等々)を同化吸収してヒッタイト社会を形成したというのが通説である。このうち政治的に決定的なものは紀元前2000年ごろアナトリアに移動してきた集団とされたが、北方からアナトリアへの文化の移動の波はこの集団のみによるものとは確定していない。さらにヒッタイトが古い時代から一貫してアナトリアにいたという証拠はない。すなわち、仮に紀元前6700年ごろアナトリア語派の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語のうち、後にアナトリア祖語を形成した集団)が他のインド・ヨーロッパ祖語の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語のうち、後にインド・ヨーロッパ祖語を形成した集団)と分かれたとしても、後にヒッタイト支配層に発展することになる集団群のほうがコーカサス北麓からアナトリアへ向かって次々と移動していったという可能性は、インド・ヒッタイト祖語仮説やグレー博士の研究によっても否定することはできないことを見逃してはならない。

マイコープ文化(Maikop)とヤームナヤ文化(Yamna)の位置関係(紀元前3500年ごろ)

後にヒッタイト支配層となる集団のほうがコーカサス北麓の「原郷」から南下していったシナリオでは、紀元前6700年という古い時代にコーカサス北麓ないし黒海北岸の原郷からアナトリアへ向かっての一定距離の移動をしたのち、他のインド・ヨーロッパ祖語の集団(ないしインド・ヒッタイト祖語の原郷集団)がコーカサス北麓のどこかで後の時代にクルガンを作る風習(サマラ文化ドニエプル・ドネツ文化。ただしサマラ文化やドニエプル・ドネツ文化、そしてクヴァリンスク文化およびスレドニ・ストグ文化自体が印欧語族の文化であるとは限らないが、この流れを受けたと考えられているクルガン文化であるヤムナ文化は印欧語族の文化であると推定されている。)を始め、これを発展させてインド・ヨーロッパ祖語の社会文化の基盤を形成し、その後この社会文化が周囲に伝播することで複数のクルガン文化群が形成されていった可能性と全く矛盾しない。これは紀元前3700-2500年ごろ黒海東岸から南岸にかけて広く存在したマイコープ文化(のちにアナトリア語派の諸国の支配層となっていった集団の文化と考えられる)の初期および同時代の黒海北岸のヤムナ文化(印欧語族の原郷の文化と考えられる)に共通するクルガンの風習によって裏付けられる。

分化後の文法の単純化[編集]

ヒッタイト語が分化した後にハッティ人などといった非インド・ヨーロッパ言語の原住民を同化吸収する過程で、意思疎通の必要性の増大により「文法の単純化」が起こったと考えられている。例えば、他の言語と異なり、指小形をはじめとした幼児的表現を日常的に多用するポーランド語チェコ語など一部のスラヴ語派の言語同様、親族名称に幼児語的なものが多いことから、ヒッタイト侵入の草創期における社会の急激な変動が示唆されている。これは古い言語ほど文法が複雑であるという、すでに広く定着している仮説に則っている。単純化の現象はトカラ語でも見られる。これによればサンスクリット、リトアニア語、ポーランド語、チェコ語などは文法上、他の言語よりも印欧語の古層を保存していると考えられる。

反対に、古い言語ほど文法が単純であるという仮説を採る人々は、ヒッタイト語やトカラ語の文法の単純さこそが印欧語の古層を保存していて、その後その他の言語に変化が生じたとする説を採る。

同系統の言語[編集]

ヒッタイト語以外にもヒッタイト帝国やその後のアナトリアで用いられた同系と思われる言語(楔形ルウィ語、いわゆる象形文字ヒッタイト語英語版パラ語英語版リュキア語英語版リディア語英語版)があり、まとめてアナトリア語派と呼ばれる。

ヒッタイト語は粘土板と碑文で知られている。またヒッタイト帝国の碑文あるいは周辺国で用いられた言語として、ヒッタイト語に似たルウィ語、パラ語があり、ヒッタイト語同様に楔形文字で書かれた。「ヒッタイト象形文字(Hieroglyphic Hittite)」と呼ばれる文字は現在ではむしろルウィ語に近い言語を書くのに用いられたことがわかっており、「象形文字ルウィ語英語版」とも呼ばれる。。

リディア語英語版リュキア語英語版は旧ヒッタイト領で後に(紀元前4~5世紀頃)用いられ、ギリシア文字に近いアルファベットで書かれている。ヒッタイト語かルウィ語に由来する可能性もある。

ヒッタイト語、ルウィ語には借用語が多く、特に非印欧語のフルリ語ミタンニ語)やハッティ語(原ハッティ語)に由来する宗教用語が多い。ヒッタイト語が主要言語となった後でも、ヒッタイトにおける宗教的文書の多くはハッティ語、フルリ語、アッカド語で書かれた。

その他に資料は少ないがカリア語英語版ピシディア語英語版シデ語英語版ミリヤ語英語版などが知られる。アナトリアはアレクサンドロス3世(大王)の東征以後、ヘレニズム文化に席巻され、一般にこの地の先住民言語は紀元前1世紀までに絶滅したと考えられている。

解読[編集]

ヒッタイト語は20世紀初頭に解読され始めた。1902年ノルウェーヨルゲン・クヌートソン英語版が、ヒッタイト領で発見された粘土板の多くがアッカド楔形文字で書かれていることを指摘した。これらは音節文字で書かれていたため解読が進んだ。1916年チェコベドジフ・フロズニーが、この言語は印欧語に属すると結論し、それによってさらに解読が進んだ。

脚注[編集]

  1. ^ Gray&Atkinson 2003, pp. 435–9

参考文献[編集]

  • Hoffner, Harry A. & Melchert, H. Craig (2008). A Grammar of the Hittite Language, Part I. Reference Grammar. Winona: Eisenbrauns. ISBN 1-57506-119-8. 
  • Hoffner, Harry A. & Melchert, H. Craig (2008). A Grammar of the Hittite Language, Part II. Tutorial. Winona: Eisenbrauns. ISBN 1-57506-148-1. 
  • Hout, Theo van den (2011). The Elements of Hittite. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0521115647. 
  • Gray, R.D.; Atkinson, Q.D. (2003). Language-tree divergence times support the Anatolian theory of Indo-European origin. 426.