パーヴェル・ロトミストロフ

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パーヴェル・アレクセーヴィッチ・ロトミストロフロシア語: Павел Алексеевич Ротмистров1901年6月23日 - 1982年)は、ソ連の軍人。装甲戦車兵総元帥。ソ連邦英雄第二次世界大戦中、第5親衛戦車軍司令官としてプロホロフカの戦いに参加した。

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[編集] 経歴

トヴェリ県セリジャル郡スコヴォロヴォ村出身。4年制学校で学び、ロシア革命までサマラで荷役人夫として働いた。

1919年、赤軍に入隊し、サマラ労働者連隊に配属され、ブグリマ郊外の戦いに参加した。同年、共産党に入党。その後、工兵課程を修了し、西部戦線第16軍第42兵站大隊に派遣された。クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加したが、負傷し、入院後帰郷した。

スモレンスク歩兵学校卒業後、リャザンの第149狙撃連隊の中隊政治委員となり、その後、ウラジーミルの騎兵偵察大隊の政治委員となった。1922年、全露中央執行委員会軍事統合学校に入校。

1924年、第11狙撃師団第31連隊の小隊長。4年後、フルンゼ名称アカデミーで教育を受け、1931年の卒業後、チタのザバイカル狙撃師団本部第1班長に任命された。1933年、独立赤旗極東軍本部作戦課第1班長/副課長に任命。

1937年、狙撃連隊長。1937年10月、労農赤軍自動車化・機械化軍事アカデミーの戦術講師を務める。1940年12月、沿バルト特別軍管区第3機械化軍団第5戦車師団の副師団長に任命。

[編集] 第二次世界大戦

1941年5月末、第3機械化軍団参謀長に任命され、独ソ戦を迎える。第3機械化軍団は、第11軍と共にシャイリ方面に退却したが、ドイツ軍に包囲された。包囲からの脱出の際、軍団は解散された。その後、ロトミストロフ大佐は、北西戦線の第8戦車旅団長に任命された。1942年初め、第7戦車軍団長に任命され、6月末、第7戦車軍団は第5戦車軍に配属された。エレツ地区への移動の際、第7戦車軍団はドイツ第11装甲師団を攻撃し、これを撃破した。8月、第7戦車軍団は第1親衛軍に配属された。スターリングラード郊外での反攻の際、ラチコフスキー地区で戦功を上げ、第2親衛軍の編成下で、ドン軍集団の撃破に参加した。

その後、3個軍団から成る機械化群を指揮。1943年2月中旬、第5親衛戦車軍司令官に任命された。ロトミストロフの第5親衛戦車軍は、史上最大の戦車戦であるプロホロフカの戦いに参加した。その後、ロトミストロフ戦車兵大将指揮下の第5親衛戦車軍は、ステップ戦線においてドニエプル渡河作戦に参加した。1943年10月からピャチハトキ、クリヴォイ・ログを攻撃し、キロヴォグラードを解放した。

1944年1月、コルスン・シェフチェンコ作戦に参加。2月21日、装甲戦車兵元帥の階級を授与。8月、赤軍装甲戦車・機械化兵副司令官に任命。終戦と共に、在独ソビエト軍集団装甲戦車・機械化兵司令官に就任した。

[編集] 戦後

1948年、極東装甲戦車・機械化兵司令官に任命。

1956年、モスクワに戻り、装甲・機械化兵アカデミーの講座長を務める。ロトミストロフは、多数の科学論文を執筆し、同年、軍事科学博士の学位を取得し、1958年、教授の称号を授与された。1958年、高等教育施設担当国防次官。1962年、装甲戦車兵総元帥の階級を授与。1968年、健康上の理由により、国防省総監部に異動。

1982年死去。モスクワのノヴォデヴィッチ墓地に埋葬。

[編集] パーソナル

1965年、ソ連邦英雄の称号を授与。レーニン勲章5個、十月革命勲章、赤旗勲章4個、一等スヴォーロフ勲章、一等クトゥーゾフ勲章、赤星勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受賞。

軍事科学博士、教授。

[編集] 著作

  • 「プロホロフカ郊外の戦車戦」(Танковое сражение под Прохоровкой)、1960年
  • 「時代と戦車」(Время и танки)、1972年
  • 「鉄の親衛隊」(Стальная гвардия)
  • 「戦争における戦車」(Танки на войне)、1975年

[編集] 関連項目

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