パブロフの家

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パヴロフの家(1943年)

パブロフの家(パブロフのいえ、ロシア語: Дом Павлова)は、スターリングラード攻防戦における激戦区のひとつとなったアパートの通称。ここを占拠し苛烈な攻撃から守り通したヤコブ・パブロフ軍曹の名をとって後にこう呼ばれるようになった。

概要[編集]

ヤコブ・パブロフ

スターリングラード(現ヴォルゴグラード)市街の中心部にあった四階建ての建物で、1月9日広場(血の日曜日事件にちなんで名づけられた)を見下ろすようにして、ヴォルガ川の堤防脇に建てられている。

1942年の9月に侵攻中のドイツ軍がこの建物を攻撃したので、ソ連親衛第13狙撃師団(13th Guards Rifle Division)はこの建物を守るよう命令を下した。負傷した上司に代わって指揮官を務めていたヤコブ・パブロフの部隊がここを守ることになった。当初、生存者がたった4人という過酷な戦いになったが、パブロフの部隊は命令通りに、この建物を奪われることなく守り続けた。

しばらくして機関銃や対戦車ライフル、迫撃砲を装備した増援が到着した。全員で25人になった守備隊の兵士たちは、アパートの周囲に有刺鉄線と地雷を設置し、窓には対戦車ライフルや機関銃を据えた。また、建物内の壁と天井をぶち抜き味方同士の連絡と補給を円滑にし、同時に塹壕を掘って建物外から友軍が出入りできるようにもした。 こうしたことで、ドイツ軍の爆撃や砲撃があっても、ボートを使って川の向こう岸から運ばれてきた補給物資をこの塹壕を通じて内部に運び込むことができるようになった。

しかし、やはり食料や水はすぐに切れ、特に水不足は深刻だった。満足な数のベッドがないため、兵士達は配管から剥した断熱材の上でなんとか寝ようとした。しかし昼夜を問わず攻撃してくるドイツ軍が放つ、耳をつんざくような機関銃の音だけはどうしようもなかった。

ドイツ軍はこの建物を陥落させるべく、一日のうちに何回も攻撃を試みた。ドイツ軍の歩兵や戦車がなんとか広場を横切って建物に近づこうとするたびに、パブロフたちは陣地の中や窓、あるいは屋根の上から強力な砲火を浴びせて応戦した。広場が死体と鉄屑の山で覆われるほどになっても、ドイツ軍はなおここを攻め落とすべく挑戦しなければならなかった。

反撃を開始していたソビエト軍の救援が11月25日に到着したことで、戦いは終了した。1942年9月23日から続けられた激しい戦いを、パブロフの部隊、そして未だそこで暮らしていたロシア人の市民たちは耐え抜いた。

攻防戦の象徴として[編集]

戦争以前、ドイツ軍はソ連の諸都市を占拠して国全体を征服するのに数週間もかからないだろうと考えていた。しかし蓋をあけてみれば、二ヶ月かけてもこの半ば廃墟と化した、せいぜい十数人程度の兵士によって守られた家屋のひとつすら占領できなかったのである。その意味で、「パブロフの家」はスターリングラード攻防戦、ひいては独ソ戦全体を通してソビエト軍が見せた我慢強い抵抗の象徴として見られるようになった。 このことは、ドイツの地図においてこのアパートが建つ1月9日広場が要塞として記載されていることからも伺える。

スターリングラード攻防戦においてソ連側の司令官だったワシーリー・チュイコフは、「パブロフの部下たちはパリ解放の時の連合軍より多くのドイツ兵を倒した」という噂を耳にしたという。

戦後、「パブロフの家」は再築され、現在に至るまでアパートとして使用されており、戦闘後にヴォルガ川の東側に散らばっていたレンガから造られた記念碑が壁面に飾られている。

またパブロフはこの戦闘での功績により、ソ連邦英雄の称号を与えられた。

創作との関連[編集]

  • ゲーム『コール オブ デューティ』では、ソビエト兵としてここを占拠し、援軍到着までドイツ軍の波状攻撃から守り抜くというミッションが登場する。その場面でのプレイヤーの上官はパブロフ軍曹をモデルにしており、名前も「Sgt. Pavlov」となっている。マルチプレイヤーモードではそのマップは「パブロフの家(mp_pavlov)」として登録されている。
  • ゲーム『Unreal Tournament 2004』のMOD「Red Orchestra」の初期バージョンにもここが登場し、ソビエト軍とドイツ軍が建物の占拠を競う。
  • ゲーム『バトルフィールド1942』のMOD「Forgotten Hope」にもここが登場し、ソビエト軍とドイツ軍が建物の占拠を競う。

関連項目[編集]