バーリ空襲

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バーリ空襲を行ったJu-88の同型機

バーリ空襲は、第二次世界大戦中の1943年12月2日にドイツ空軍爆撃機アドリア海に面したイタリアの港湾都市バーリ連合国軍部隊及び輸送艦船に対し行った空襲である。この空襲は、ドイツ空軍第2航空艦隊所属のユンカースJu88105機が、バーリ港にいたイタリア戦線に増援される連合国軍将兵及び輸送艦船に対して爆撃を行い、17隻の貨物船と兵員輸送船を港内で沈めた。

1時間程度の空襲でバーリ港の機能は失われ、1944年2月まで利用できなかった。このため、この空襲は小パール・ハーバーと呼ばれた。

また、この空襲により被害を受けた貨物船からマスタードガスが漏れ出し、死者を出すこととなった。

背景[編集]

当時、バーリは防空体制が不十分な状況であった。イギリス空軍戦闘機の飛行場が無く、行動範囲内にある戦闘機も防衛や攻撃の任務を命じられておらず、港は無防備だった。また、地上の防衛体制も不十分で、効果的な組織化もされていなかった。

バーリへのドイツ空軍による空襲の可能性は、イタリアでドイツ空軍が他に大規模な攻撃を開始し戦線が延びて戦力が薄くなっているため、低いものと考えられていた。 1943年12月2日の午後、イギリス第1戦術空軍司令官アーサー・カニンガムは「ドイツ軍は空の戦いで敗北をしてきている。」という記者会見を行っていた。 彼は会見の中で、「もしもドイツ空軍がこの地域で大規模な作戦行動を企てるならば、それは私への侮辱と見なす。」と発言した。 この発言は、ドイツ空軍が前の月にナポリの港湾区域へ4回も空襲を成功させていることと、地中海において他の目標を攻撃しているということを軽く見ていたものだった[1]

12月2日には、バーリ港に30隻の、アメリカ合衆国、イギリス、ポーランド、ノルウェー及びオランダ船籍の船が存在し、連合国軍占領下だった港湾に隣接する市街地の民間人の人口は25万人だった[2]。港はローマへの戦いに従事する連合国軍への補給物資の荷降ろしを最大限の能力ではかどらせるため、空襲を受けた当日も夜間に照明を点していた[2]

空襲[編集]

12月2日の午後、ドイツ空軍パイロット、ヴェルナー・ハーンはMe210でバーリを上空から偵察した。その報告をもとにアルベルト・ケッセルリンクは空襲を命令した[3]。ケッセルリンクと彼の幕僚は以前はフォッジャの連合国軍飛行場を目標にと考えていた。しかしドイツ空軍はこのようないくつかの標的が複合した大規模な目標を攻撃の対象にできるだけの攻撃部隊を持っていなかった。第2航空艦隊の司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン元帥はバーリを代替案として提案した[4]。港に壊滅的な損害を与えれば、イギリス第8軍の前進を遅らせることができるとリヒトホーフェンは考えていた。リヒトホーフェンは、第2航空艦隊で出撃可能なユンカースJu-88 A4 爆撃機を空襲のために150機集めることができるとケッセルリンクに伝えたが、実際の空襲で出撃できたJu-88は105機だった。

空襲に参加した多くの飛行機はイタリアの飛行場から発進したのだが、リヒトホーフェンは一部の飛行機をユーゴスラビアから発進させ、連合国軍にユーゴスラビアを策源地と思わせ、その報復攻撃の方向を誤らせたいと考えた。そこで、Ju-88のパイロットはまず東のアドリア海へ向かい、その後南下して西に向きを変えて飛行するよう命令されることとなった。この侵入経路については、連合国軍が「ドイツ軍から攻撃を受けるとすれば北方から」と考えていたという、ドイツ軍側の推測によるものだった。

空襲は午後7時25分に、2、3機のドイツ軍機がバーリ港上空3,000m(10,000ft)を旋回しながら連合国軍のレーダー探知を妨害するためチャフを散布して始まった。このときに港には荷役作業のため、照明が点されていたので必要ではなかったものの、照明弾も投下された[2]

空襲により、2隻の弾薬輸送船が被弾して爆発を起こし、この爆風で11km先の窓ガラスまで粉々になった[2]。埠頭のガソリンの荷役用パイプラインが切断され、そこから噴出した燃料に引火した[5]。このため、火のついた燃料が港の大部分に広がり、被害を受けなかった船舶も巻き込んだ[2]

34,000トン以上の物資を積んだ貨物船17隻が破壊され、そのうち3隻は後に引き上げられた[1]。港は2週間閉鎖され、機能が完全に復旧したのは1944年2月だった[5]。バーリ港にいた潜水艦はその頑丈な外殻でドイツ軍の空襲に耐え、全て損傷を受けずに残った。

ジョン・ハーヴェイ号事件[編集]

空襲を受け、破壊された船舶のうちに、第一次世界大戦型のマスタードガス爆弾M47A12,000発(1発当たりのマスタードガス容量は30-35kg)を極秘の貨物として運んでいた、アメリカ合衆国リバティ船ジョン・ハーヴェイ(John Harvey) 号があった。この貨物は、ドイツ軍が化学兵器を使用した場合に対する報復攻撃のためにヨーロッパへ送られたものだった。ジョン・ハーヴェイ号が被弾し破壊されたため、液体のマスタードガスが、既に他の被弾し損害を受けた船から流出した油混じりの海水中に漏れ出した。避難のため多くの船員が乗っていた船から海に逃れ、マスタードガスの理想的な溶媒の状態になっていた油混じりの海水にまみれることになった。また、マスタードガスの一部は蒸発し、煙と炎の雲に混じっていった[2]。水から引き上げられたこれらの負傷者は、マスタードガスの存在を知らされていなかった。医療スタッフは爆発や火災による負傷者に、その対応を集中させた[6]。そのため、単に油にまみれただけに見えた者はほとんど注目されなかった[6]。低濃度のマスタードガスにさらされた多くの負傷者は、単純な入浴や衣類の着替えで症状を軽減できる可能性があった[7]

その日の内に、628名の患者と医療スタッフに、失明や化学やけどなどのマスタードガスの中毒による最初の症状が現れた。さらに、ジョン・ハーヴェイ号の貨物の一部が爆発したときに、マスタードガスの蒸発した雲が吹き込んだ市街にいたために中毒を起こしたイタリア民間人数百人が治療を求めて殺到したことから、事態はさらに混乱することとなった。この医療現場の混乱に対し、アメリカ合衆国軍司令部は化学兵器の存在をドイツ軍に対し秘匿しておきたかったため、これら犠牲者の症状の原因に関し利用できる情報を制限していた[8]。このため、ジョン・ハーヴェイ号乗組員のほぼ全てが死亡し、救急隊員の「ニンニクのような」臭いがした記憶があったのでそれが原因となったものではないか、という説明は役に立たなかった[6]

謎の症状についての説明のために、副軍医総監フレッド・ブレッセは化学兵器の専門家のスチュワート・フランシス・アレクサンダー中佐を派遣した。アレクサンダーは、空襲を受けた時の犠牲者の位置について慎重に集計し、ジョン・ハーヴェイ号の積荷のアメリカ合衆国軍 M47A1爆弾の容器の破片のところで、マスタードガスが原因物質だと突き止めた[3]

その月の終わりには、入院していた628名の軍人の内83名が死亡した。民間人の犠牲者数は、その多くが親類の避難先を求め市街を離れたため、正確に数えることができなかった [3]

アメリカ合衆国海軍駆逐艦ビステラ(USS Bistera)は、空襲の間に軽度の損傷を受けたが、海中の生存者を救助しつつ港外へ出た。その夜の内に艦の乗組員で失明と化学やけどの症状を示す者が現れた。駆逐艦ビステラはターラント港へ戻って行った[9][10]

隠蔽[編集]

最初に連合国軍最高司令部は、連合国軍が化学兵器使用準備をしていると思われるとドイツ軍を刺激することになり、先制使用される可能性が出てくるので、この事件を隠蔽しようとした。しかし、秘密を保持するにはあまりに多くの目撃者がいたため、2月に合衆国司令部員は事件を認め、アメリカ合衆国が報復の場合を除き、化学兵器を使用する意思を持たないことを強調する声明を発表した[10]

連合国軍最高司令官アイゼンハワー はアレクサンダー博士の報告を承認した。けれども、チャーチルはこの件に関するイギリスの文書を全て破棄し、マスタードガスによる死亡者リストを「敵の攻撃による火災が原因」とするよう命令した[3]

空襲に関するアメリカ合衆国の記録は1959年に機密指定から解除されたものの、事件については1967年まで秘匿のままにされていた。1986年にイギリス政府は最終的に毒ガスの被害を受けたバーリ空襲の生存者の存在を認め、その生存者に対し年金を支払うこととした[11]

結果[編集]

バーリの防空について責任を負っていたイギリス第1戦術空軍司令官カニンガムは、事件以前に空襲がなかったことから、その指揮、対応については問題が無いとの調査結果により非難を免れることができた。[5] 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において化学物質の放出があったのは、このマスタードガス流出事件だけだった。

出典[編集]

  1. ^ a b Orange, p. 175.
  2. ^ a b c d e f Saunders, p. 36
  3. ^ a b c d Faguet, Guy B. (2005). The War on Cancer. Springer. p. 71. ISBN 1402036183. 
  4. ^ Infield, p. 28
  5. ^ a b c Orange, p.176
  6. ^ a b c Saunders, p. 37
  7. ^ Saunders, p. 38
  8. ^ Pechura, p.43
  9. ^ Pechura, p. 44.
  10. ^ a b Hoenig, Steven L. (2002). Handbook of Chemical Warfare and Terrorism. Greenwood Publishing Group. p. 14. ISBN 0313324077. 
  11. ^ Atkinson, Rick (2007). The Day of Battle: The War in Sicily and Italy, 1943-1944. Henry Holt and Co.. p. 277. ISBN 0805062890. 

参考文献[編集]

図書[編集]

ウェブサイト[編集]

座標: 北緯41度07分 東経16度52分 / 北緯41.117度 東経16.867度 / 41.117; 16.867