バレンタイン・ストラッサー
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バレンタイン・エセグラグボー・メルヴィン・ストラッサー(Valentine Esegragbo Melvine Strasser、1967年4月26日生まれ)はシエラレオネの軍人、政治家。元国家最高評議会議長。
ストラッサーは1967年にフリータウンで解放奴隷の子孫クリオとして生まれた。この若いシエラレオネの軍人は、1992年に25歳の時、彼と同じ若い将校のグループと共に軍事クーデターを起こし、大統領だったジョセフ・サイドゥ・モモとモモ政権の基盤だったAPCを倒しモモから政権を手に入れ、シエラレオネの元首になった。その際、国家暫定統治会議(NPRC)を設立している。
モモ政権は内戦は東部地域だけだと判断し、公約の議会及び大統領選挙は形だけ程度のもので済まそうとしていた。また、人々も更なる争乱と無秩序を避けようとそれを黙認していた。このようなモモ大統領の政治や、人々の反応にストラッサー大佐ら若い将校達は、不満を募らせていた。シエラレオネの人々は、この27歳のシエラレオネの国家元首に就任した若く新しい力に、混乱した国を立て直せる事が出来るのではないかと彼に期待し歓迎した。
しかし、そうではないことが露呈するまでに時間はかからなかった。実権を握ったストラッサーは民政への早期復帰を約束したが、なかなか果されないまま、シエラレオネ内戦の立役者であるアハメド・フォディ・サンコー率いる革命統一戦線(RUF)との戦闘が激しさを増し、首都フリータウン近くにまで追って来るなど国は更に混乱して行った。1993年ストラッサーはRUFに対し一方的に休戦を宣言し、RUF側の兵士に大赦を与えた。
1992年から1993年の間にストラッサーは国の治安の悪さを自らの権力強化に利用していたが、1995年に政権内部でクーデターが起こり彼は権力を追われ、イギリスに逃亡した。そして、ウォーリック大学で法事を勉強し、職員をしていたが、シエラレオネ人学生の抗議を受けて解雇され、2000年の時には失業していた。その後シエラレオネに帰国し母親と同居していた。
外部リンク [編集]
- Sierra Leone News über Strassers Sturz, Januar 1996 (englisch)
- Die BBC über Strassers Aufenthalt in England, 27. Mai 2000 (englisch)
- Sierra Leone News über Strassers Rückkehr, August 2001 (englisch)
- Die BBC über Strassers Absicht zu kandidieren, 2. Mai 2005 (englisch)
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