斎藤佑樹
| 北海道日本ハムファイターズ #18 | |
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早稲田大学時代の斎藤(2010年)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 群馬県新田郡新田町(現:太田市) |
| 生年月日 | 1988年6月6日(23歳) |
| 身長 体重 |
176cm 76kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 2010年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 2011年4月17日 |
| 年俸 | 3,000万円(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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斎藤 佑樹(さいとう ゆうき、1988年6月6日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。群馬県太田市出身[1]。
愛称は「佑ちゃん」、「ハンカチ王子」。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 中学時代まで
漫画『MAJOR』を兄とともに愛読し、新田町立生品小学校[1](現・太田市立生品小学校)在籍中は地元学童野球チーム『生品チャンピオンズ』に一年次から在籍し主将を務める。同町立生品中学校(現・太田市立生品中学校)では軟式野球部に所属[1]。群馬県大会では準優勝、関東大会ではベスト8まで進み、このころ地元紙・上毛新聞に取り上げられる。2002年夏の甲子園大会(第84回選手権大会)で群馬県代表・桐生市立商業高校の応援のために阪神甲子園球場へ足を運んだことが、甲子園に憧れを持つきっかけになった。
[編集] 早稲田実業学校高等部時代
2004年、推薦入試で早稲田実業学校に進学。実家を離れ、東京で兄と二人暮しを始める。野球部では和泉実監督の指導を受け、1年からベンチに入る。
2005年、背番号1をつけて臨んだ2年夏の西東京大会では、日本大学第三高校との準決勝で3本の本塁打を浴びてコールド負けを喫した。2年秋の都大会では新チームの副キャプテンを任された。準決勝では2度目の日大三高との対戦で完封勝利を挙げ、決勝も制し24年ぶりの優勝。同年11月の明治神宮野球大会では準決勝で駒澤大学附属苫小牧高校と対戦したがチームは敗れベスト4。この時初めて後に甲子園でのライバルとなる田中将大と対決している。
2006年、春の甲子園大会(第78回選抜大会)に出場。2回戦で関西高校を引き分け再試合の末勝利を収める[2]も、準々決勝で横浜高校に敗退。同年夏(3年時)の西東京大会では、決勝で三たび日大三高と対戦。延長戦の末サヨナラ勝ちを収め、夏の甲子園大会出場を決めた[3]。甲子園では、2回戦の大阪桐蔭戦で当時2年生ながら怪物スラッガーと呼ばれた中田翔と対決。4打数無安打3三振に封じ、これをきっかけにこの大会における斎藤の注目度が高まる。
同年夏の甲子園大会では、早稲田実業として26年ぶりに決勝戦に進出した(荒木大輔を擁した1980年以来)。8月20日の決勝戦では、夏の甲子園大会で3連覇を目指す駒大苫小牧のエース・田中将大との投手戦になった。延長15回でも決着がつかず、1969年夏(第51回全国高等学校野球選手権大会)の松山商業高校対三沢高校戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった[4]。翌日の再試合でも斎藤は自ら先発を志願し4連投、最後は田中を三振に打ち取って13奪三振で接戦を制し、早稲田実業学校を初の夏の甲子園大会優勝に導いた[1][5]。この大会の全試合で先発し、2回戦から決勝再試合までただ1人で投げ抜いたその功績は広く賞賛され、田中との投げ合いは甲子園大会の歴史に残るものとなった。この大会での69投球回、投球数948はどちらも一大会における記録としては史上1位。一大会における奪三振78は、1958年の板東英二(徳島商業高校)の83個に次いで歴代2位となった。
9月11日、自身の進路について記者会見の場で大学進学を表明。「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい」と語る一方、日米親善高校野球大会でアメリカ遠征している間に気持ちが揺れたことも明かした。9月30日から兵庫県で開催された第61回国民体育大会(のじぎく国体)では、決勝戦で夏の甲子園大会決勝戦と同じく早稲田実業と駒大苫小牧との試合となり、ここでも再び田中将大との対決となったが、結果は1対0で早実が勝利し斎藤は再び優勝投手となった。
[編集] 早稲田大学時代
2007年、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学し、早稲田大学野球部に入部[6]。背番号は「16」。4月14日から始まった2007年東京六大学野球春季リーグ戦において、斎藤は開幕戦となる東大戦で先発を務め勝利投手になった。1年生春の開幕投手での勝利は、1927年の宮武三郎(慶應義塾大学)以来80年振り[1]。6月3日の優勝が懸かった早慶戦でも先発を任され、この試合で早稲田大学は勝利し、斎藤はリーグ戦優勝投手となった。斎藤のこのリーグ戦での成績は4勝(リーグ1位タイ)0敗、防御率1.65(同3位)。他にプロ野球ならセーブが付く場面での交代完了が2試合あり(東京六大学リーグにはセーブの制度はない)、チームの10勝中6勝に関与し優勝に大きく貢献した。また1年生投手としては史上初となるベストナインにも選出された。
6月、第56回全日本大学野球選手権大会では2回戦・準決勝・決勝の3試合に登板。準決勝・決勝では2日連続して先発を務め、それぞれ1失点で後続につないで2勝を記録、チーム33年ぶりの優勝に貢献し、1年生では史上初めて最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。同年7月、アメリカで開催された第36回日米大学野球選手権大会日本代表に選出。代表チームでの背番号は「20」。第3戦で先発し、日本チームは敵地開催で初の優勝、斎藤は同大会日本代表の1年生投手としては史上初の勝利投手となった。しかし、リリーフで登板した第5戦では敗戦投手となり、この試合で高校3年の西東京大会以来続いていた、斎藤が先発した試合は負けないと言ういわゆる「不敗神話」も29でストップした。9月に始まった東京六大学秋季リーグ戦では、開幕戦となる対東京大学1回戦で先発を務め、勝利投手となる。1年生投手が春秋ともに開幕戦の先発を務めるのは1929年の古館理三(帝国大学)以来4人目、1年生投手が春秋ともに開幕戦勝利を収めたのは宮武以来80年ぶり。対法政大学4回戦ではリーグ戦初完投勝利(チームにとっても2季ぶり)を収め、早大の3季連続優勝がかかった慶大との3回戦ではリーグ戦初完封に加え自己最多の15奪三振を記録、春に続き優勝決定試合での勝利投手となった。2007年秋期リーグでの成績のうち、防御率0.78は最優秀防御率賞で、2季連続のベストナインにも選ばれた。1年生投手の春秋連続ベストナイン受賞は史上初。また、4勝はリーグ最多勝、与四死球率1.55(57.2投球回で四死球10)はリーグ最少だった。
2008年、7月にチェコで開催された第4回世界大学野球選手権日本代表に選出。また秋季リーグ戦から背番号を「1」に変更し、自身最高の7勝(リーグ最多勝)をあげ2季ぶりの早大優勝に貢献した。3回目のベストナインにも初の満票で受賞。優勝時のヒーローインタビューでは1年次からバッテリーを組んでいた細山田武史への感謝の思いを語った。
2009年、7月に開催された第37回日米大学野球選手権大会日本代表に選出。この年のリーグ戦は春4勝2敗、秋3勝2敗と本来の力を発揮できず、チームも優勝を逃した。本人はインタビューでこの年に球速を追い求めた結果フォームを崩してしまい、思った投球ができなかったと語っている。同年、秋季リーグ戦終了後に早稲田大学野球部第100代主将に就任。それに伴い背番号を「10」に変更。11月22日、史上初のプロ野球と大学野球それぞれの選抜チームによる交流戦『U-26 NPB選抜 対 大学日本代表』に先発投手として登板。翌日23日はオール早慶戦で3年ぶりに甲子園で登板。
2010年、7月30日から日本で開催された第5回世界大学野球選手権大会の日本代表に選出。秋季リーグ戦では、早慶戦2日目で早大と慶大が勝率で並び、11月3日に50年ぶりの早慶優勝決定戦が行われることとなった。神宮球場は超満員の36,000人の観衆を集め、その中斎藤は先発し8回途中までノーヒットノーランの好投をし、試合も10-5で早大が優勝。11月13日から開催された第41回明治神宮野球大会・大学の部でも1回戦から決勝戦まで登板し、同大会において早大初優勝に貢献。主将として大学最後の年にリーグ戦優勝、大学日本一というこれ以上ない有終の美を飾ることとなった。
大学4年間を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成(31勝323奪三振)。また世界大学野球選手権大会と日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出されたのは史上初。
10月28日に開催されたプロ野球ドラフト会議にて、東京ヤクルトスワローズ・北海道日本ハムファイターズ・千葉ロッテマリーンズ・福岡ソフトバンクホークスの4球団が1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得。同会議では早稲田大学の同期生である大石達也と福井優也も、それぞれ埼玉西武ライオンズと広島東洋カープに1位で指名され(大石は広島を含む他5球団との競合)、プロ野球ドラフト会議において同一大学の投手3人が1位指名を受けたのは同会議史上初となった(ポジションに関わらず3人が1位指名された例はあった)。10月30日から早慶戦を控えていたため当日には記者会見は行われず、早慶優勝決定戦翌日の11月4日に大石、福井とともに会見が開かれ、プロ入りへの意気込みを語った。
12月6日に日本ハムとの初交渉に臨み、新人としては最高評価の年俸1500万円、契約金1億円、出来高5000万円(金額は推定)で仮契約した[7]。12月9日には日本ハムの本拠地・札幌ドームにおいて、2003年の新庄剛志以来7年ぶりの単独の入団会見が行われた。会見には梨田昌孝監督(当時)と藤井純一球団社長(当時)が同席し、背番号「18」のユニフォーム姿をお披露目した。その後、梨田監督が捕手となりマウンドでプロ第一球を披露し、トークショー、サインボール投げ入れなどのセレモニーが行われた。
卒業論文のテーマは「スポーツの地方興行と観客動員の地域の中での経済効果について」。日本ハムがかつて本拠地を東京から札幌に移転したことによる地域に与えた経済的影響などについて書いた。
[編集] プロ入り後
2011年4月17日、札幌ドームの千葉ロッテマリーンズ戦に先発でプロ初登板し、5回4失点(自責1)で初勝利。同期入団のルーキーの中で初勝利一番乗りとなった。5月8日の福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)に先発で1回を10球で3者凡退に抑えたが、左脇腹の違和感を訴えて降板。左内腹斜筋の筋挫傷で全治2~3週間と診断され、出場選手登録抹消となった。6月29日に一軍復帰。7月22日からのオールスターゲームでは2試合の登板を無失点に抑え、スカイアクティブテクノロジー賞を受賞。シーズンでは故障もありながらローテーションの5番手に加わり6勝6敗防御率2.69とまずまずの成績を挙げた一方で、投球イニングの少なさ(QS率は42.1%)や被打率の高さ、WHIPは1.47と課題も残した。
[編集] プレースタイル
オーバースローから最速150km/h[6]、常時140km/h前後のストレートとコーナーを突く制球力が持ち味であり、大学通算4年間でのWHIPは0.99であった。変化球はキレの良い縦のスライダー[8]とフォークボール、カットボール、ツーシーム(シュート)を投げ分ける、稀にチェンジアップ[8]、カーブも混ぜ[9]。ツーシームは高校3年の時に覚え、大学進学後に効果を発揮した。野球解説者の大沢啓二は、『サンデーモーニング』(TBSテレビ)にて「球威そのものはあまりないが、頭がよく駆け引きがうまい」と評し、メジャーリーグを代表する左腕投手のヨハン・サンタナは斎藤の投球を見て「打者へのアプローチが違う。すごい!いつの日かこっちでプレーするのを見たい」と語った[10]。
投球スタイルが早稲田実業学校の先輩・荒木大輔に似ているため、高校時代(特に本人が甲子園で優勝するまで)はメディアから「荒木2世」と呼ばれており、斎藤自身も荒木を尊敬しているという。また目標とする投手には、富士重工業硬式野球部のエース・阿部次男の名を挙げている[11]。
投球数が150球を超えても球速を維持できるスタミナを有する。高校3年夏の甲子園の決勝戦だけでなく、同年の西東京予選の決勝戦でも221球投げており、最終イニングとなった11回表には149km/hの速球を投げている。また、大学4年間で故障や病気で離脱したことはなく、練習を休んだこともなかった[9]。
高校2年までは、打たれたり味方が失策を犯したりするとマウンド上で感情を表に出すこともあったが、早稲田実業野球部のOBから「投手がマウンド上で怒って、何か得をするのか?」と言われ、以来マウンド上であまり表情を変えないようにしている[12]。また、高校2年春の甲子園で打ち込まれたことをきっかけに、早稲田大学の先輩である佐竹功年を参考に膝を折り曲げて腰の位置を強制的に落とす投球フォームに改造したことで球質が向上し[6]、これが夏の大会での優勝につながったという。フォーム改造に一役買ったのは宮本賢(当時早稲田大学野球部主将・後にプロでチームメイトになる)の助言であるという[13]。
打者としては、3年時の甲子園大会で六番打者を務め、甲子園通算2本塁打、大学通算1本塁打を記録。
プロデビュー戦から投球について吉井理人投手コーチから変化球が多い事を問題視され、直球の割合を増やす事を課題とされた[14]。
入団時の投球フォームについて2011年シーズン前に西本幸雄氏より「あいつの投げ方はあかん。左足が突っ立っとる。右腕が棒のようにかかっとるやないか。阪神の能見篤史のように、腕をしならせて投げるよう、指導せえ」と言われていたことを同年11月29日に行われた西本氏の告別式で梨田が明かした[15]。
[編集] 人物
家族は父・母・兄・祖母がいる。父はかつて群馬県立前橋工業高校や富士重工業硬式野球部に所属し、野球の練習に厳しかったという。3歳違いの兄は群馬県立桐生高校の一番打者として県大会ベスト4に進出している。
斎藤は早実入学当初、群馬県太田市の実家から約2時間かけて通学していたが、後に東京在住だった兄とアパートで二人暮らしを始めた。高校卒業まで兄は食事の世話をするなど斎藤の生活全般の面倒を見ていた。大学では入学時から野球部の安部寮に居住。
趣味は釣り。実家に帰った時には渓流釣りを楽しむ。
日本ハムに同期入団した乾真大と容姿が似ていると言われることがある。2011年1月12日に放送された『とくダネ!』(フジテレビ)では、斎藤のプロ初練習を生リポートするべくファイターズスタジアムに隣接する勇翔寮から生中継を行っていたが、斎藤より先に登場した乾が斎藤と間違われた。
[編集] 佑ちゃんフィーバー
[編集] 2006年
夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれて、斎藤が試合中にマウンド上で丁寧にたたんだ青いハンカチで顔の汗を拭く姿が話題となり、その端正な顔立ちも相まって「ハンカチ王子」と呼ばれるようになる。インターネット発祥と言われたこの愛称はその人気とともにマスコミによって一気に広まった。世間ではこの青いハンカチに対する関心が高まり、早稲田実業にはこのハンカチに関する問い合わせが殺到、Yahoo!オークションでは定価400円の同じ種類のハンカチに1万円を超える値がついた。百貨店ではハンカチの売り上げが急増し、ジャスダックに上場するハンカチメーカー・川辺の株が値上がりした[16]。後にそのハンカチはニシオ株式会社が製造・販売していた『GIUSEPPE FRASSON(ジョゼッペ・フラッソン)』というブランドのものだと判明したが、その時はすでに販売が終了していたため、その後ニシオはサンリオとタイアップし『幸せの青いハンカチ』と銘打ってハローキティの顔をあしらった青いハンカチを販売し約65万枚、約3億円を売り上げた。ちなみに青いハンカチを使う以前は黒木知宏の千葉ロッテ時代の背番号「54」入りのタオルを愛用し、高校に入ってから母親が近所の商店街で購入した青いハンカチを使うようになった。
この大会の早実の試合の平均視聴率(NHK)は、3回戦12.7%、準決勝戦18.1%と徐々に数字を上げ、決勝戦は1990年代以降で最高の29.1%、瞬間最高視聴率は37.1%を記録。翌日の決勝再試合も平日にもかかわらず23.8%、瞬間最高視聴率30.4%を記録。注目を集めたこの大会で優勝投手となった斎藤は連日マスコミに大きく取り上げられ、大会終了後の日米大学野球選手権大会の選抜メンバーに選ばれ渡米すると、以前はほとんど報道されることもなかった同大会の模様が連日報道され、試合も生中継された。帰国の際には関西国際空港に約600人のファンが集まった。また、高校卒業後の進路についての報道が過熱していたことから、9月11日に進路に関する異例の記者会見が開かれた。会場となった早稲田実業学校のホールには150人以上の報道陣が集まり、テレビでも生中継された。
9月30日から開催された『のじぎく国体』では、開催前から野球会場があった兵庫県高砂市に斎藤の出場に関する問い合わせが集まり[17]。早稲田実業学校の試合には連日観客が殺到、試合前日から徹夜組による長蛇の列ができた。試合当日には観客にケガ人が出る騒ぎとなり、入場制限が行われるなど厳戒態勢のもとでの試合となった。この大会に使用された高砂市野球場は、翌年の2007年に斎藤の愛称にちなんで『ハンカチメモリアルスタジアム』という愛称が付与された。
日刊スポーツ出版社発行の『輝け甲子園の星』など斎藤を扱った野球雑誌の売り上げが急激に伸び、週刊女性などの女性週刊誌の表紙を飾った。また、斎藤単独の写真集が発売され、斎藤をモデルにした曲『青いハンカチ~君がくれた夏の日~』がCD発売された。
「ハンカチ王子」という愛称は2006年の新語・流行語大賞のトップテンに入った。ただ、この受賞が日本学生野球憲章のアマチュア規定に抵触する恐れがあったため、言葉だけを表彰し斎藤の表彰式出席は見送られた。また、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標出願がなされた[18]。翌年注目を集めたゴルファーの石川遼には「ハニカミ王子」という愛称が付けられ、新語・流行語大賞を受賞している。
[編集] 2007年
斎藤が早稲田大学に進学し野球部に入部したことで東京六大学野球が注目され、それまでマスコミでほとんど取り上げられることがなかった大学野球が、斎藤が登板する試合を中心に大きく扱われるようになる。この年から、日本テレビが放映権を取得し42年ぶりに地上波で東京六大学野球中継が放送されることになった。
この年の春季リーグ戦は斎藤の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めてチケットぴあでの入場券前売りが実施された。4月14日の開幕戦は前年春の4倍となる約18,000人が詰めかけ、4月29日に先発した法政大学との第2戦では約28,000人を動員し、早慶戦以外では1992年以来の20,000人越えとなった。この日の夜に同じ神宮球場で行われたヤクルト-巨人戦の観客動員は29,654人で、東京六大学野球の観客数がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。この試合で従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。5月20日の明治大学との第2戦では観客が30,000人を超え、早稲田大学の優勝が決まった6月3日の早慶戦の第2戦では約36,000人の観衆が集まり立ち見が出るほどの超満員となった。満員になったのは1997年春の早慶戦以来10年ぶり。この観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、北海道日本ハム対阪神(札幌ドーム)に次ぐ動員数となった。この試合の平均視聴率はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録。
この春季リーグ戦の早稲田大学戦に訪れた観客の総数は11試合で約22万8000人、1試合平均2万727人集まり、前年度に比べ3倍近くに膨れあがった。この人気を受け、2008年から東京六大学野球連盟は史上初めて東京六大学野球のカレンダーとベースボールカードが発売された。
[編集] 2010年
斎藤が大学4年になりドラフト会議が近づくにつれて、再び多くの注目を集めるようになる。10月28日に開催されたプロ野球ドラフト会議は、TBSが全国ネットで生中継し夕方の時間帯にもかかわらず平均視聴率14.4%を記録。この年のペナントレースの最高視聴率が14.3%(巨人×広島・4月24日・NHK)で、それをも上回る視聴率となった。瞬間最高視聴率は斎藤の交渉権を引き当てた日本ハムの藤井純一球団社長(当時)のインタビュー中で17.2%。2007年の中田翔に続き斎藤を引き当てた藤井氏の黄金の右腕にあやかり、その後「GOD HANDグッズ」が発売された。
11月3日の早慶優勝決定戦は、神宮球場の収容人数35,650人に対し立見席が用意され、チケット販売枚数が36,000枚になり20年ぶりに完売となった。これによりマスコミ関係者には東京六大学野球連盟から大入袋が配られた。NHK総合によるテレビ中継は平均視聴率12.1%、瞬間最高視聴率は16.2%を記録。勝利投手となりヒーローインタビューの場で「最後に一つだけ言わせてください。」と切り出し、「いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です。」と語り、この発言が話題を集め、その年の新語・流行語大賞の選考委員特別賞を受賞。2006年の「ハンカチ王子」に引き続き2度目の受賞で、これは野球界において史上初。
11月6日に放送された『S☆1』に出演した應武篤良(当時早稲田大学野球部監督)が、斎藤の入学時に熱狂的なファンの一部による盗撮や寮の部屋の覗きといった行動があったことを明かした。
12月9日の札幌ドームでの単独入団会見には、平日にもかかわらず約8,000人のファンが駆けつけた(2003年の新庄剛志の入団会見は約2,000人)。この模様は情報番組『ミヤネ屋』で全国ネット生中継され、北海道の民放5局とNHK、衛星放送のGAORAでも生中継された。新人選手の単独入団会見は球団史上初。
[編集] 2011年
1月11日、千葉県鎌ケ谷市の合宿所『勇翔寮』に入寮する際、約500人のファンや報道陣が集まり、その様子がワイドショーで生中継された。ファイターズスタジアムでの自主トレの期間はスタジアムに連日約2,000人ものファンが押し寄せ、史上初めて観客席が開放された。さらに1月16日に行われた『新入団選手歓迎式典・交流会』ではスタジアム史上最高の約1万1000人(前年は512人)のファンが集まり、上空には取材ヘリが延べ8機飛ぶ中、ルーキーでは異例の入団記念グッズ(Tシャツ・フェイスタオル・ストラップ)が発売され販売開始約1時間で完売。球場のある鎌ケ谷市には大きな経済効果がもたらされ[19]、テレビ報道による同市のPRとしては約160億円の広告効果があった[20]。
2月1日からの沖縄県名護市での春季キャンプにも、那覇空港に1,000人以上が出迎え、キャンプ初日には400人以上の報道陣が集まり、その一挙手一投足が連日マスコミで報道された。このキャンプ期間中に名護キャンプ地を訪れた観客数は計2万7150人と、前年の1万1550人の2倍以上になった。
4月17日、先発でプロ初登板となった札幌ドームでのロッテ戦で、そのテレビ中継は放送権利を元々北海道テレビが持っていたことからキー局のテレビ朝日が当初放送予定だった番組を急遽中止しスタッフを派遣、「緊急生中継」として、斎藤の投球回を中心にローカル枠で放送した。デーゲームにもかかわらず、この試合の北海道地区における平均視聴率は29.4%、瞬間最高視聴率37.0%を記録。中継した北海道テレビのレギュラーシーズンの野球放送としては史上最高の視聴率をたたき出した。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2011 | 日本ハム | 19 | 19 | 1 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | 0 | .500 | 472 | 107.0 | 122 | 5 | 35 | 1 | 5 | 62 | 6 | 0 | 41 | 32 | 2.69 | 1.47 |
| 通算:1年 | 19 | 19 | 1 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | 0 | .500 | 472 | 107.0 | 122 | 5 | 35 | 1 | 5 | 62 | 6 | 0 | 41 | 32 | 2.69 | 1.47 | |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] 記録
- 初記録
- 初登板・初先発・初勝利:2011年4月17日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(札幌ドーム)、5回4失点
- 初奪三振:同上、1回表に岡田幸文から空振三振
- 初完投:2011年9月10日、対東北楽天ゴールデンイーグルス19回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)、8回被安打10失点4で敗戦投手 ※相手は田中将大
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(2011年)
[編集] 背番号
- 18 (2011年 - )
[編集] 登場曲
[編集] メディア出演
- 速報!スポーツLIVE (2009年11月8日)※初回放送のスタジオゲストとして大石達也と共に出演(当時大学3年)。自身初のスタジオ生出演で、代表に選ばれた『U-26 NPB選抜 対 大学日本代表』の試合に向けての意気込みを語った。「Q.1年後プロに行きたい」という項目に「○」の札を挙げ、公の場で初めてプロ野球へ進む意志を表明した。
- ドラフト後の2010年11月4日の記者会見当日に、『ニュースウオッチ9』→『報道ステーション』→『NEWS ZERO』→『NEWS23X』→『すぽると!』に生中継で出演。
[編集] 関連企業
[編集] 参考文献
- 斎藤寿孝・斎藤しづ子『佑樹~家族がつづった物語~』小学館 ISBN 9784093877169)
- 門田隆将『ハンカチ王子と老エース』、講談社 ISBN 9784062136846)
- 矢崎良一・鈴木洋史・山岡淳一郎・渡辺勘郎『新たなる聖地―甲子園から神宮へ―』竹書房 ISBN 9784812431177)
- 中野翠『斎藤佑樹くんと日本人』文藝春秋、文春新書 ISBN 9784166605682)
- 高部務・担当記者グループ『斎藤佑樹青春の軌跡』東邦出版 ISBN 978-4-8094-0617-1)
- 『斎藤佑樹投手「ハンカチ王子」パーフェクト・ブック』講談社フライデー編集部 ISBN 4-06-378817-2)
- 西宮野球倶楽部編『甲子園熱闘伝説 - 王貞治から斎藤佑樹まで』双葉社 ISBN 978-4-575-30065-9)
- 『甲子園のキセキ : 時代を超えた、高校野球、6つの物語』日刊スポーツ出版社 ISBN 978-4-8172-0264-2)
- ベースボール・マガジン社編『東京六大学野球栄光の軌跡 - リーグ誕生から斎藤佑樹まで』 ISBN 978-4-583-61485-4)
- 『東京六大学野球伝説 - 闘う男!斎藤佑樹いざ、神宮デビュー!!』宝島社 ISBN 978-4-7966-5791-4)
[編集] 脚注
- ^ a b c d e “ハンカチ卒業したかった・プロで同期追い越す…斎藤語る”. 朝日新聞 (朝日新聞). (2010年12月7日) 2010年12月24日閲覧。
- ^ 詳細は関西対早稲田実業延長15回引き分け再試合を参照のこと。
- ^ “極上の緊張感 全国高校野球選手権西東京大会決勝「早実×日大三」”. wasedawillwin.com (2006年7月30日). 2010年12月24日閲覧。
- ^ “343球・両エース譲らず、駒苫VS早実きょう再試合”. 読売新聞 (読売新聞). (2006年8月21日)
- ^ “早実が初優勝、4連投の斎藤13K…駒苫猛追及ばず”. 読売新聞 (読売新聞). (2006年8月21日)
- ^ a b c “高校時代の幻影に苦悩した投球フォーム”. 産経新聞 (産経新聞). (2010年12月10日) 2010年12月24日閲覧。
- ^ 日本ハム斎藤が誕生、背番号は18「最高の評価うれしい」 産経新聞(2010年12月6日)
- ^ a b 『アマチュア野球』第23号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、32頁。
- ^ a b 『アマチュア野球』第29号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、4-6頁。
- ^ 「ベネズエラのハンカチ王子」鉄矢多美子『Field of Dreams』日刊スポーツ(2007年01月18日)
- ^ 佑ちゃんが目標の先輩と対戦日刊スポーツ(2010年3月30日)
- ^ “「ハンカチ王子」からの脱却 人気で熱さ封印も「スマートにやりすぎた」”. 産経新聞 (産経新聞). (2010年12月11日) 2010年12月24日閲覧。
- ^ 和泉実(早稲田実業学校野球部監督)の手記による
- ^ 日本ハム・佑ちゃんに“直球増やせ指令”デイリースポーツ(2011年4月25日)
- ^ 「腕をしならせて投げろ」西本さん 斎藤に遺言あったサンケイスポーツ(2011年11月30日)
- ^ “佑ちゃんハンカチ ますます過熱”. 産経新聞 (産経新聞): p. 朝刊. (2006年8月28日)
- ^ 国体がやってきた ハンカチ王子に徹夜の列 神戸新聞(2006年10月26日)
- ^ 商標「ハンカチ王子」出願される
- ^ 「斎藤効果」に沸く鎌ケ谷=2軍改革の弾みに-プロ野球・日本ハム 時事通信(2011年1月13日)
- ^ 鎌ケ谷市のPR効果は160億円 佑ちゃんフィーバー放送は6日間で16時間53分 毎日新聞(2011年1月18日)
- ^ 斎藤佑樹選手とミズノ アドバイザリープロスタッフ契約を締結
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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