ハルウララ

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ハルウララ
英字表記 Haru Urara
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1996年2月27日
死没 (存命)
抹消日 2006年10月1日
ニッポーテイオー
ヒロイン
母の父 ラッキーソブリン
生国 日本の旗 日本北海道三石町
生産 信田牧場
馬主 (有)信田牧場
→横山貴男
(株)エムエイオフィス
調教師 宗石大高知
厩務員 藤原健祐
競走成績
生涯成績 113戦0勝
獲得賞金 112万9000円
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ハルウララ1996年2月27日 - )は日本の元競走馬。連戦連敗があまりに続いたため却って人気を呼び、ブームを巻き起こした。

経歴[編集]

誕生・デビュー前[編集]

ハルウララは1996年2月27日北海道三石町歌笛(現・新ひだか町三石歌笛)にある信田牧場で誕生した。場長の信田信義によると、幼少期から小柄で臆病な馬であったという[1]。信田はハルウララをセリ市に上場したが買い手がつかず[2][3]、信田牧場がみずから所有する形で競走馬となり、高知競馬でないと勝負にならないという理由から、高知競馬場調教師宗石大に預託した[4]。宗石は、ハルウララを引き受けたのは信田への義理からであったと述べている[5]。入厩当初のハルウララは鞍を装着しようとすると暴れる、腹帯を締めようとすると地面にひっくり返る、運動をさせようとしても動こうとしないなど非常に手のかかる馬であった[6]。宗石はみずからハルウララを装鞍に慣れさせることなどに取り組み、ある程度改善がみられたところで厩務員になったばかりの藤原健祐を担当厩務員に指名した[7]。ハルウララは次第に藤原にだけは懐くようになった[8]

連敗[編集]

高知競馬場

1998年11月17日に高知競馬の第1競走でデビューするも、5頭立ての5着に敗れた。その後も勝利を挙げることができず、2003年5月末の時点で連敗は87を数えた。この間、ハルウララは、蹄の疾患により1度出走を取りやめた以外はコンスタントに出走を続け、そのペースは年間20回ほどであった[9]。当時は1回出走すると6万円[† 1]の手当がついたため、ハルウララは1年に120万円ほどの出走手当を稼いだ。宗石によると、馬主に請求する預託料は年間130万円から140万円ほどで、ハルウララが年間15回しか出走することのできない体質であったならば処分を検討していたという[10]。宗石によると、高知競馬場の預託料が日本で最も安かったこともハルウララが現役を長く続けられた要因のひとつであった[11]。ハルウララは蟻洞に罹り蹄が腐ったことがあったが、それでも休むことなくレースに使われた[12]。なお信田牧場は2003年春にハルウララを引退させて乗馬[† 2]にするプランを宗石に示したが、宗石は臆病なハルウララは乗馬に適さないと判断し、「走れるうちは走らせてやりたい」という意向から横山貴男に馬主を引き継ぐよう要請し、現役を続行させた[14]

ハルウララブーム[編集]

2003年夏、ハルウララは連敗を続けていたことが話題となり、全国的な人気・知名度を獲得した。ハルウララの連敗に最初に注目したのは、高知競馬場の実況アナウンサー橋口浩二である[15][16]。橋口には実況にあたり、勝利を挙げたことのない馬について「今日のレースで勝てば、これがデビューから何戦目での初勝利になる」ということを調べてから臨む習慣があり、60連敗を超えたころからハルウララに注目し始めた。やがて「ハルウララを日本のジッピーチッピー[† 3]として売り出せば、高知競馬も少しは盛り上がるんじゃないか」と思い、周囲にハルウララのことを言い広めるようになった[17]

高知新聞の記者石井研は橋口から話を聞き、「記者の本能でネタになると思い」、取材を開始した[15]2003年6月13日、同新聞夕刊社会面にハルウララに関する記事が「1回ぐらい、勝とうな」という見出しで掲載された[18]。この報道を目にした、高知県競馬組合(高知競馬の主催者)の職員吉田昌史(広報担当)は高知競馬が財政状況の悪化から廃止の危機に瀕していた状況に鑑み、「何でもいい。人目を引くことをしないと」という思いから[15]、高知県競馬組合管理者の前田英博の許可を得て[19]、ハルウララに関する広報資料をマスコミ各社に送付した[15]。その結果、7月23日付の毎日新聞全国版に記事が掲載され[15]、さらに毎日新聞の記事が同日放送のフジテレビのテレビ番組『情報プレゼンター とくダネ!』で大きく取り上げられた[20]。この日を境にハルウララはさまざまなメディアによって取り上げられるようになり[21][15]、7月末に東京新聞が「リストラ時代の対抗馬」と評したのを皮切りに「負け組の星」として全国的な人気・知名度を獲得[15]。ハルウララの単勝馬券を「リストラ防止になる」「当たらないから交通安全のお守りになる」という理由で買う者が多く現れた[22][† 4](なお、同じ趣旨でブラッシングの際に抜けたたてがみや尻尾の毛が入ったお守りも発売された[24]が、動物虐待ではないかと批判を浴びて販売中止となり[25]、ヒノキ材でつくった絵馬に切り替えられた[26])。

連敗記録に世間の関心が集まったことについて宗石は、知人の9割が「勝ったらダメ」と言うとしつつ、「取材の方が来るようになって、以前より、より一層勝ちたいと思うようになった」と述べた[27]。また、「すべてを犠牲にしても、次のレースでとにかく『勝つ』」ための調教が行えないのかという問いに対しては、「やろうと思えば出来る」とした上で「それをやったら、1勝はできるかもしれんけど、故障する。ぼくは勝つために馬を故障させるような調教はしたくないんです」と答えた[28]。厩務員の藤原は、「ハルウララが「勝つ」馬を差し置いて高知競馬の人気者になるのは、やはり複雑な気がする」と述べ、「連敗記録が話題になってるけど、僕は勝ってほしいです、一度でいいから」、「ぼくらはやっぱり、馬に勝ってほしくて世話をしているわけだから」と述べた[29]。一方、信田牧場の信田義久は、「競走馬は勝つことで評価を得る世界。生産牧場としても負け続ける馬を生産したとしか評価は受けない」と述べ、「うれしくもない。高知競馬存続のための話題づくりに過ぎないのでは」と冷めた反応を見せた[30]。信田は、「ウララが負け続けていることを大きく報道されればされるほど、ヒロインの仔は高値じゃ売れなくなる。『どうせ走らないんだから』と足元を見られる」とも語り[31]、ブームに沸く人々に対し、「自分の懐が痛まなきゃ、何でもいえるわな」という言葉を投げかけた[32]

12月14日、100連敗を達成したレースが行われた当日は4年ぶりに5000人を超える観客(5074人)[33]が高知競馬場に入場し、33社、約120人の報道陣が取材に訪れた[34]。ハルウララの単勝馬券の売上額は、1つのレースにおける単勝馬券売上額としては高知競馬場史上最高額となる301万円にのぼった[34]。レース後にはセレモニーが執り行われ、感謝状とニンジンで作った首飾りがハルウララに贈呈された[35]。レース後には宗石による記者会見も行われ、その席で宗石はハルウララについて「まっこと、またかった(本当に弱かった)」と評し[36]、その魅力について「競走馬としては常に一生懸命走るところだが、単に動物して捉えた場合、正直なところない。プロが見れば10人が10人とも魅力はないと答えると思う」とコメントした[37]

武豊

2004年3月22日、106戦目のレースでは中央競馬のトップ騎手武豊が騎乗して出走[† 5]したことに注目が集まり、当日の入場者数(1万3000人)、1つのレース(ハルウララ出走レース)の馬券売上額(5億1163万円)[† 6]、1日の総馬券売上額(8億6904万円)はいずれも高知競馬史上最高記録を更新、ハルウララの単勝馬券だけで1億2175万円の売り上げを記録し[34]、関連グッズの売り上げ額はおよそ1000万円にのぼった[39]

入場者数の多さに対応するため高知競馬場は史上初となる入場制限を行い、ハルウララの馬券を購入するファンのために専用窓口を設置した(待ち時間は7時間近くに及んだ)[34]。レースの結果は11頭立ての10着に終わり、連敗記録を106に伸ばすこととなったが、レース後武豊は通常勝ち馬が行う「ウイニングラン」(ゴール後、馬場を1周すること)を行った[40][34]。ハルウララが出走したレースを生中継した毎日放送のテレビ番組『ちちんぷいぷい』の瞬間最高視聴率は19.9%、平均視聴率は平日における同番組史上最高となる12.2%を記録した[41]。武はこの日の騎乗について、自身が「チャンスがあれば乗ってみたい」と発言したことがきっかけで「競馬の本質を離れた大騒ぎ」が繰り広げられたことに嫌気が差し怒りすら覚えていたが、1万3000人もの観客を見て怒りが消え、「一度、乗ってみたい」という気持ちに立ち戻れたと振り返っている[42]。レース後武はハルウララについて、「『強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さがある』と僕は思っています。この気持はこれからも変わることはありません。しかし、高知競馬場にあれだけのファンを呼び、日本全国に狂騒曲を掻き鳴らした彼女は、間違いなく"名馬"と呼んでもいいと思います」と評した[43]

5月23日、ハルウララは出走したレースで2着に敗れた。これにより連敗は109となり、グレースアンバーが記録した108連敗を抜きハクホークイン(161連敗)に次ぐ日本歴代2位(当時)の記録となった[44]8月3日、高知競馬所属の半妹ミツイシフラワー、兵庫競馬所属の半弟オノゾミドオリとの対決が実現(結果は10頭中5着)。このレースの馬券は全国の地方競馬場で発売され、ハルウララの出走レースだけで(高知競馬における日曜日の1日売上額の平均を上回る)約7900万円の売上を記録した[45]。レース後関係者が記者会見を開き、翌2005年3月をもって競走馬を引退させると発表した[46]

馬主の手で栃木県へ移送される[編集]

2004年9月15日、同年3月に横山貴男から無償でハルウララを譲渡され[47]実質的な馬主となっていた安西美穂子[48][† 7][† 8]の手によって、ハルウララは栃木県黒磯市にある那須トレーニングファームへ移送された[50]

移送に至る経緯や移送当日のやり取りについては、宗石と安西との間で主張に食い違いがある。宗石は、引退レースを勝たせるための体力づくりをさせたいと主張する安西サイドと「高知競馬の僕らの手の中で出走させ、ファンの皆さんに姿を見せ、その中でチャンスがあれば勝つ」という方針を抱く自身との間で以前から対立があり話し合いの最中であったが[51]、9月15日午前に馬運車とともに安西が現れ、約2時間の押し問答の末、安西側の人間に「おまえの考えはどうでもいい、馬を出すのはオーナーの勝手だ」[51]、「警察を呼ぶぞ」[52]などと言われ移送に合意せざるを得なかったと主張している[51]。一方安西は、当時撮影中の映画『ハルウララ』への出演と引き換えに9月13日以降に放牧に出すことについて高知県競馬組合管理者の前田英博との間で合意が成立しており、宗石も「投げやりな言い方だったが、『好きにしてください』と言っていた」と述べ、同意は得ており突然の移送ではなかったと主張した[53]。なお、日本経済新聞記者の野元賢一は移送に関し合意があったかについて、「競走馬の移動の際に携行すべき『健康手帳』は、移送後も宗石調教師の手元にあり、後日に黒磯へ郵送された。必要な書類の受け渡しもない移送を、安西は『合意の上』と主張している」と指摘している[48]

安西は移送の理由について、「休養させ、いい状態で勝たせてあげたい」ことにあると述べ、宗石が「いろいろなしがらみがあり、仕事を背負い込んでいて、ゆとりがない状態だった」と主張して移送を正当化した[53]。安西はみずからが運営するホームページにおいても「ハルウララには慢性的な疲労が蓄積しており、中長期的に休ませることが必要」と主張[54]、さらに栃木県で行った血液検査の結果、白血球値が高いことや肝機能の低下が判明したとして、「高知競馬で走らせていれば競走生命が失われていた」、「回復まで中・長期の療養が必要」と述べた[55]。ただし移送後ハルウララに関するシンポジウムを開催したファンのひとりは、血液検査を行った獣医師から「2回目の検査が終わった後、『馬は元気なので高知に返すべき』と進言した」という証言を得たと主張している[55]

高知新聞の記者石井研は安藤の一連の行動について、安西が3月にハルウララの商標登録を出願したこと、8月にハルウララのグッズの権利を巡り高知競馬側に内容証明書を送り付けた事実、さらにハルウララのオーナー会員を募り、「引退までは月会費をニンジン代に使うと金を集めておきながら、財務内容は出資者にも明らかにしていない」事実を示した[56]うえで、以下のように述べている。

考えてもみてほしい。貧しい競馬場で弱い馬を走らせ続け、枯れ木に花を咲かせたのは調教師であり、厩務(きゅうむ)員たちだ。「花咲かじいさん」が満開に育てた後で無償でもらい、半年で700万円以上のグッズ権利金を手にし、連れ去った揚げ句に「高知競馬は馬を酷使している」。あんまりじゃない?と思うのは無理からぬこと。馬主側の財務内容こそ明らかにしてもらいたい。

【夕刊話題】使途不明?” (日本語). ハルウララ関連記事. 高知新聞 (2004年12月28日). 2010年1月19日閲覧。

高知へ戻ることなく引退[編集]

2005年1月3日、宗石と安西が話し合いを行い、宗石がハルウララの健康状態をチェックし、出走可能かどうか判断した上で同月中に高知へ戻すことで合意した[57]。翌4日、宗石と安西は栃木県内で記者会見を開き、1月中にハルウララを高知へ戻すこと、体調を見ながら予定通り3月に引退レースを行う予定であると発表した[58]。しかし2月になって安西は体調の回復が遅れていることを理由に復帰延期を発表[59]。結局そのままレースに復帰することなく、2006年10月にハルウララは競走馬登録を抹消された(NARが関係者に対して行った現役続行の意思確認に対し返答がなかったため[† 9][61]

この間、安西は2005年6月に森田健作を応援団長とするプロジェクト「ウララ1勝プロジェクト」を立ち上げ、同月中にハルウララを高知へ戻し2005年中に引退することを発表したり、同年10月に森田を発起人とする「ハルウララ基金」(引退後のハルウララが地方競馬を巡業するための寄付金を募るプロジェクト)の設立を発表するなどしたが、いずれも実現しなかった[62]。なお、ハルウララが移送された「那須トレーニングファーム」場長の広田修司は「高知競馬クラスなら勝たないとおかしいレベルまで仕上げ」たものの馬主サイドは「レースに復帰させず、突然どこかに持って行ってしまった」、「人間の都合で愛玩動物のように扱われ、可哀相」と述べている[63]

引退後[編集]

2006年10月、安西は千葉県勝浦市の保養施設にて「ホースセラピー開校記念パーティー」を開催し、11月に引退競走馬の再利用促進とセラピー活動を実施するためのNPO法人「おうちへ帰ろうクラブ」(代表安西美穂子)の設立を申請した(2007年10月認証[64])。安西はハルウララをセラピーのために使役していたとされるが、安西からセラピーを教育に活用するよう提案され実際にセラピーに接したという勝浦市の教育長は「ただ、ハルウララを見て触っただけという印象」とコメントしている[63]

2009年夏、ハルウララは安西の意向により繁殖牝馬となるべく北海道新ひだか町の牧場に移送された。ディープインパクトとの交配計画が報道され、安西が週刊新潮の取材に対し、「知り合いの調教師などから話があって計画が動いた。ディープインパクトが繋養されている社台スタリオンステーションから9月以前に内諾を得た。」、種付け料が900万と高額で、私個人にはとても出せない。小額のファンドを募ってみんなの夢に繋がればいいなあとも考えている。」と、募金を検討中であるとコメントしたこともあった[65]。しかしその後長期にわたり、生死さえ明らかではなくなった[66]

2013年4月頃、安西サイドは千葉県御宿町にあるマーサファームにハルウララを預託した[66]。しかし同牧場の関係者によると、半年ほどすると預託料が支払われなくなり、安西が牧場に姿を見せることもなくなった[67]。そして最終的にハルウララの所有権は放棄され[66]、マーサファーム側(ハルウララの余生を支援する「春うららの会」[68])に移った[66][67]

評価・特徴[編集]

身体面に関する特徴・評価[編集]

デビュー戦における馬体重は397キログラム[69]であり、体格的には小柄な馬である。宗石[70]と藤原[71]は初めてハルウララを見たとき、体が小さいという印象を抱いた。宗石は加えて繋ぎが細いのを見て、「年をとってもそれほど大きくならない」と感じたという[72]主戦騎手の古川はハルウララについて貧弱と評している[73]。ただし宗石によると小柄ではあるが丈夫な馬で、蹄の疾患により1度出走を取りやめた以外は休まずに出走し続けた[74]

精神面に関する特徴・評価[編集]

宗石[75]と古川[76]、藤原[77]によるとハルウララは臆病な馬であった。さらに藤原は神経質なところがあるとも評した[78]が、宗石によると神経の図太いところもあり、毎日のようにマスコミが厩舎を訪れても食欲が落ちなかったという[79]。さらに宗石によると、普段は臆病だが馬場に出るとなぜかリラックスするという特徴もあった[80]

宗石によるとハルウララには飽きっぽいところがあり、厩舎の周りを歩かせると2周するまでは素直だが3周目からは「歩きたくない」という態度をとったり、発馬機からスタート練習を1日2回以上やりたがらなかった[81]

レースぶりに関する特徴・評価[編集]

宗石によると、ハルウララはレースで手を抜くことなく、一所懸命に走っていた[82]。古川も同様の見解を述べている[83]。橋口浩二はレース途中で必ず見せ場を作り、実況で名前を呼ぶ機会があることを根拠に「一緒懸命走るんです。勝ちたくて、がんばっているんです」と述べている[84]。古川はハルウララのレースぶりについて、「行けると思ったときに、ピタッと、突然に止まろうとする」「直線に向いたら動かないこともある」とも述べており、その原因について「左の爪に裂蹄を発症し、コーナーで手前を変えると痛いときもある」と述べている[85]

宗石によると、レースで騎乗した際の古川文貴、遠藤五月による評価は「ハンドルもブレーキも利かない」というものであった[86]

競走馬名[編集]

ハルウララという競走馬名は信田牧場に頼まれて調教師の宗石が考案した。宗石によるとはじめは「メリージェーン」にする予定であったが、既に登録されていたことからハルウララに変更した[87][† 10]。宗石は「手のかかる馬なのでせめて名前くらいはかわいくてのんびりしたものにしよう、そうすれば少しは馬の性格も変わるかもしれない」と思い、日本放送協会 (NHK) が放送した連続テレビ小説天うらら』の主人公、川嶋うららからウララをとり、上にハルをつけた[89]

映画「ハルウララ」[編集]

森川時久監督。主な出演者は渡瀬恒彦賀来千香子高知東生忍成修吾七海まい。2004年2月末に製作が決定し[90]、同年8月末から9月にかけて高知県内でロケが行われた[91]。映画は2005年4月から全国公開に先駆けてと謳い高知県内の映画館で上映された[92]が、全国上映は実現せず、インターネット上での公開(2007年6月)、DVDの発売(2008年3月)に留まっている。2004年12月12日には映画完成を記念して高知競馬場内に常設ギャラリー「ハルウララ・インザムービーギャラリー」がグランドオープン(プレオープンは同年10月11日)し、撮影で使用した小道具やハルウララの等身大模型、馬房のセットなどが展示された[55]

関連商品[編集]

CD[編集]

  • ハルウララの詩(うた)―ただ、ひたすらに―(堀内佳、スターター吉田)※公式応援歌。99戦目のレース実況入り
  • ガンバッテるんだ!(嶋大輔
  • YOSAKOIウララ〜ハルウララのテーマ〜(リストラーズ)
  • ハルウララ賛歌(宮川大助)※106戦目のレース実況入り
  • 春うらら(古田三奈)※発売は2000年だが、ハルウララ人気に便乗して再発された。
  • 走れ、ハルウララ / ウララの気持ち(春風えり)

書籍[編集]

グッズ[編集]

Tシャツ[34][93]、帽子[34]、キーホルダー[34]、マグカップ[24]、タペストリー[24]、バッジ[24]、ぬいぐるみ(ハローキティが乗ったもの[25]や数量限定の特大ぬいぐるみ[94]がある)、米(全農高知県本部とパールライスこうちが発売した「ハルウララ米」)[95]、焼酎(宝酒造が発売した「ハルウララ焼酎」。ボトルにハルウララの写真が使用されている)[96]、写真付き駅入場券(JR四国が2004年3月から5月にかけて発売)[97]切手シート日本郵政公社とサポートKRA(高知競馬の関連団体)が共同で発売)[98]、お守り(ブラッシングの際に抜けたたてがみや尻尾の毛が入ったものであった[24]が、前述のように動物虐待ではないかと批判を浴びて販売中止となり[25]、ヒノキ材でつくった絵馬に切り替えられた[26])がある。

非売品としては、高知県交通安全協会が会員向けに製作した交通安全のステッカー[99][100]トリンプが発表した、素材の一部にハルウララの毛を使用したブラジャー「トリンプ頑張れ!ハルウララブラ」[101]がある。

血統[編集]

血統表[編集]

ハルウララ血統リファール系/パーソロン4×4=12.50%、Northern Dancer4×4=12.50%、Nasrullah5×5=6.25% (母内) )

ニッポーテイオー
1983 鹿毛
*リイフォー
Lypheor
1975 黒鹿毛
Lyphard Northern Dancer
Goofed
Klaizia Sing Sing
Klainia
チヨダマサコ
1977 鹿毛
*ラバージョン
Lover John
Damascus
Evening Primrose
ミスオーハヤブサ *パーソロン
ワールドハヤブサ

ヒロイン
1991 鹿毛
*ラッキーソブリン
Lucky Sovereign
1974 鹿毛
Nijinsky Northern Dancer
Flaming Page
Sovereign Pardao
Urshalim
ピアレスレデイ
1979 鹿毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
Princely Gift
Suncourt
イーストサイド *パーソロン
ミスハクリユウ F-No.12

両親ともビユーチフルドリーマー系。ただし父は種義〜オーハヤブサの流れ、母は第三ビユーチフルドリーマー〜オールスクエーアの流れであり、血統的にはかなり遠い。

母は中央競馬で11戦0勝。本馬同様390kg台の馬格に欠ける馬だった。ハルウララは初仔にあたる。弟や妹も小柄なものが多い。

近親[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ その後、高知競馬の財政状況悪化とともに出走手当は減額されていった(吉川2004、171-172頁。)。
  2. ^ 信田は、小柄なハルウララが産む仔は小柄になると予測し、小柄な馬は買い手がつきにくく牧場経営を圧迫するいう理由から、繁殖牝馬にすることは考えなかったという[13]
  3. ^ 連敗を続けたことで人気を集めたアメリカの競走馬。
  4. ^ 高知競馬場の券売機には単勝馬券に競走馬名を印字する機能がなく、競走馬名入りの馬券を求めるファンに応えるため、主催者は競走馬名とハートマークを彫ったハンコを用意した[23]
  5. ^ 同日行われた交流重賞黒船賞に出走したノボトゥルーに騎乗するため高知競馬場へ遠征したため、騎乗が可能となった。
  6. ^ ちなみに、メインレースの重賞黒船賞の売上額は2億2325万円であった[38]
  7. ^ 名義上の馬主は安西が代表を務めるエムエイオフィス。同社が新たにハルウララのオーナーとなった経緯について、のちにハルウララ移送に関与する競馬評論家白井透は調教師サイドからの強い要望に同社のオーナーである安西が応えたとするが、高知新聞は安西のほうから調教師に接近したとしている。後者の裏付けとして、同社のオーナー就任に際して、競馬組合が安西に「迷惑はかけない」との念書を書かせたという事実が明らかにされている(季刊高知23号)。
  8. ^ 安西は、自身が運営する団体「おうちへ帰ろうCLUB」の会員からハルウララを取材して欲しいと要望されたのをきっかけに、2003年7月に宗石と接触した[49]
  9. ^ NARでは1年以上出走していない競走馬の関係者に対し、年2回(4月と10月)、出走を継続する意思があるかどうかの確認を行っている[60]
  10. ^ 同名の楽曲があることを理由に申請を却下されたため変更したとの説もある[88]

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]