ハラルド・アートル

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ハラルド・アートル
基本情報
国籍  オーストリア
出身地 同・ツェル・アム・ゼー
生年月日 (1948-08-31) 1948年8月31日
没年月日 (1982-04-07) 1982年4月7日(33歳没)
F1での経歴
活動時期 1975-1978,1980
所属チーム '75,76,'77 ヘスケス
'78 エンサイン
'78,'80 ATS
出走回数 28 (19スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1975年ドイツGP
最終戦 1980年ドイツGP
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ハラルド・アートルHarald Ertl, 1948年8月31日 - 1982年4月7日)は、オーストリアツェル・アム・ゼー出身のレーシングドライバー、モータースポーツジャーナリスト。姓は「アーテル」と表記される事もある。

F1[編集]

1975年ドイツGPで"ヴァルシュタイナー・ブルワリー"チームからヘスケスを駆ってF1グランプリにデビュー、8位完走。

1976年はヘスケスワークスから出走するが、チームが体制を縮小したため苦戦を強いられる中、第9戦イギリスGPにてF1でのキャリアベストとなる7位で完走。第10戦ドイツGPでは決勝レース中に事故に見舞われた同郷のニキ・ラウダを炎上するマシンから救出するために自らのレースは棄ててマシンから降り、ブレット・ランガーガイ・エドワーズアルトゥーロ・メルツァリオと共に救助活動を優先させ賞賛を得る。

1977年シーズンまで在籍した後、1978年1980年エンサインATSからスポット参戦したが、予選不通過が多くF1決勝レースへの最終参加は1978年の地元オーストリア・グランプリとなった。

ツーリングカー[編集]

1977年のドイツレーシングカー選手権(DRM)にシュニッツァー・モータースポーツからトヨタ・セリカLBターボで参戦。1978年、BMW 320iターボを駆ってDRMチャンピオンに輝く。

1979年・1980年はザクスピードからフォード・カプリで出走。また、ニュルブルクリンク1000kmロータス・ヨーロッパで参加している。

1982年4月7日、操縦していた自家用飛行機のビーチクラフト ボナンザがエンジントラブルで墜落、死去した[1]。33歳没。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1975年 ヘスケスヴァルシュタイナー・ブルワリー 308 ARG BRA RSA ESP MON BEL SWE NED FRA GBR GER
8
AUT
Ret
ITA
9
USA NC
(24位)
0
1976年 ヘスケス 308D BRA RSA
15
USW
DNQ
ESP
DNQ
BEL
Ret
MON
DNQ
SWE
Ret
FRA
Ret
GBR
7
GER
Ret
AUT
8
NED
Ret
ITA
16
CAN
DNS
USA
13
JPN
8
NC
(21位)
0
1977年 308E ARG BRA RSA USW ESP
Ret
MON
DNQ
BEL
9
SWE
16
FRA
DNQ
GBR GER AUT NED ITA USA CAN JPN NC
(30位)
0
1978年 エンサイン/ザックス・レーシング N177 ARG BRA RSA USW MON BEL ESP SWE FRA GBR GER
11
AUT
Ret
NED
DNPQ
NC
(31位)
0
ATS HS1 ITA
DNQ*
USA CAN
1980年 D4 ARG BRA RSA USW BEL MON FRA GBR GER
DNQ
AUT NED ITA CAN USA NC
(38位)
0

(key)

脚注[編集]

  1. ^ 妻と息子も同乗していたが、重傷を負ったものの一命を取り留めている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]