ハヨーシュ・アルフレード

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にアルフレード・ハヨーシュと表記することもあります。
ハヨーシュ・アルフレード Swimming pictogram.svg
Hajos.jpg
選手情報
フルネーム Hajós Alfréd
ニックネーム ハンガリーのイルカ
国籍 ハンガリーの旗 ハンガリー
泳法 自由形
所属 Magyar Testgyakorlók Köre
生年月日 1878年12月30日
生誕地 ハンガリー王国の旗 ブタペスト
没年月日 1955年11月12日(満76歳没)
死没地 ハンガリーの旗ブタペスト
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獲得メダル
ハンガリーの旗 ハンガリー
芸術競技
オリンピック
1924 パリ 建築

ハヨーシュ・アルフレードHajós Alfréd 1878年12月30日―1955年11月12日)はハンガリーの競泳選手で建築家。 彼は第一回近代オリンピックアテネ大会の競泳種目の金メダリストでありハンガリー史上最初のオリンピック金メダリストである。また1924年パリオリンピック芸術競技の建築部門で銀メダル(金メダルは該当者なし)を獲得しており、近代オリンピック史上スポーツ競技、芸術競技の両方でメダルを獲得した唯一の人物である。単独の大会の全種目に占めるメダル獲得数の割合では彼を超える競泳選手はいない。

人物[編集]

ハヨシュはハンガリーブダペストユダヤ人の家庭に「アルノルト・グットマン(Arnold Guttmann)」という名前でうまれた。彼の父がドナウ川で溺死し、泳ぎが上手にならないといけないと痛感したのは彼が13歳のときである。彼は競技者としてのキャリアを始めるあたり、「ハヨーシュ」というハンガリー名(「ハヨーシュ」はハンガリー語で「船乗り」を意味する)を名乗った。

第1回アテネオリンピック[編集]

1896年アテネオリンピックが開催されたとき、ハヨーシュはブダペスト科学技術経済大学建築学の学生であった。彼は競技の参加を許可されたが、大学からの休学の許可を得るのは難しかった。彼が工科大学の学部長の下に戻った時、学部長はハヨーシュのオリンピックでの快挙を祝福しなかった。その代りに「私は、あなたのメダルに何の関心もありませんが、次の試験についての返答を聞きたい」と言った。

1896年のアテネオリンピックでは水泳種目は4月11日にアテネの外港都市ピレウスのゼーア湾で開催された。18歳のハヨーシュは非常に冷たい天候(水温摂氏12度)と4mの波が砕ける中で2つの金メダルを獲得した。100m自由形でのタイムは1分22秒2で1200m自由形では18分22秒1の記録である。 ハヨーシュは3種目すべてを制覇したかったが、500m自由形は100m自由形の直後、1200m自由形の直前であった。1200m自由形の前に彼は体に1センチほどの厚さに油を体に塗ったが、これが寒さ対策には全くならなかったことが証明された。彼はレースの勝利の後に以下のようにに告白している。「私の生きる意志が勝利への欲求を完全に克服した」と。オリンピックの勝利者を讃える晩餐会の席上で、ギリシャ王国コンスタンティノス王太子はハヨーシュに「どこでその素晴らしい泳ぎを学んだのか」と問うと、ハヨーシュは「水の中でございます」と答えた。翌朝アテネの雑誌「アクロポリス」は彼を「ハンガリーのイルカ」のサブタイトルで取り上げた。 [1] 彼は第一回アテネ五輪では最年少の優勝者である。 1895年と翌1896年、オリンピック以前に彼は100m自由形でヨーロッパチャンピオンであった。

陸上競技、サッカーハンガリー代表[編集]

ハヨーシュ・アルフレード Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Hajós Alfréd
ハンガリー語 Hajós Alfréd
基本情報
国籍 ハンガリーの旗 ハンガリー
生年月日 1878年12月30日
出身地 ブダペスト
没年月日 1955年11月12日(満76歳没)
選手情報
在籍チーム Budapesti TC
代表歴
1901-1902 ハンガリーの旗 ハンガリー 2 (0)
監督歴
1906 ハンガリーの旗 ハンガリー代表
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj


多彩な競技者である彼は、1898年のハンガリーの100m競争選手権でも優勝した。400mハードルと円盤投げのタイトルと同様にである。彼はまた1901年1902年サッカーハンガリー代表の一員としてプレーし、1902年10月12日にウィーンサッカーオーストリア代表との最初の国際試合をプレーしている。 [2] 1897年から1904年の間、彼はサッカーの審判を務め1906年には彼はサッカーハンガリー代表のコーチを務めた。

建築家として、1924年パリ五輪[編集]

ブダペスト科学技術経済大学卒業後、彼はw:Ignác Alpárの事務所で働き、のちにレヒネル・エデンと働くようになる。1924年、ハヨーシュは、スポーツ施設専門の建築家として、1924年のオリンピック芸術競技(コンペ)に参加した。ローバー・デジェー (彼は1908年ロンドン大会テニスで参加している)とともに考案したスタジアムのプランは銀メダルを獲得した。なお金メダルは「該当者なし」と審判されたため優勝である。 ハヨーシュがデザインしたスポーツ施設で最も知られているのは、ブダペストにあるドナウ川の中州マルギット島に建設された水泳競技場である。この競技場は1930年に建てられ、1958年2006年ヨーロッパ水泳選手権で、また2006年FINA水球ワールドカップで使用された。そして現在ではこの競技場は彼を顕彰し「ハヨーシュ・アルフレード水泳競技場(Hajós Alfréd Nemzeti Sportuszoda)」と呼ばれている。

1953年国際オリンピック委員会は彼にOlympic diploma of meritを授与した。1966年に国際水泳殿堂入り。1981年には国際ユダヤ人スポーツの殿堂入りを果たした。

彼の弟ハヨーシュ・ヘンリク1906年の夏季五輪で4x250m自由形で金メダルを獲得した。

彼による建築物[編集]

彼の当初のデザインはアールヌーヴォー折衷様式であったがのちにモダニズムに変わり、イタリア様式の影響を受けた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参照[編集]

  1. ^ http://www.hajosalfred.hu/data/AlfredHajos_Aphrodisias2005.doc
  2. ^ Alfréd Hajós”. www.eu-football.info. 2011年3月17日閲覧。