ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ

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イタリア戦線で偽装した戦車を検分するフィーティングホフ(1944年4月)

ハインリヒ・ゴットフリート・オットー・リヒャルト・フォン・フィーティングホフ・ゲナント・フォン・シェール(Heinrich Gottfried Otto Richard von Vietinghoff, genannt von Scheel, 1887年12月6日1952年2月23日)は、ドイツ軍人。最終階級はドイツ国防軍上級大将


経歴[編集]

ヴェストファーレン貴族の家系にマインツで生まれる。父親はプロイセン王国軍砲兵中将ハインリヒ・オットー・コンラート・フォン・フィーティングホフである。第一次世界大戦中の1915年に歩兵大尉に昇進。1917年に参謀本部付となる。戦後の1920年1月に、ベルリンで大佐の娘で工場主の未亡人と結婚した。1926年に少佐、1933年に大佐に昇進。さらに1936年に装甲兵少将、1938年に中将に昇進した。

第二次世界大戦が始まると、第V装甲軍団を率いてポーランド侵攻に従軍。1942年9月に第9軍司令官代行を務める。1943年に上級大将に昇進し、8月からイタリア戦線にある第10軍司令官に就任した。1944年10月から1945年1月まで、負傷した南西方面軍司令官アルベルト・ケッセルリングに代わって指揮を執った。その後クールラント軍集団司令官に転じ、1945年3月からイタリア戦線のC軍集団司令官に任命された。1945年4月末、連合軍と交渉し、4月29日にカゼルタで5月2日正午を以て指揮下の部隊を降伏させることに合意した。イギリス軍の捕虜となり、その後2年半の捕虜生活を送った。

戦後はドイツの再軍備問題に携わった。1950年10月には西ドイツ首相コンラート・アデナウアーの諮問を受け、西ドイツの欧州防衛に対する貢献についてのヒンメロート覚書作成の一人になっている。しかし間もなくバイエルン州プフロンテンで死去した。

外部リンク[編集]