ハイリゲンシュタット (ウィーン)

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Heiligenstadt/ハイリゲンシュタット
紋章 位置
Wien Wappen Heiligenstadt.png
Karte Wien-Heiligenstadt.png

位置: 北緯48度15分18秒 東経16度21分30秒 / 北緯48.25500度 東経16.35833度 / 48.25500; 16.35833

ハイリゲンシュタット(ドイツ語: Heiligenstadt)は1892年まで独立した基礎自治体として存在し、現在はウィーンデープリング(ウィーン19区)を構成する10地区のうちの1地区である。

地理[編集]

ハイリンゲンシュタットはドナウ運河に接する平坦な地で、北西側のレオポルドベルクへ伸びる細い土地で形成されている。地区の面積は219.46ヘクタールで、北側はヌスドルフ(Nußdorf)とヨーゼフドルフ(Josefsdorf)に接し、西側はグリンツィング(Grinzing)、南側はウンターデーブリング(Unterdöbling)にそれぞれ接している。プロプスガッセ(Probusgasse)はハイリンゲンシュタットの中心となる大通りとなっている。

歴史[編集]

地名の由来[編集]

地名となっているハイリゲンシュタット(聖なる街)はキリスト教が伝わる以前からこの地が、聖なる地であることを示唆している。ハイリゲンシュタットが最初に文書に記録されたのは1120年に聖ミカエル(St. Michael)に言及するものであった。ミカエルはハイリゲンシュタットの紋章にも描かれている。12世紀後半に書かれたSanctum Locumにおいて初めて言及されているが、どこの場所が神聖な場所なのかは不明である。カトリック聖人であるノリクムのセウェリヌス(410~482)がかつてこの地で暮らしたと言う説には反証があげられている。

先史時代から中世まで[編集]

ハイリゲンシュタットに最初に人が住み始めたのは5,000年以上前とされている。古代ローマ期の居住跡も発見されている。1872年、この地域のものであるとされ証明されたリーメスの一部である塔の壁が発見された。古代ローマの共同墓地も聖ジェームス教会近くで発見され、6世紀頃のアヴァール人の墓地も発見されている。900年頃からフランク人が続いてやってきて、最初の教会を含む住区が、現在のプフォー広場付近に集まっていた。彼らは農業を行い大部分はそれを糧にして、ドナウ川(現在のハイリゲンシュタッター通り付近。)でカニや魚などの漁も行っていた。ワインも作られており、ワインセラーがハイリゲンシュタッター通り沿いの丘の側から発見されている。クロスターノイブルク僧院1250年頃、この地で葡萄園を所有していた。1304年、ヴァインハート=フォン=パッサウ司教は教区の司祭の死後、ハイリケンシュタット教区の僧院の権利を与えた。中世、ハイリゲンシュタットは豊かな地の一つであった。

1318年の文書ではこの地方随一とされた。ウィーンやハイリゲンシュタット郊外の町は15世紀から16世紀に大きな暴動を被っている。マーチャーシュ1世1484年ハイリゲンシュタットを荒廃させ、1529年にはオスマン帝国による第一次ウィーン包囲での略奪行為によって教会は大きなダメージを受けた。しかしながら、1534年にはデープリング、グリンツィング、ハイリゲンシュタットなどこの地の教区に属する住民たちの寄付によって再興が可能となった。

中世以降から19世紀[編集]

宗教改革時にはハイリゲンシュタットの大部分では攻撃を受けなかったが、1683年第二次ウィーン包囲で住民は犠牲となった。多くのハイリゲンシュタットの住民は虐殺され、Blutgasse(血の通り)という名は虐殺を思い起こさせる。住民も土地も同様に荒廃しきってしまった。ハイリゲンシュタットの経済は、18世紀まで回復しなかった。回復する切っ掛けは18世紀後半に温泉を使った公共浴場の建設であった。毎日、300人ほどの人が浴場や隣接するレストランを訪れた。しかし、19世紀半ばには温泉は涸れてしまい、浴場があった場所には公園が開かれた。19世紀、温泉が無くなったがハイリゲンシュタットは再び名声を得て、夏の避暑の目的地やウィーンの多くの富裕層の居住地となった。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、この地に住んでいる時に、ハイリゲンシュタットの遺書を書いている。1851年にウィーンの行政区再編が始まり、ホーエ・ヴァルテ地区が設立され、1873年にはハイリゲンシュタット墓地が設立されている。

ハイリゲンシュタットは18世紀から19世紀にかけて急成長した。1795年には3つの通りに60戸470人だった人口が1832年には94戸677人になり、1870年には244戸3,393人となった。1890年には工場も開かれ、人口は5,579人に達した。60年間で戸数は3倍以上になっている。6,000㎡のハイリゲンシュタット池は住民の生活用水や、建設ブームによって犠牲となっていた。その結果、汚染の問題となり1920年代まで続く。

ウィーンとの併合後[編集]

1892年、ハイリゲンシュタットは公式にウィーン市に周辺のジーヴェーリング(Sievering)、グリンツィング(Grinzing)、オーバーデーブリング(Oberdöbling)、ウンターデープリング(Unterdöbling)、ヌスドルフ(Nußdorf)、カーレンベルガードルフ(Kahlenbergerdorf)と共に併合された。1898年オットー・ワーグナーによる鉄道駅カイザー・フランツ・ヨーゼフ鉄道と、1870年に運行を開始したウィーンシュタットバーンの乗り換え地点として開業している。今日、駅はウィーン中心部やクロスターノイブルクへ向かう路線バスバスステーションとしても使われている。鉄道路線はウィーン地下鉄U4がウィーン・ミッテ駅方面からウィーンSバーンS40がフランツ・ヨーゼフ駅から、S45がヒュッテルドルフ駅からそれぞれ結ばれており中心部への利便性が高い。 第一次世界大戦に続いて、社会民主主義の市政府は状態が悪い労働者階級の住環境改善のため、手頃な価格の住宅建設の政策を履行した。政策による巨大な団地であるカール=マークス=ホーフが建てられた土地は12世紀頃船が通る十分深いドナウの一部で、後に果物や野菜の菜園が立地していた。建物は1382戸でオットー・ワーグナーの弟子やカール・アーン、ウィーン市の技術監督により建設されている。1934年に発生したオーストリア内戦で謀反の労働者がシェルターに使った。葡萄栽培が盛んな地であるが、工場の立地も進んだ。

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