ハイマン・G・リッコーヴァー

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ハイマン・G・リッコーヴァー
Hyman George Rickover
Hyman Rickover 1955.jpg
1955年撮影
渾名 原子力海軍の父
生誕 1900年1月27日
ポーランド マクフ郡
死没 1986年7月8日(満86歳没)
バージニア州 アーリントン
所属組織 United States Department of the Navy Seal.svgアメリカ海軍
軍歴 1918 -1982
最終階級 海軍大将
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ハイマン・ジョージ・リッコーヴァーHyman George Rickover, 1900年1月27日 または 1898年8月24日 - 1986年7月8日)はアメリカ海軍の軍人。原子力潜水艦の開発、配備を推進したため「Nuclear Navy(原子力海軍)の父」と称された。彼の連続63年におよぶ軍務は合衆国の軍人の中で史上最も長い。ポーランドユダヤ人出身。

若年期[編集]

ハイマン・リッコーヴァーはロシア支配下のポ-ランドで、エイブラハム・リッコーヴァーとレイチェル・リッコーヴァー(マクフマゾビェッキーのユダヤ系家系)を両親に生まれた。彼の一家は反ユダヤ主義の大虐殺であるポグロムから逃れるために、1906年に、彼の両親と米国に移住している。; 数十年後、マクフマゾビェッキーの残っているユダヤ人のコミュニティ全体が殺されるか、さもなければホロコーストの犠牲になっている。 リッコーヴァーの肉親は最初マンハッタンのイーストサイドに居住し、2年後シカゴのローンデールに居を変えた。そこで、リッコーヴァーの父は仕立て屋として仕事を行った。 彼は9歳で1時間に3セントで働く職を得た。その後食料品を配達の仕事をして、14歳で中級学校を卒業した。 シカゴのジョン・マーシャル高校に在学中、リッコーヴァーはウエスタンユニオン電報を配達しているフルタイムの仕事に従事した。この期間、米国の下院議員アドルフJ. Sabathの知己を得た。 1918年に優等で同校を卒業した。彼の推薦により米国海軍兵学校を受験、見事合格した。

第二次世界大戦のキャリア[編集]

1922年6月2日に540人の海軍兵学校生徒中、107番目の成績で卒業、幹部候補生になり、1923年6月21日に機関科士官に任命された。この後コロンビア大学で学位を取得し、海軍大学院大学の1年を経て電気工学の中で理学修士(M.Sc.)を得た。この後、戦艦ネバダ(BB-36)に乗船勤務を命ぜられた。コロンビア大学では彼は、後に妻となるルースD.マスターズと出会っている。 1933年ペンシルベニア州フィラデルフィアの海軍素材の検査官の事務所に勤務しているとき第一次世界大戦時のドイツ海軍提督ヘルマン・バウアーの著書 "Unterseeboot(潜水艦)"を英語に翻訳した。同書は米国で潜水艦勤務のための基本的な教科書になっている。1937年6月に、彼は掃海艇USSフィンチ(AM-9)の士官として勤務し、その年の7月1日に、海軍少佐に昇進した。その後フィリピンのカビテ海軍工廠に勤務を命ぜられ、1939年8月15日エンジニアリング局の電気の部門の副責任者として勤務した。1942年4月10日に、第二次世界大戦への米国参戦後、真珠湾に転勤となった。 戦争末期の電気部門の研究で、1954年1月11日タイム誌の表紙を飾っている。

海軍原子炉と原子力委員会[編集]

1946年に、潜水艦の動力に核分裂の際発生するエネルギーを利用する計画が立ち上がった。 同じ年に海軍の艦船局のトップになった時、戦時の上司、アール・ミルズ提督の推薦を得て企画全体の副マネジャーとしてオークリッジに勤務した。

マンハッタン計画において知り合ったロス・ガンフィリップ・エーベルソンらの物理学者と交友を進めるにつれて彼は核を艦艇の推進動力として利用する利点を確信するようになり、アルビン・M・ワインバーグとの勤務を命ぜられた。

1949年2月に、彼は原子炉開発の部門、原子力委員会の要請により、艦船局で海軍原子炉開発の責任者を命ぜられた。かれは商業用発電所とともに原子力潜水艦ノーチラス号の開発も担当した。 1950年代の初期に、メガワットのスケール原子炉を開発した。これはノーチラス号の推進プラントのためのプロトタイプとなった。 原子炉の設計のために必要であった基本的な物理学データは未完で、原子炉設計は、まだ更に開発される必要があったが彼は一つ一つ問題を解決していった。1958年に中将に、1973年には大将に昇進した。ユニ-クな性格、政治的コネ、責任感、海軍の原子力化推進への深い知識のため、彼の軍人としてのキャリアは、米海軍最長の63年(1918-82年)を記録している。この間、後に大統領となるジミー・カーターを部下に持ち、1953年にカ-タ-が家業のピ-ナッツ農園をつぐため、大尉で退役するまで彼を鍛え上げた。このときの経験を、カーターは自伝『なぜベストをつくさないのか Why not the Best?』に記している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]